学園の天使は、悪魔を想う
「頼み事、ねえ」
黒髪に黒い瞳。制服の上にさらに黒いロングコートを羽織った彼は、部屋の暗闇の中に溶け込んでいた。
退廃的な雰囲気を纏う男。決して近づかないと心に誓ったはずの男を前に、私は緊張に震える足が気取られぬよう必死だった。
ロイ・ウォーレン。
私の二つ上の先輩で、この学園の最上級生に当たる。切れ長の黒曜石の瞳が印象的な息を呑むような美形。学園始まって以来の天才と噂されるその頭脳。
それだけでなく、貴族の中でもさらに魔術に秀でたものしか入ることの許されないこの学園の中であるにも関わらず、その魔力量は規格外で、高度な魔法も難なく使いこなす。卒業後は、魔術に関わる様々な機関から引く手数多と聞いていた。
だが、輝かしい様々な功績を持つ一方で、この男の呼び名はひどく不名誉なものだった。
悪魔。
この男がそう噂されるのは、ある意味自業自得でもある。彼は、ある1つのことでも有名だった。
なんでも願いを叶えてくれる。ただし、それ相応の対価をもって。
そんな男が、その出で立ちもあって、悪魔と呼ばれ始めるのは、当然のことといえば当然のことなのだろう。
「……はい。頼み事です」
「なにを?」
端的に問われ、私はぐっと唇を噛み締める。
この男には――他でもないこの男には、話したくないことだった。だが、背に腹は代えられない。
目を伏せ、男にしなだれかかっていた美女が、もの問いたげに私を見つめた。
悪魔、と呼ばれていながら、この男の信望者は多い。その危うい魅力で人を捉えて話さず、顕になっているだけでも相当な数の信望者がいる。
身分も何もあったものではない、傲岸不遜な態度。失礼な男と不快に思いながらも、ふらふらと寄っていきそうになる魅力が、確かに彼にはあった。そして来るもの拒まず、去るもの追わずの態度から、性別を問わず、この男の傍には常に誰かがいた。
「学園の天使がこんな所に来た時点で笑えるが、さらに俺に頼み事? 大方俺の噂を聞いて来たんだろうが、当然もう1つの噂も知ってるんだろうな?」
「ええ」
もう1つの噂。
願いを叶える代わりに、対価を差し出さなくてはならない。この男に対価として何を要求されるかは分からないけれど、簡単に手に入るものではないのは確かだ。
それでも、私は。
「で、天使様の望みは?」
「……婚約破棄を、防いでほしいのです」
そう言った瞬間、この男は唇の端を上げて笑った。
「平民の女だったか? 王太子も見る目がない」
「ど……うしてそれを」
平民の女――ロザリアと私の婚約者、王太子リチャード様が恋仲だというのは、今のところ誰にも知られていないと思っていた。私が、必死で隠蔽工作をしていたからだ。
「そりゃ、天使様が必死になって隠して回っていることだ、暴きたくもなる」
くつくつと喉の奥を震わせて笑う男だが、その目は笑っていない。
「単純な疑問なんだが、どうしてお前はあの婚約者を庇うんだ? 婚約者がありながら他の女にぞっこんなんて、咎められるべきはあの王太子サマだ。それでいて庇う神経が理解できない。まさか、愛しているとでも?」
「……私は、婚約者の心さえも繋ぎ止められなかったのです。それは、私の魅力の不足に他なりません。そんなことを知られたら、私はっ……」
「あー、そうなるのか。天使様も大変だな」
揶揄うように言った男は、そのまま素早い身のこなしで立ち上がった。そのまま、私の前に立つ。
顎に細い指先がかかり、そのまま俯きがちだった顔を持ち上げられた。黒曜石の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「悪くない顔立ちしてるしな。分かった、その取引、のってやるよ」
「まだ先輩は対価を提示していません。その状況で勝手に取引を成立させないでください」
真っ直ぐに見返せば、その瞳が意外そうに細められた。そのまま、薄い唇が弧を描く。
「へえ、世間知らずのお嬢様かと思ったら意外としぶといな。大体の女はこれで頷くんだが」
「対価はなんですか」
「先程までとは比べ物にならないくらい強気だな。向こうに明らかに非があるのに、そんなに婚約破棄が怖いか」
「っ……」
虚をつかれ、一瞬返答につまる。その隙を、この男は見逃してはくれなかった。
「そんなに母親が怖いか?」
母親。
そう聞いた瞬間に、さっと血の気が引くのが分かった。どうして、どうしてこの男はそこまで知っている。
