店の名は「ひさご」
寒い季節が来ると、熱いところをやりながら肴をつつきたくなりますね。
「――カモさん、思っていたより物証の方が強いよ」
ジャージの襟元を直す佐原有作の言葉に、鴨川浮音はしわの寄った眉間へ人差し指を当てたまま、ため息交じりに、どうもそうらしいなァ、とつぶやく。
「――瑞月ちゃん、ブン屋のカンではどないや」
話を振られた浮音の幼馴染である女子大生・沢村瑞月は、真っ赤なハーフリムのレンズ越しに目をしばつかせてから、
「正直、こちらの立場はかなり弱いわね」
と、自身のない目を浮音へとくれるのだった。
「――とうとう僕にも白旗上げる時が来たようやな。恵一くん、すまんなぁ」
袂へ両の手をひっこめながら、実に居心地の悪い顔をしてみせる浮音に、きっかけを作った小学生・恵一少年は、あどけない丸い顔の中に今にも泣きだしそうな目を浮かべている。そろそろ北の方では雪の便りもありそうな、十一月中旬の、午後の光景である。
事の起こりは数日前の、ある寒い夕暮れのことだった。
その日、二条駅そばの映画館で、バチカンでのオールロケが話題を呼んだ外国映画「尼さんバレー」を見た浮音と有作は、帰りがけに千本通と堀川通の間を伸びる商店街・三条会のアーケードへと入り、映画の感想を語りあい、すっかり減った腹を満たそうと、提灯に火のともった割烹や食堂、洒落たカフェを外からちらちらとのぞいていた。
だが、ここ数年、各国からの観光客でごった返している京都のこと、どの店も観光客や常連の客でごった返していて、初見の店が大半の二人には、入るには少々バツの悪い状況だった。
「――あかん、このまま店ェ決まらんと、日付が変わってまうわ。佐原くん、なんぞ食べたいもんでもある?」
判断に迷った浮音が二重廻しの中から右腕を出し、うっすらと汗のにじんだソフトと、くせ毛のはみ出た額の間を掻きながら有作へ話を振る。日ごろ、家の一切を有作に任せっきりの浮音は、出先で食べるもので困ったときの最終判断などもこの友人に委ねているのだった。
「――ずいぶん寒いからねぇ。カモさん、熱いところを一本点けたいんじゃない?」
「……よぉわかってらっしゃる、その通りなンよ」
紺の上下のジャージの上から、薄手のダウンジャケットを着た有作は、ポケットへ腕をひっこめたまま、言下にそう言い放った。有作の判断に異論のなかった浮音は、じゃ、魚の旨い店やの、とつぶやいて両の腕をひっこめ、ちょうど、行きがけにポケットティッシュを買った雑貨店の隣がこじんまりとした装いの居酒屋だったのを思い出し、足早に朴歯の下駄を鳴らし、店へと向かうのだった。
「――こんばんは。やっとります?」
白地に青く「ひさご」と染め抜いた、店の新しい作りに反して、どこか年季がかったのれんの下がった軒先から一歩入ると、浮音はのれんを手でよけながら、カウンターへ布巾をかけていた、割烹着姿の女将らしい女性に声をかけた。すると、女将はにっこり微笑んで、
「ちょうど開けたばっかりなんです、どうぞお好きなところへ……」
二人をまだ真新しいヒノキの香りがするカウンターへ案内し、小鉢に入った松前漬けをめいめいの手元へと置くと、女将は浮音たちの注文を手早く、それでいながら実に丁寧に仕上げるのだった。
「――へえ、じゃあ以前はうちの大学の近くでやってはったんですか」
イカの刺身を肴に、熱燗をちびちびやっていた浮音は、四十手前の女将・菅谷美鈴の口から、もともと「ひさご」が近衛通り沿いにあった老舗ののれんを引き継いだ店だということを知り、自分たちとの意外な結びつきに興味を抱いていた。と同時に、まだ開いてさして年数の経っていないらしい、煙草のヤニのしみ一つ、ほこり一つない真新しい背後の土壁と、竹細工の一輪挿しといった、小綺麗な調度の品々に囲まれ、浮音は心地よく酒の回るのを覚えていたのであった。
「――大正の終わりからずっと、京国大の先生方からご贔屓いただいていて……。ただ、この頃はお店も増えましたし、建物の老朽化がひどかったものですから、心機一転、三年前にこちらの方へ移ってきたんです。この町内じゃ、まだまだ新参なんですよ」
