錆びた瓦が動かぬ証拠……?
劇中に出てくる京都市営地下鉄の延伸の話は、今でもどうなるやら読めない状態です。
伸びてくれれば便利なのでしょうが……。
そもそも、問題の事件はどのような事件だったのか。そのあたりをかいつまんで話してみると、次のような具合になる。
ちょうど一年前の同じころ、二条城にほど近い住宅街の町家で早朝、その家に住んでいた女将の八十近い義父、小見六郎の絞殺体が、通いのハウスキーパーによって発見されるという事件が発生した。押し込み強盗にしては金品や貴重品の類が手付かずだったことから、当時、まだ亡夫の遺産を整理中で、元の百万遍の家にいた菅谷親子は知らせを聞くなり、ある人物がくさいと、その名前を捜査陣へと告げた。
女将にとっては義弟にあたる不動産ブローカー、小見彰である。
彰はこのころ、市営地下鉄の洛西ニュータウン延伸に当て込んで行った十数年来の不動産投資が焦げ付いて、すっかり首が回らなくなっていた。そこで、長らく電力会社の技師長を勤め、二条城傍に買った隠居宅で、退職金を元手に悠々たる老後を送っていた父親へ資金的な協力を仰いだものの、おざなりな投資を行った罰が当たったのだと資金提供はけんもほろろに断られ、その直後「あの頑固親父、今に見てろ」と、移転間もない「ひさご」のカウンターで深酒にくだを巻いていたのを、菅谷親子はよく覚えていたのだった。
殺害動機は十分と、所轄の中京署はさっそく彰を引っ張り出して取り調べ、死亡推定時刻の前後のアリバイを、彼の証言をもとに洗ったのだが、これが裏目と出た。たしかに事件当日の午後七時過ぎ、最後の相談と思って彰が父を訪ねたのは事実で――新聞代を集金に来た新聞店の青年が入れ違いに出る彰と、なんのかんのとは言いながら見送りに出た父親の姿を見ていたのだ――あったものの、その後すぐに、彰はタクシーを拾って三条京阪から特急で淀屋橋へ出て、翌朝まで同業の面々とハシゴ酒をしていたことが、タクシーや店の伝票、同業者の証言で明らかとなっていたのである。
これらが決め手となって無罪放免となった彰は、警察へ引っ張られるきっかけを作った菅谷親子を咎めもせず、ひとまずは淡々と、父の葬儀を取り仕切り、親類や知人連の涙を誘った。
ところが、通夜も済んで、あとは霊柩車が出るばかりとなった段で、黙とうをささげている最中、恵一が薄く開けた瞼の隙から、こんなものをみたのだという。
「――あいつ、みんなが目をつぶってるのをいいことに、薄ら笑いをしながら霊柩車を見てたんだ! けど誰も、そんな話は信じてくれなくって……」
「にわかには信じがたかったんですけれど、通夜振舞いの支度をしていた時、すれ違いざまに義弟がふっと、妙な笑みをもらしたような、そんな覚えがあったんです。それでそのうちに、ひょっとしたら義父の死には、何か仕掛けがあるのではないかと……そう思ったのです。鴨川さん、あなたはどう思われます」
話を聞き終えた浮音は、火照った顔をのぞかせながらしばらく考え込んでいたが、酔いも手伝って気の大きくなっていたためか、この一件、万事お任せください、と自信たっぷりに言って、親子をひどく感激させ、再び盃を受けるのだった。
すっかり出来上がった状態で店を出ると、浮音はまず、事件の全容を改めて知ろうと考えた。そこで、大学新聞「京国大タイムス」の記者をしている幼馴染の女子大生・沢村瑞月へ事情を伝えて協力を仰ぐと、翌日から三人がかりで、図書館におかれた各新聞の縮刷版と格闘を始めたのだったが、情勢は極めて、浮音たちに不利だった。
「――あかんなぁ。こら完璧なシロやで。こっからひっくり返すンは……」
ピースをふかしながら壁を見つめる浮音の横で、OLのようなオフィスカジュアルのパンツルックに身を包んだ瑞月が慣れた調子で、
「オセロの裏表を返すようにはいかない。そう言いたいんでしょう」
「ごもっともで……」
幼馴染の器用な返しを受け取ると、応接間の壁に画鋲で留めた、縮刷のコピーを時系列順に貼り付けた大きな模造紙を前に、浮音は煙突のように縦向きにくわえたピースをふかしながら、隣で腕を組む瑞月を一べつした。新聞とは別に、追加で探した官報記載の判決文なども参考にして事件を時系列順に整理したのまではよかったが、そこには彰の有罪を証明するような一分の隙も見当たらず、浮音はただただ頭を抱えるより仕方がなかった。