改めて、この男の恐ろしさを思い知った。この男の前では、何も隠し事などできないのではないか。そんな根拠の無い妄想に囚われそうになってしまう。
「……お母様のことは、尊敬しています。それより、話をそらさないでください。対価はなんですか」
「仕方ない、大人しく引き下がってやるよ。お前は、俺に何を差し出せる?」
「逆に、何を望みますか。公爵家の娘です、大抵のものは用意できます。どれだけ高価なものでも」
「残念ながら、金には困ってない。どこまでなら、お前は差し出せる?」
一向に進まないやりとり。腹の探り合い。
けれど、この分野において、私がこの男に敵いはしないことは、短いやり取りの中でもよく分かっていた。思い切って、攻めるしかない。
「なんでも。私に差し出せるものなら、ですが」
「ほお?」
私の答えを聞いた瞬間に、彼がくくっと笑い声を立てる。強引に上を向かされていた頭の横を彼の頭が通り抜け、気がつけば耳元に口を寄せられていた。
「だったら、俺に抱かれろよ」
「っ?!」
耳元に流し込まれる艶やかな低い声。柔らかい吐息が耳元をくすぐっている。
じわじわと頬が熱くなるのが分かった。この男には取引の手段以外の意図はない、と言い聞かせても、近すぎる距離にうろたえずにはいられない。自分の魅力を理解しきったこの男の魅力に、蕩けるような色香に、信者が増え続ける理由を悟った。
「なんて、冗談だ。貴族のご令嬢様の純潔を奪うと後々面倒なんだよ」
「……」
「ははっ、顔真っ赤にして。どうやら天使様は、下界の猥談には不慣れらしいな」
「本当の対価はなんですか」
誤魔化すように睨みつければ、にやりと笑みが帰ってくる。
「わかったわかった。対価は、お偉い貴族様方への顔繋ぎでどうだ?」
「詳しく説明してください」
「そうせっつくな。夜は長いんだ」
「誤解を招くような言い方はやめてください。私は部屋を抜け出してここに来ているのですから、早く終わらせたいのです」
「わかったから怒るな。残念ながら、俺はお貴族様に信頼されていないようでな」
それはそうでしょう、と呟けば、手厳しいな、と彼が笑った。
悪魔、と聞いて、どこまでも冷酷で無情な人物を想像していたのだが。彼は失礼でいちいち話を変な方向に持っていこうとする最低な男だが、思っていたよりよく笑う。
「それで、お前の出番って訳だ。品行方正、成績優秀な優等生で、学園の『天使』フレデリカ・ロイズ。適任だろう?」
「……私の知り合いを紹介することは構いませんが、内容や相手を問う権利は私にも頂きたいです。私自身の信頼問題にもなりますので」
公爵家の人脈は貴重だ。
王族も含め、ありとあらゆるところに繋がりがある。そして、多少のことなら権力で押し通せる。でもそれは、公爵家が長年の信頼を勝ち得てきたからであって、私への信頼ではない。彼を紹介したことで、私への信頼が失われることは十分にありうる。
そう説明すれば、彼は鼻で笑った。
「俺がそこんとこを勘違いするほどの馬鹿だと思ってるのか? 当然相手は選ぶし、必要だと思えばそれ相応の態度で接する」
「……分かりました。それでしたら、私に声をかけてくだされば紹介いたします」
「それでは、取引は成立だな」
「……はい」
返事を少しだけ躊躇ったのは、いつの間にか彼の口車に乗せられていないか心配になったから。
彼は、私程度が対等に渡り合えるような相手ではない。それが分かっていたから、決して近づかないと心に決めていたのだ。
差し出された契約書にサインしながら、私はこれから始まる生活のことを思い、小さなため息をついた。
◇
「フレデリカ」
「おはようございます。先輩」
私は、天使のようだと形容される微笑みを浮かべてみせる。
朝の光を浴びて、長い銀の髪が柔らかな光を辺りに振りまいた。そのまま髪に伸ばされた先輩の手をさりげなく交わし、軽く礼をして彼から離れる。
ぽおっとした顔で私を見つめる生徒。その視線に気が付かないふりをして、あくまでも純真無垢な天使を装って、私は挨拶をして回る。
その時に、後ろから足音1つ立てずに着いてくる先輩のことは気にしないようにする。
あの日から数週間が経っていた。ほとんど何も変わっていないようでありながら、一つだけ大きく変わったことがある。
「……フレデリカ」
「殿下! おはようございます」
今まで、私を見ても一切反応を示そうとしなかった殿下が、ここ最近、私に声をかけるようになった。それだけで信じられないような事態だが、さらに驚くべきことが起こるようにもなっていた。
「今日の放課後、一緒に茶でもどうだ?」