動きやすいよう、ショートに切った毛先をうすく揺らしながら、女将は謙遜してみせたが、さすがに長い間続いた店の主というだけのことはあり、ここまでに来ていた料理はどれも、小粒とはいえ粒ぞろいの素晴らしい品々ばかりであり、ことに浮音は、甘辛く煮つけられた里芋の煮っ転がしにご満悦の様子だった。
「いやぁ、でもさすがに、そこまで長くやってはっただけのことはありますわ。そうなると、この憩いの空間がそのうち、ワンサと常連さんであふれてまうと、こういうわけですか」
「ええ。困ったときは『ダークでお願いします』とにっこり……これで万事解決です」
「なるほど、さすが手慣れてますわな――おや」
話の腰を折るように入口の戸が開いたのに気づくと、浮音はのれんのをよけて、経木にくるんだ肉の包みを持った、小学生くらいの少年を指さしながら女将へ、常連さん? と不思議そうに尋ねる。
「すいません、息子なんです。――ちょっと恵一、どうして裏から来ないの」
刺身包丁を固く絞ったふきんでぬぐいながら女将が小声で叱ると、恵一は日焼けした丸い顔にちょっと怒りを浮かべてから、
「母さん、それはこっちのセリフだよ。鍵掛けっぱなしだったから、急いでこっちに回ったんだぜ?――すいませんお客さん、こんなうっかり屋な女将で……」
「こらっ!」
と、たちどころに愉快そうな顔で、母の手元へ包みを滑り込ませ、逃げの体勢へ入るのだった。
「――ハハハ、こらおもろい。女将さん、なかなかユーモアのセンスのあるお子さんをお持ちですな。ぼん、よかったらこっち来ィな、なんかとったるから……」
「まあ、すいませんお客さん……」
自分の仲裁でどうにかお互いの顔もほころんだのを見ると、浮音は約束通り、恵一のコップへよく冷えたバャリースオレンジを注ぎ、手酌で熱燗をやりながら、どうということのない世間話に興じ出した。
ところが、話の流れで有作が自分と浮音の名前を挙げた途端、それまでにこやかにジュースをなめていた恵一の顔色が急に青くなったのに気づいて、浮音はそっと、空になった銚子を女将へ渡しながら、どしたん恵一くん、と、小さな友人の様子を気にかけた。
「恵一、どうかしたの。具合でも悪いの?」
浮音と母親に尋ねられると恵一はカブリを振って、おそるおそる、
「兄ちゃん、兄ちゃん達って前に、七条京阪の魔女の事件を解決した、鴨川浮音って名探偵と、その相棒の佐原有作って人であってる?」
と、消え入るような声で浮音たちのほうへと尋ねたのだった。浮音と有作はそれを聞くと、
「あちゃあー、こんな小さなぼんでも僕らンこと知っとるんか。世の中怖いねぇ……」
「なんだかこそばゆいねぇ、カモさん。こんな坊やからも声をかけられるようになるなんて……」
めいめい、感慨深いものに浸っていたが、それをそばで見ていた女将が何か思い当たることがあったのか、
「恵一、まさかあんた、あのことをこの人たちに話すつもりじゃないでしょうね。もう終わったことじゃない」
「じゃあ母さん、あいつをあのままほっとくのかよ! そんなんじゃあ、おじいちゃんがかわいそうだよ……」
親子のやりとりにただならぬものを感じ取ると、浮音は袂へ手を入れたまま、
「――女将さん、こらぁ僕の勝手な想像やけれど……なにか身近で犯罪か、それに類することがあったんと違いますか。それも、人がのうなっとるような……?」
座った目と声音で尋ねる浮音に、女将も一切をはっきり話したほうがいいと察したのか、カウンターを離れてのれんを中にひっこめてから、浮音の猪口へ温まったばかりの燗酒を注してやり、おもむろに口を開くのだった。。
「――鴨川さん、ちょうど一年前、私どもの身内に不幸がありましてね」
「……ほう」
盃を持つ手元に、血の気がどんどん増していくのが浮音には分かった。
【用語解説】
ダークでお願いします……居酒屋などのカウンターで、片手だけ動く程度に詰めて座ること。その様子がコーラスグループ「ダークダックス」の歌っている様子に似ていることが由来。