「じゃ、まるっきりシロの要素しかないっていうのかい」
「ああ、どこを見てもシロ、シロ、シロ。猫でもどっかにゃブチがあるのが、今度の事件にゃ一つとしてそれがないっ。お手上げや……」
有作の淹れたコーヒーをなめながらぼやく浮音に、有作と瑞月は気まずい表情を浮かべたが、すぐに浮音は顔色を変え、
「だがな、却ってそれが臭いんや。よう考えてみぃ、ただでさえ金に困っとった男が、どうして金の心配もせんと葬儀の段取りをトントンとできたのか? その辺、ちっと引っかからへんか?」
「あ、そういえば……」
浮音の指摘に、有作は小見が葬儀を取り仕切った話を思い出すと、瑞月もつられて、確かに変よね、とつぶやく。
「そのうちに遺産が入り込むといったって、ただでさえ困っていた人が、どうしてそんなに、金銭の糸目をつけずに葬儀を出せたのか……」
「それにもうひとつあるで。親父ともめて、その帰りしな『ひさご』でワァワァ言ってたような男が、疑惑を向けられるきっかけをつくった菅谷の女将さんらにひどく寛容やったんは……何のかんのとは言いながらも、遺産分与の上では権利がとくに強いのを知ってのことだったとしたら?」
「――振る舞いには疑わしい点があるわね」
瑞月の指摘に、浮音はそういうことォ、と自信満々に返す。
「まあ、要はイエにこもっとってもしょうがない、ってわけやな。ちょっと恵一くんに電話して、開けてもらおか」
「開けるって、どこをだい?」
腰に巻いていたカフェエプロンをほどきながら有作が尋ねると、浮音はにこりと笑って、
「現場に決まってるやろ。今は女将さんらが受け継いで住んでる二条の家の、お祖父さんの亡うなってた部屋や……」
と、指にからげた車のキーをくるくると回すのだった。
そして、話は冒頭へと戻る。電話越しに、こたつと電気ストーブを一度に入れたせいで茶の間のヒューズが飛んで困っていると聞いて、浮音たちは修理がてら、急ぎ足で二条へ出かけた。京都のように古い家の多い場所では、今なら区画ごとにブレーカーがついているべきところが、電力会社のつけた契約ブレーカーのほかは、交換が要り用なヒューズ式の配電盤のままという家も多く、こうした光景はまだちょくちょく見受けられるようだった。
ともかく、有作に真新しいヒューズに替えてもらい、茶の間の電気を復旧させると、恵一は浮音たちへお茶を出してから、事件以来滅多に開けることのないという、家の二階にある六郎の部屋へと一行を上げたのだった。恵一から部屋のあちこちを紹介され、浮音と瑞月はそれを逐一手帳へ控えていたが、そのうちに、換気のために開け放たれた窓から見える、屋根瓦の上にまだらににじんだ不思議な模様に気付いた浮音が、どっかに釘でも出とんのかねぇ、とつぶやいた。鉄の錆がそのまま染みついたような色味が、瓦の上に半畳ほどの大きさで広がっているのだ。
「これ、井戸水の錆が浮いてるんだよ」
「井戸水? でも、どうしてこんなとこが錆とるん」
返ってきた答えに浮音が首をかしげると、恵一は簡単に、錆の出どころを話しはじめた。
「うちは裏に井戸があって、そこからモーターポンプで水を汲んでるんだけど、おじいちゃんがよく面倒くさがって、飲み残したお茶とか、冷めた湯たんぽのお湯をここから捨ててたんだ。で、その跡が見つかっちゃ、よく母さんやハウスキーパーのおばちゃんに怒られてて……」
今は亡き祖父のことを思い出しながら、どこか物憂げに話を紡ぐ恵一に、三人は目元の緩みかけたのを覚えたが、そのうちに浮音が、
「恵一くん、事件のあった去年の今頃はずいぶん冷えてはったな。そうなると朝方、お祖父さんの遺体が見つかったときにも、屋根の上には当然、その温くなったお湯を捨てたのが凍り付いたような跡があったんとちゃうの?」
と、妙なことを訪ねたので、有作と瑞月はどうしたの、と口を挟んだが、恵一が顔色を曇らせながら震える声で、
「それのせいで、あいつの無罪が決定したんです。屋根に流れたお湯の凍り具合だとか、電気カーペットの上で死んでいたおじいちゃんの体温から逆算して出た死亡推定時刻には、あいつは大阪にいたっていう完璧なアリバイがあって……」
今にも泣きだしそうな恵一を前に、浮音と有作、瑞月は、実に気まずい表情で、祖父を失った少年のうつむくさまを見つめているのだった。
ちなみに、窓から飲みさしを捨てるのは作者自身の癖でもあります(よい子はマネしちゃだめよ)