「はい、ぜひご一緒させて頂きたく存じます」
ふわりと微笑んで見せれば、目の前の殿下はひどく満足そうな笑みを浮かべる。
そのままするりと伸ばされた手が、躊躇いなく私の髪を撫でた。髪を梳く感触にぞわりと嫌な感じが背筋を駆け抜けるが、そんなことはおくびにも出さず照れたように笑ってみせる。私を見下ろした殿下が、小さく微笑んだ。
どうやら、『作戦』は既に成果を上げ始めているらしい。
これから授業だという殿下と別れ、人の群れの中を抜けて中庭にでると、どうにか一息つけた。もう少しで、体力育成の授業が始まる。ほとんどの人が外の森に出ていったようで、校内には全くと言って良いほど人影がなかった。
私は体力育成の授業を受けたことがない。飛行術や、箒を使ったスポーツをするらしいが、詳しくは知らない。
――女の子なんだから。そんな危険なこと、させられるわけがないでしょう。傷でもついたらどうするの。
――あぁ可愛い、私のフレデリカ。天使みたいよ。これなら、殿下も認めてくださるに違いないわ。
――わかった? フレデリカは、身体が弱いの。
私は『天使』だから。他の人みたいに、汗をかいて、傷だらけになって、みっともなくスポーツをする訳にはいかない。私は領地から出ることはないのだから、体力など必要も無い。
森の方から、大声が聞こえてきた。内容は聞き取れないが、切羽詰まったような声が上がり、そして爆発するような笑い声がした。
私は、他の人とは違うのだから。羨ましくなんて、ない。
「フレデリカ」
「……どうしてここにいるのですか。あと馴れ馴れしく呼ばないでください」
「つれないな。相変わらずの外面で、さっきは笑えたぞ」
「先輩相手に取り繕っても、もう意味は無いですから」
「馴れ馴れしくって言ってもな」
ずしりと、肩に重みがかかった。先輩が前かがみになって、私の肩に顎を乗せているのだ。無造作に後ろで括られた長い黒髪が、私の肩を滑っていった。
「離れてください。あらぬ誤解を招きます」
「わざとだって、分かってるだろ」
「そういった態度が必要なことは分かります。けれど、誰もいないところでやる必要はないでしょう」
あの日、彼は言った。
『分かるか? 男ってのは、独占欲が強い生き物なんだよ。自分のものだと思ってる女が他の男に盗られそうになってると、俄然燃えるの。婚約破棄を阻止って言っても、手っ取り早いのは王太子サマの心をお前に戻すことだからな。とりあえず、あいつの独占欲を煽ってやればいい。ということで、俺は明日からお前に惚れるんで、よろしく』
惚れるんで、よろしく。
適当な言葉とは裏腹に、彼の瞳は楽しげな光を灯していた。彼なりに、今の状況を楽しんでいるのだろう。
『安心しろ、お前の浮気にはしない。勝手に俺が惚れてるってだけだ』
『……そうすると、先輩の醜聞になりますよ』
『俺の心配するとは、余裕だな。今更だろ、そんなん。それに、俺の人脈作りはお前が手伝ってくれるんだろう?』
それ以来、私の元に先輩はよく現れる。突然現れては悪戯に私に触れ、去っていく。そして、私に惚れていると公言してはばからない。そんな様子を、殿下が憎々しげに見つめていたことは知っていた。
そして、私の方も彼の人脈作りには協力している。彼に指定された相手とお茶会の約束を取り付け、適当な言い訳をして彼を同席させる。怪しい噂の多い彼の同席を渋る人は多かったが、そこは私の腕の見せどころだ。そしてその後は彼の自由だ。彼の信望者が、物凄い勢いで増えているとだけ言っておこう。あくまでもそれは取引のひとつだったが、どうやらそれも殿下の独占欲を煽っていたらしい。
今朝のように、殿下から声をかけられることも、お茶会に誘われることも増えた。必死で隠蔽していた平民の女との密会も、ほとんど見なくなった。たまにあったとしても殿下は投げやりな態度で、彼の計算通り殿下の心は私に戻ってきているようだ。
だが、彼が仕組んだのはそれだけではないと思っている。平民の女の黒い噂を、よく耳にするようになった。例えば、財産目当てで殿下に近づいている、など。
元々貴族の令嬢にはよく思われていなかった彼女だが、ここ最近で急激に悪化した。十中八九、彼が動いたのだろう。
もはや、婚約破棄が起こることはほとんどないかと思われた。
これでいいのだ。私と殿下は結婚し、私は王妃になる。母が望んだように。
これでいいはず、なのに。
「考え事か?」
耳の中に直接艶やかな声を流し込まれ、びくりと身体が跳ねた。
