色褪せた夏
時が経つにつれて記憶は薄れていく。
形のないその「なにか」の形は時を経つにつれ分からなくなっていく
掴もうとすればするほどに消えていく。
アパートの一室、これといって何もない。当然、彼女自身特別目立ったこともしていない。
何もないまま明日になり、何もないままその明日も過ぎる。
彼女は氷菓を冷蔵庫から取り出して、空袋を雑にゴミ箱へ投げた。
ゴミがきちんと入っているかも見ずに氷菓を持ったままベランダへ向かった。
桜の花は散り、道路には抜け殻のように茶色くなった花弁が乱れていた。
氷菓を口に放り込んで少し食べると驚いた。
昔食べたものよりも味がだいぶ変わっている、
時代が目まぐるしく変わっていることを実感した
飛ぶように過ぎていく日々の中で彼女だけがあの時、あの瞬間に取り残されていたのだ。
灰色の薄暗い空を見上げながら彼女は物思いにふけた。
高校生最後の夏、彼女は部活と勉強にいそしんでいた。
部活が終わると急いで家に帰り勉強をする、
机に勉強道具を散らかしたまま寝てしまうこともあった。
夜遅くまで勉強して、朝も早く起きて勉強。
何も代わり映えしない日々が続いていた中で一つの変化が起きた。
男子が転校してきた。夏が終わりかけて受験のムードに向かっている時期、という事も相まってクラスではかなり話題になった。
先生の話も終盤に差し掛かった頃、転校生の紹介に話題が移る。
教室に入った彼の顔を見た途端、女子達は残念そうな顔をした。
それもそうだろう、なんせ特に突っ込みどころの無い顔、普通の身長。
なにか指摘するとしたら、周りの男子と違ってだいぶ落ち着いていることぐらい。
でも彼女はなぜか彼にとても惹かれた。
その日は勉強に身が入らなかった、ボーっとスマホをいじっていると、
家のチャイムが鳴った、確か頼んでいた洋服がもうすぐ届く予定なので
期待に胸を膨らませ、思いっきりドアを開けた。
開けた瞬間、彼女の頭は失望と驚きであふれて、飽和した。
転校生の男がいる。向こうもかなり驚いている。
なぜ転校生が私の家に来ているのだろうか、なぜ私の家へ訪れたのだろうか、
火山の噴火のようにあふれ出た疑問は失望と共に喉を伝って腹におさまった。
数秒間見つめあって、先に我に返ったのは彼女だった、
「あ、えっと…こんばんわ。何か用かな」
数秒の間があった後に彼が答えた、
「昨日隣に引っ越して来ました。短い間ですが、よろしくお願いします。」
そういった後に深く頭を下げた。
渡された手土産の中には大量の食品が詰まっていた。
お礼を言うと、素早く扉を閉めた。
更に勉強に身が入らなくなって、すぐに寝ることにした。
早朝、パッとしない気持ちで玄関の扉を開けると彼がいた、
正面から扉を開けて出てきた彼と正面から目が合った。
なんとなく声をかけてみることにした。
「おはよう、朝早いんだね。よかったら一緒に行かない?」
今度はすぐに返ってきた。
「あぁ、はい是非。」
彼とはよく話が合った。
話を聞く限り、子供の頃から親の都合で転校を繰り返しており、
新しい学校へ行くたびに一から友人関係を作っていたため、
知らない人と話すことには慣れていたようだ。
それもそうだ、近所に住んでいるというだけで、
よく知りもしない女子と一緒に登校するなんて普通なら気が引けるだろう。
彼は思ったよりも話上手でよく笑う人だった。
そこから仲が深まるのにそう時間はかからなかった。
彼の話には新しい知識が沢山あった。
どこかも分からないような所の名物、
きっとあったであろう夏の大冒険の話。
目をそむけたくなるような惨い世の中のことも、
沢山のことを2人で話した。
彼女が落ち込んでいるときに彼はよく言った。
「世の中にある不条理を受け入れて暮らすのはそう簡単なことじゃないんだ。でも、挫けそうになっても、諦めそうになっても、
決して負けちゃダメだからな。形に残るものじゃなくても、
大して必要じゃないようなくだらないことだって、
色褪せないように、消えないように守らなきゃいけない、
それだけがちっぽけなが僕らにできる唯一のことなんだから」
その言葉は傷ついた彼女の心を優しく包み込んだ。
「挫けたときに隣にいるのが君なら私は幸せだな」
彼からの答えはなくて
秋風に吹かれた頬が少し冷たくなった。
そんな話をした次の日の朝、玄関を開けても彼はいなかった。
学校にもいない。
授業が一通り終わり、一人で家へ帰っていると後ろから声がした。
聞きなれた声、彼の声だと分かるのに時間はいらなかった。
私が口を開く前に彼が口を開いた。
「昨日の答えまだ言ってなかった!」彼の肩は上下に揺れていた。
忙しなく息を吐きながら叫んだ。
「君がもし、三年後、同じ思いなら。変わらず僕を好きでいてくれるのなら、きっと迎えに行くから!」
少しの間息を整えた後静かな声でこういった
「ずっとずっと好きだよ」彼の声は少し震えていた。
その日のうちに彼は異郷の地へ旅立って行った。
手のひらに冷たい水滴が落ちてきて我に返る。
幼さの消えた彼女の顔からは深い悲しみが溢れていた。
食べ終わった氷菓の棒を加えながらベランダから戻りテレビをつける。
ニュースがやっていた。ここらへんで交通事故が起きたらしい。
「昨夜未明、○○市の交差点で事故が発生しました。被害者はーーーさん20代男性、意識不明の重体です」
脳が目に入る情報の全てを拒絶するように何も考えられなくなった。
呆然と立ち尽くして祈ることしかできない自分を責めた。
形になった綺麗なままのあの思いは大きく音を立てて崩れた。すごい勢いでフラッシュバックする彼との想い出の先の美しい記憶は涙で濡れていった。
ねぇ君は覚えているのかな?
二人で紡いだ1輪の言の葉は天に上って無様に砕け散った。