この俺の頭を肩に乗せておきながら考え事とは、とくつくつと笑った彼の頭を、無理やり肩から落とす。
「おい急に動くな」
「先輩ならこれくらい余裕でしょう」
「まあそうだが」
きゃー、と楽しげな悲鳴が聞こえてきた。ちらりとそちらに視線をやってしまった私に、彼は気がついたらしい。
「羨ましいか?」
「いえ」
「母親だっけか」
無造作に投げつけられた言葉に、ずっと心が冷えた。この男は知っている。
「お貴族様の考えることはよく分からん。お前が王妃になったからって、自分が婚約者候補止まりだった事実は変わらないだろうに」
「……先輩も貴族でしょう」
「俺は妾腹なんでな」
あっさりと放たれた言葉に、一瞬息が詰まった。もちろん、知っていた。有名な話だ。平民の色と貴族には忌み嫌われる黒を持って生まれ、さらには自ら黒を纏う男。
そんな彼が一瞬響かせた自嘲的な声は、なぜだか耳に残って離れなかった。
「ほら」
突然大きなものが放り投げられ、私は慌てて捕まえようとする。しかし、飛んできたそれは、あっさりと私の手をすり抜けて地面に落ちた。
「鈍臭いな」
容赦ない罵倒も耳に入らない。私の目は、地面に落ちたそれに釘付けだった。
箒だった。
優美な曲線を描く持ち手の部分。艶やかな飴色をしたそれは、使い込まれたものであることがひと目で分かる。
「俺の箒だ。壊すなよ。あとちゃんと返せ」
「すみません、無理です。怪我をしたら、叱られますから」
「治癒魔法で適当に誤魔化せばいいだろ」
「ですが、消えない傷跡など残ってしまったら」
「心配しすぎだろうが、いつの時代の人間だ。最悪俺が治してやるから」
「ですが……」
あのなあ、と彼がため息をつく。明らかな怒りを伴ったそれは、しかし少しだけ優しいような気がした。
「いい加減目を覚ませ。お前が母親に受けさせられた教育は知ってるし、お前がその期待に応えなきゃいけないと感じてんのも分かってる。だがお前も馬鹿じゃない、本当は気づいてんだろ」
お前の母親は、いつも正しいとは限らないんだよ。
分かっていた。心のどこかで薄々と分かっていた。けれど、今まで母の言われた通りに生きてきた私にとって、母を否定することは自らの全てを否定することに等しかった。
「どうせ母親の否定は自分の否定だとか考えてるんだろうが、悪いがお前はそこまで母親の傀儡じゃないぞ。そもそも俺みたいな人間に声をかけてきたり浮気されてることを親に必死で隠してる時点でお前は母親の言いなりにはなってないし、俺と話してる時のお前は天使なんて呼べないんだよ」
「……」
「お前の作ってる天使像ってのが否定されたとしても、俺と接してる時のお前は少なくとも母親の作った天使じゃない。そしてそん時のお前は、意外といい女だよ」
驚いた。そう、驚いた。
この人が、他人のことなんて何も見ていなさそうなこの人が、私のことをここまで理解していたことに。そして、私のことを想像以上に認めていたことに。
「あー、なんなんだ。本当にお前の前だと調子が狂う。俺をこんなにしたんだ、責任取ってくれないとな?」
あっという間にいつもの調子に戻り、口元に薄い笑みを浮かべて流し目を向けてくる彼。
けれど、先程彼が口にした言葉は、間違いなく現実で、きっと掴みどころのない彼の本心だ。
少しだけ、正直になってみようと思った。
「……乗り方が、分かりません」
「は?」
信じられない、と言ったふうに目を見開く彼を、苦々しく見つめ返す。
箒どころか、私は誰かとまともに遊んだことがない。幼いころ、屋敷にこっそりと入ってきた女の子と友達になったことはあったけれど、すぐに母に見つかった。それ以来、同年代だったはずの彼女と社交界はおろか学園でも会ったことはない。
「この俺に、教師もどきの真似をしろと?」
「……いえ、お気遣いありがとうございます。お返ししますね。すみません、せっかく貸していただいたのに」
「急に殊勝になるな、違和感しかない」
「……」
じんわりと視界が滲みそうになって、私は慌てて瞬きした。
乗ってみたかった。私も、普通の子のように、遊んでみたい。
天使なんて、やめてしまいたい。
ずっと感じていたほの暗い感情。言葉にしてしまえば簡単なことだけれど、言葉にしたことで、より重くのしかかってくるようだった。
――どうして、どうしてフレデリカはこんなひどいことをするの? 私のことが嫌いなの?
――ちがうの、ちがうの、おかあさま、だいすきよ。
私は、天使でなければならない、のに。
ねえ、それは、どうして?
「分かった、分かったから。そんな顔するな」
はあ、と大袈裟にため息をついた先輩が、無言で私に箒を手に取るように促す。
「初めてだろう。手取り足取り、しつこいくらいに教えてやるよ」
「……ありがとう、ございます」
いつも通り、あらぬ誤解を招きそうな言葉選びと、髪をかきあげる無駄に艶っぽい仕草。けれど、ぽろり、と私の口からこぼれ落ちた言葉は、間違いなく喜びの感情に彩られていた。
教えられたとおりに、恐る恐る箒に跨る。
いけないことをしているという背徳感。そして、心躍るような喜び。
「そこで魔力をこめろ。いいか、最初はくれぐれも慎重に……っておい!」
魔力を少しだけ流し込んだ瞬間、急激に視界が溶けた。首が大きく振られ、鈍い痛みが走る。危ない、と感じた時にはもう、私の手に箒はなかった。
これから襲い来る衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じる。しかし、確かに予期したはずのそれは、いつまで経っても襲ってこなかった。
「……はあ」
心底呆れた、といった風のため息が聞こえてきて、私は恐る恐る目を開く。瞬間、飛び込んできたのは先輩の怜悧な美貌。どうやら、箒から落下した私を先輩が受け止めてくれたらしい。
「危なっかしすぎる。どこに箒から手を離すやつがいる。想像以上だな」
返す言葉もなく、私は首を縮める。
「すみません。ありがとうございます」
「教えるの放棄していいか? 先が思いやられる」
そう言って、いつの間にか片手で捕まえていたらしい箒を構えた。地面に下ろした私に跨るように促し、先輩自身も箒に跨る。
「ほら、乗せてやる。教えるよりこっちの方がよっぽど楽だ」
箒に恐る恐る跨り、先輩の腕が私の腰に回ったことを感じた瞬間、先輩が地面を蹴った。
冷たい風が、勢いよく頬を削っていく。寒い。高い。そして、楽しい。知らず知らずのうちに、私は微笑んでいた。
遥か下に、校舎が見えた。この学園自慢の時計塔さえも、ひどく小さく見える。
今まで自分が囚われていたものが、必死になってしがみついていたものが、取るに足らないちっぽけなものに見える。それは、不思議な体験だった。
「ほら! これで満足か?」
びゅうびゅうと耳を擦る風の音の中で、先輩が怒鳴るように問いかけた。けれど、その内容は、どこまでも優しい。
「はい! ありがとうございます!」
叫び返せば、ゆっくりと箒が高度を下げる。もっと乗っていたいくらいだったが、地面に降りて、想像以上に自分の身体が冷えきっていることに気がついた。
「先輩。ありがとうございます」
本心からの言葉だった。真っ直ぐに先輩を見つめて、私は笑う。
「本当に、楽しかったです」
勝手に口元が綻ぶ。頬が上気している自覚はあった。それでも、それでも楽しくて、嬉しくて。目が勝手に細まってしまうせいで視界は悪いけれど、先輩が私のことを見つめているのは分かった。
「あー、待て本当にありえない」
ぼそりと呟かれたその言葉。文脈にそぐわないそれに、少し驚いて先輩を見つめる。先輩は、片手で顔を覆って、何事かぶつぶつと呟いていた。
「……この俺が? そんなわけ」
「先輩?」
様子のおかしい先輩が気になって、すっとその顔を覗き込んでみる。その瞬間、ざっと音を立てて先輩が1歩下がった。
「……」
もう一歩、近づいてみる。すると、同じだけ先輩が後ろに下がった。
「……離れろ。犯すぞ」
「その脅し文句はどうかと思います」
「慣れてきたなお前」
「はい、昼夜問わず仄めかしてくるどこかの先輩のおかげです」
「……本当に、頼むから待ってくれ。また話すから」
そう言った瞬間、先輩の姿が掻き消えた。どうやら転移魔法らしい。
こんなに高度な魔法を、こんなにあっさりと使う人がいるとは。どこまでも規格外な先輩に、思わずくすりと笑いが漏れた。
森から断続的に聞こえてくる叫び声を聞いても、もう羨ましいとは思わなかった。
◇
「フレデリカ!」
「殿下、おはようございます」
ふわり、と微笑んでみせる。放課後お茶に行くことも増え、周りには仲睦まじい2人として知られるようになった。
前と少しだけ違うのは、心の中で問いかけてくる声があることだ。
本当に、これでいいの?
その声から耳を背けるように、大袈裟なくらい殿下に向かって微笑んでみせる。だが、その瞬間、私の名前を呼ぶ声がした。
「……フレデリカ」
艶めいた低音。廊下の壁に寄りかかるようにして、先輩が立っていた。
こうして殿下がいるところで先輩が声をかけてきたのは初めてだ。それだけでも微妙に引っかかるが、どこか苦しそうなその声が、気になってたまらなかった。
とはいえ、私は殿下の婚約者だ。そこを混同してはいけない。先輩の声をわざと無視して殿下に向き直れば、彼は満足気な笑みを浮かべた。
先輩の作戦が功を奏したことからも分かるように、殿下は別に私を愛しているわけではないのだろう。ただ単に、天使たる私に愛されている自分が好きでたまらないだけ。
こんなひねくれた見方をするようになってしまったのも、全てあの先輩のせいだ。
先輩の立つ一角にあえて目を向けないようにして、私は殿下の後ろを静かについて行った。ちくり、と小さく傷んだ心には、気が付かないふりをして。
「フレデリカ」
体力育成の時間。この時間を私はずっと恐れていた。
私が唯一、1人になる時間。そして、案の定さぼったらしい先輩が私を見つけてしまえば、たった2人きりになってしまう時間。
「先輩、離れてください」
いつもの軽口のつもりだった。いつものように、人を食ったような、失礼でいちいち色香を漂わせた台詞が返ってくると思っていた。
「……断る」
「……どうしました、先輩? 今朝と言い、この前からどこか変ですよ」
「俺もそう思う。惚れた女への接し方なんて、全く分からん」
「そうですか。……っえ?!」
いつもの軽口と聞き流そうとして、聞き流せない言葉を耳にして、頭が真っ白になった。
今、この人は、なんと言ったか。
「お前には悪いが、本気で落とさせて貰う。この俺を惚れさせたんだ、逃げられると思うな」
「す、少し待ってください」
「お前が欲しい。例えお前があの王太子の妻になることを望んだとしても。いや、望ませやしない。絶対に惚れさせる」
「待ってくださいってば!」
いつの間にか詰められていた距離を、慌てて取る。けれど先輩は逃がしてなどくれなくて、気がつけば私は先輩の腕と壁の間に囚われていた。
「なんだ」
不機嫌そうに呟く先輩。その耳が、赤い。
傲岸不遜に迫っておきながら、先輩も照れているのだ。
「つまり、その、先輩は私のことが好きってことですか」
「ああ」
短い肯定。
「だって、先輩は来るもの拒まず去るもの追わずの恋愛感情なんて欠片も持たない人なんじゃ」
「随分な言われようだな。信じられないか?」
「まあ、はい、少し。何か企んでいるという方がしっくりくると言いますか」
「……好きだ、フレデリカ」
艷めく黒曜石の瞳が、焦げ付くような熱を持って私を見つめる。その真摯な瞳が嘘だとは思えなくて。
いや、元から嘘ではないと分かっていた。逃げていただけだ。
顎に先輩の指先がかかり、上を向かされた。これは、初めて会った時と同じ体勢だ。
真っ直ぐに私を見つめるその美しい顔立ちを見ていられなくて、私はぎゅっと目を閉じる。
気がつけば、柔らかいものが、唇に触れていた。
「……なっ?!」
思わず目を見開けば、とろりと目元を蕩けさせた先輩の微笑みが視界いっぱいに広がる。赤い舌が薄い唇の隙間から覗き、するりとその唇の上を滑った。
その仕草から、目が離せない。
「これで、しばらく俺のことだけを考えるか?」
これで、も何も。
私はずっと、先輩のことしか考えていないというのに。
何も言えず、口をはくはくと開閉させるだけの私を見て、先輩がふっと笑う。それはいつも通りなのに、いつも通りの笑いのはずなのに、その空気が甘い。
大切なものを見るように、すうっと細められた切れ長の目。少し強引だけれど痛くはない力で顎にかけられた指先。
その瞳がもう一度ゆっくりと閉じられる。何が起ころうとしているかを察して、私は慌てて先輩の顔を押しのけた。
「おい」
不満げな先輩の顔を見られなくて、私は真っ赤になった頬を隠すように俯く。ふるふると、身体が震えているのがわかった。
「……そんな反応されると期待するぞ」
私は、先輩が、好き?
先輩のことは、好ましく思っている。それは、間違いない。けれど、それが恋愛感情と呼ばれるものなのか、先輩が私に向けてくれているのと同じ強さや方向を持った感情なのか、分からない。
先輩に触れられるのは、嫌ではない。先程のだって、恥ずかしかったけれど、嫌ではなかった。これは、恋愛感情なのだろうか。
いわゆる、恋物語というものを、私は知らない。低俗なものとして、母が決して私に見せようとはしなかったからだ。だから、分からない。何をもって、好きだというのだ。
「へえ、自覚なし。わかった、嫌でも自覚させてやるよ」
そう言って薄い唇を持ち上げて笑った先輩は、目に獰猛な光を湛えていて。
とりあえず、しばらく俺のことだけ考えてろよ、という言葉と同時に再度与えられた口付けは、抗う間もなく私を襲った。
◇
俺のことだけ考えてろよ。
言われるまでもない。ここ最近、自分が先輩のことしか考えていないことはよく分かっていた。
どうやらそれで上の空になっていることが殿下にも伝わってしまったのか、お茶会の頻度が前より減っている。
そうであるにも関わらず、そんなのはどうでも良い、と考えている時点で答えは決まっているのだろう。
私は、先輩が好きだ。
傍にいたい。抱きしめられたいし、それ以上のことだって、したい。
先輩が嬉しそうな顔をしていたら私も嬉しいし、先輩の姿をいつだって目のどこかで探している。
そんな感情を恋と呼ぶのだと、こっそりと学園の図書館で読んだ恋物語を読んで、知った。
手元の本に目を落として、綴られた細かい文字を追うが、全く頭に入ってこない。
――好きだ、フレデリカ。
その言葉が震えるほどに嬉しかったのに、返事を躊躇っている理由は、認めたくはないが母だった。
――フレデリカ、私の天使、あなたは未来の王妃なのよ。
何度も何度も、一種の呪いのように言い聞かされたその言葉は、今でも私を縛っている。
そう、呪いだという自覚はあった。抗おうと思うと、恐怖に心臓がぎゅっと縮まるような心地がする。フレデリカは私のことが嫌いなの、と問いかけられるのがひどく怖い。
「難しい本読んでんな」
突然降ってきた声に、私はびくりと身を震わせた。聞き間違えるはずのない声。
私の肩に顎を乗せ、覗き込むようにして私の手元の本を眺めている。その近すぎる距離に、頬が熱を持ち始めたのがわかった。
「……先輩。近いです」
「顔真っ赤にしといて、よく言う」
「少し黙ってください」
「嫌だね」
そのまま先輩の手が髪に触れ、すっと私の髪を梳く。それが何だか、心地よい。
放課後の図書館は静まり返っていて、人影はほとんどなかった。年配の司書が、カウンターの中で紙をめくる音が時折響く程度だ。
本来なら婚約者のいる女性に触れるなどありえないが、この先輩は人目のない機会を見計らって私に触れてくる。私が殿下に告げ口などしないことを確信して。
「……可愛い」
「急になんですか」
動揺を悟られまいと、私は強く唇を噛み締める。ぐっと握りしめた手は、初めて会った時と同じだ。
「別に思ったことを言ったまでだが?」
「集中したいので黙ってください」
答えが答えになっていないことなど、百も承知だ。当然先輩も見抜いていて、くつくつと楽しそうに笑っている。だが、先輩はそれ以来口を開こうとしなかった。
ゆったりと時間が過ぎていく。肩口の先輩の体温を感じながら、私は少しずつ細かい文字を追っていった。
◇
「フレデリカ」
「……先輩」
後ろからかけられた声に、振り向くかどうか少し迷った。ここは廊下のちょうど真ん中で、通り過ぎる人でひどく混みあっていた。
あの日から数日が経った。私の中で大きくなった恋心は、先輩を前にして、この人混みの中でも隠しきれるかどうか不安で。
「見て、あの男。天使フレデリカ様に執着してるんでしょ?」
「フレデリカ様はお優しいから強い拒否はなさらないのに、それに勘違いして付きまとって、ねえ」
「殿下と並んでおられる時のお幸せそうなお顔を知らないのかしら」
廊下のあちこちから聞こえてくる会話。
その内容に心が波立つが、表に出すことはない。天使の微笑みを浮かべて通り過ぎ、何も聞かなかったかのように振る舞う。
だが。異変は起きた。
ざわざわと喧騒に満ちていた廊下が、急激に静まり返る。その人混みを抜けて歩いてきたのは、殿下と、平民の女――ロザリア。
殿下は私の前に立ち、高らかに宣言した。
「フレデリカ・ロイズ公爵令嬢! 貴様との婚約を破棄する!」
さあっと、視界が白く染まった。よろめきそうになった身体を必死で抑え、震える手を押さえ込んで殿下を見つめる。
「ここ最近、私はこのロザリアと親しくなった! 親しくなっただけで恋仲になった訳でもないのに、それを知ったお前はすぐに、ロザリアに散々な嫌がらせをしたそうだな! 破れた教科書、濡れた制服、全てこの目で確認した! お前がそんな人間だとは思わなかった。認めろ、自分の罪を!」
認めろも何も、心当たりなど一切ない。助けを求めるように廊下を見渡せば、初めて会った時に先輩の部屋にいた、美人の先輩の姿が目に入った。俯きがちで表情は見えないが、そもそもこの異常事態に俯いている方がおかしい。
裏をかかれた。私が先輩のことで乱されている間に、仕組まれた。
そう気が付いた瞬間に、すっと心が落ち着いた。
『フレデリカ』
突然頭の中に声が響いて、私はびくりと震えそうになった身体を慌てて押さえ込んだ。その声は、紛れもなく先輩のものだ。……どうしてこの人は、こんなに高度な魔法ばかり使ってくるのだろうか。
『助けて欲しかったら、俺の方を見ろ。取引通り、この婚約破棄を防いでやる。いくらでもやりようはある』
そこで、少しの間があった。
『……もし、俺を選んでくれるのなら、今そこで、婚約破棄してこい』
もし。選んでくれるのなら。
自信に満ちた先輩らしくない言葉。
心臓の音がうるさい。けれど、もう心は決まっていた。こういう状況に追い込まれて、初めてわかった。私はもう母の言いなりにはならない。いや、もうなれないのだ。
私は、先輩が、好き。
「私はやっておりません。しかし、殿下がロザリアさんを想っておられるのでしたら、私は身を引きましょう」
天使の微笑みを浮かべて。
でも、きっとこの微笑みとも今日でお別れだ。私は、悪魔に惹かれたのだから。けれど、それで良い。
「婚約破棄いたしましょう」
「なっ……」
あっさりと告げた私が意外だったのだろう、殿下は目を見開いた。その顔が、一気に歪む。
今なら分かる。殿下は、私に縋って欲しかったのだ。捨てられたくないと。そうして、それほどまでに天使に好かれている自分を見たかったのだろう。
「やっていないわけがないだろう。この目で見たのだからな!」
「全ての人が見ることができる、確かな証拠があるのですか?」
「……それは」
狼狽える殿下を見つめ、私はゆっくりと鞄から記録用の魔石を取り出す。静かに魔力を流し込めば、1つの映像が大きく映し出された。
私は、隠蔽工作をしていただけではない。いざと言う時の為に、証拠を集めてもいたのだ。
「半年ほど前のものです。殿下はロザリアさんを想われるようになったのはここ最近と仰いましたが。私自身が撮ったものですし、鑑定に出していただいても構いません」
映っているのは、殿下とロザリアだった。仲睦まじげな様子で、庭のベンチに座っている。その手は握られていて、距離も近く、明らかに婚約者のいる男性に許される距離ではなかった。
心変わりしたのはあくまでも最近だと、しかもそれは浮気ではないと、そう言った殿下。けれど、動かぬ証拠はここにある。
「あっ……間違えました。殿下はロザリアさんとは恋仲ではありませんでしたね。想われるようになったなど、失言でした。失礼いたしました」
「これは……そのっ」
「……皆様、どちらを信じられますか?」
周りに問いかければ、ざわざわとざわめきが広がる。それが私に好意的なものだとわかった私は、更に言葉を紡ぐ。
「私が嫉妬に狂ってロザリアさんを害したというよりも、ロザリアさんと仲を深めたかった殿下、もしくはその協力者の方が、私に冤罪を被せたという方が、頷けるお話ではないでしょうか?」
「……」
殿下の首筋を、一筋の汗が流れた。私はそれを、見逃しはしない。
元々こちらに後ろ暗いことは何もないのだ。恐れることは無い。
「とはいえ重大なことですので、ここで私たちの間だけで判断して良いことではありません。この婚約は陛下の元で結ばれたものですし、今度もう一度両家を交えてお話をする機会を頂けますでしょうか」
こう言えば、殿下は頷くしかない。
さあっと青ざめたロザリアを視界の端で捉え、私は笑う。
「私は、ロザリアさんと殿下の為に、身を引きますわ」
天使と形容される、磨き抜かれた愛らしい微笑みで、私は別れを告げた。
一大事にざわめく廊下を抜けて、私は中庭へ行く。皆私とどう接して良いのか分からないのだろう。誰も着いてくることはなかった。
先輩はいつの間にか姿を消していたけれど、ここに行けば会えるという確信があった。
突然、背中に重みがかかり、私はよろめいた。そのままするりと手が回ってきて、私の腰を捉える。
「……先輩」
「……」
何も言わずに私を抱きしめる先輩。愛しさが込み上げるけれど、私には、一つだけ確認したいことがあった。
「婚約破棄、先輩は気がついていたんでしょう」
「……」
「先輩ともあろう人が、あの女の人たちの考えに気が付かないわけがありません。見て見ぬふりをして、婚約破棄に持ち込もうとしていましたね。仕組んだのでしょう」
「俺は、本気で落としにかかると言ったはずだ」
端的に言い、先輩が私から離れる。くるりと振り向けば、先輩は苦笑を浮かべていた。
「まさか、気づかれるとはな」
「あまり私を舐めないでください。先輩のおかげで、随分とひねくれた見方が身につきました」
「言うようになったな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
つくづく、天使じゃないと思う。
「母親はどうする」
「どうするも何も、無視するだけです。逆らったからと言って死ぬわけじゃないですし」
「……困ったら言え。何とかしてやる」
「ありがとう、ございます」
なんだか、先輩変わりましたね。そんな言葉を呑み込む。昔の先輩だったら、対価を求めていた頃の先輩だったら、決して口にしないような言葉。それが向けられたのが、どうしようもなく嬉しい。
ん、と言ってぐしゃりと私の頭を掻き回す先輩。どうやら今までの触れ方は、かなり遠慮していたものらしい。
私と先輩の身分は釣り合っているとは言い難いし、学園での評判には雲泥の差がある。けれど、この先輩なら、この国の王太子をいいように操り、公爵令嬢の私が必死で隠していた情報をあっさりと見つけ出してしまうような先輩なら、きっとまた規格外の方法で道を見つけ出してしまうのだろう。
結局、最初から最後まで先輩の手の内なのが悔しい。先輩に仕組まれて、思惑通り先輩に落とされた。
最後くらい意表をついてやりたくて、恥ずかしさを堪えて私は先輩の方を見る。
「ロイ先輩。好きです」
そのままぐっと背伸びをして、その頬に口付けた。
……唇にする勇気が出なかったのは、許して欲しい。さすがに初恋を自覚したばかりの私には無理だ。
「……っ」
先輩が弾かれたように顔を伏せて、手で顔を覆ってしまった。そのせいで、こちらからだと表情は見えない。
けれど、指の隙間から覗く頬や、髪の間に見え隠れする耳が、朱に染まっていることは明らかで。
知らず知らずのうちに、私は微笑んでいた。きっと、ひどく楽しそうに見えることだろう。
はあぁ、と震えるため息をついた先輩が、急に顔を上げる。そのまま強引に抱き寄せられ、先輩の顔は見えなくなってしまった。
「……反則だろそんなん」
いつもの余裕がない先輩が珍しくて、口角は上がりっぱなしだ。
どきどきと痛いほどに胸が鳴る。先輩の香りに包まれて、その体温を感じて。どうしようもなく、幸せな瞬間。
「フレデリカ、好きだ」
天使と悪魔の関係が、その形を変えた瞬間だった。
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