第02話「工業都市の悪徳"警官"」(4)
格闘ゲーム『カーミラ』で愛用していたキャラクター、女吸血鬼の姿になってしまったアキラ。
彼は今の自分に戸惑う中、少なくない痛打を浴び、一発は後頭部にも及んだ。
だが、要所要所で反撃を入れ、相手の大技を悉く空振りさせ続け、武器も奪った。
総合的に見れば、戦況は五分五分といったところだろう。
(この『クレイジーギア』のボスキャラに似た奴は、ゲームの設定みたいに悪さをしているみたいだが)
アキラは今の自分の体の事を不安げに手探りしながらも、対峙している相手の考察も続ける。
紺色の男は左右に目をやるも、蹴り飛ばされた棍棒を見つける事は出来なかった。
(それでも、警邏業の人間だ。揉めるのは避けるべきなんだろうけれど……。女の体だからって、男の『相手』をするなんて、まっぴらごめんだ!!)
紺色の男は胸ポケットから、当人すら、何枚目になるのか? を覚えていないガムを取り出して口に放り込むや、走り出した。
ドスッドス。
地響きをたて、建物を揺らしながら、大きく広げた両手を振り上げて、体重差が二倍どころではないだろう華奢な相手に向かって行く。
(ヒーローショーで象の怪人の体当たりを受ける時は、当たる瞬間に後ろに跳んで……車に撥ねられたような演技をしたが)
子供達の悲鳴と司会のおねえさんのマイクでの呼びかけの声が耳に蘇るも、懐かしさに浸る余裕はないとばかりに、アキラは凜とした顔を更に引き締めた。
(ふりをする必要は無い)
アキラの左足の踵が紺色の男の膝を一踏みするも、走り出した列車のように止まらない。
そして、止める気も無かった。
ふわッと羽が風で舞うように、膝を踏み台に後ろに跳ぶと同時に腰を捻り、豪風を想起させる速さで右足を振るう。
だが――。
「ゲッ!!」
紺色の男が口から咀嚼物――ぐにゃぐにゃになったガムを吐き飛ばしてきたのを見てしまった。
ぱっちりと大きく、輝きを湛えている目を真ん丸にしたアキラは悲鳴と同時に腰を捻る。
地に軸足をつけていない状態で回し蹴りをした直後に、更に無理やりに体勢を変える。
そのような事をすればバランスを崩すのは当然で、受け身をとれない体勢で落ちるのも必然だった。
瞬き数回の間もなく、床に叩きつけられる状況でも、アキラは出来る事を――これ以上、頭から落ちるのだけは避けようと、細く白い手を必死に床に向かって伸ばす。
必死な状態だったのだ。
ドレス越しにも分かる程に豊かなバストに向かって、紺色の男の片手が伸びるのを見ても、反応が出来なかったのも仕方の無い事だろう。
「ウリャァァッ」
当然、紺色の男の行為は痴漢目的ではない。
柔肉を鷲掴みにしていようと、最も確実に掴める場所を選んだだけのはずだ。
どんなに下卑た笑みを浮かべていようとも。
「ぁぁぁッ」
ドォォッン。
最初に背骨を、続けて後頭部を床に勢いよく叩きつけられ、建物を揺らした美女の叫びが酒場の中に響きわたる。
戦いを見物していた誰もが決着がついたと考え、彼女の今後の運命をおもんばかって苦い顔をする。
否、全員ではなかった。
「まだ、勝負はついていない。だって、彼はヒーローなんだから」
酒場のカウンター席に座っていたラフなシャツ姿の黒髪の男性が呟いた。
「彼? お客さんはあまり、英語が得意ではないようだな」
小馬鹿にしたのではなく、純粋に心配している顔をしたスキンヘッドのバーテンに、男性は女性のような仕草で小首を傾げると、意味ありげに微笑んだ。
** § **** § **
その時、アキラの目の前は激しく揺れ動いていた。
だが、それを不快に思う事はなかった。
正確には眩暈を気にしている余裕が無かったのだ。
(まずい。受け身をとり損なった……。ヘルメットを被っているのに、何て痛みだ)
やがて、あまりの辛さにより、感じなくなってしまったように、次第に痛みが薄らぎ始める。
故にアキラは目の前の光景について、考える事が出来るようになった。
視界が揺れていようとも、それが青空ではなく、木製の天井だと分かったが――。
(ここは?)
自分が何処にいるのか? が分からなかった。
周りの様子を見ようと、必死に体を起こそうとしていると、ヘルメット内部のマイク越しとは思えない程に鮮明な声が耳に届き始めた。
「大変! このままだと、ヒーローが負けちゃう。会場のみんな、さぁ、一斉に応援よ!!」
それは何百回と聞いたヒーローショーの司会のおねえさんの声だった。
次に聞こえ始めたのはヘルメット越し――と思えない。まるで、耳元で叫んでいるような声。
「ヒーロー、立ち上がってェッッ」
「負けちゃやだァァッ」
「頑張れ、ヒーロォォォッ」
アキラは立ち上がろうとするも、残念ながら、その体は動かなかった。
だが、頭上のライトを遮る何か――ヘルメットの覗き穴越しにしては、妙に鮮明に見える何か。
それが自分に向かって降って来る巨人型の着ぐるみだと分かると、体がゆっくりと動き始める。
(そうだ! どんなアクシデントがあろうと!!)
流れるように豊かで長い金髪を揺れ動かしながら、全身を赤で着飾ったアキラは目を大きく見開くと、その白い左手の平を床に叩きつけた。
(ヒーローが子供達の前で怪人役に負けるわけにはいかないッ)
バァァッン。
爆発したような音と共に床板が砕け散り、血のように真っ赤な色の風車が回る。
「うぉぉッ」
否、その美しい容姿に似合わない叫びを轟かせた美女が、床に寝そべった状態から、猛スピードの後方宙返りで起き上がったのだ。
左足先が床に着くと同時に、右膝が素早く折り曲げられ、その足先が突き刺すように上空に向かって伸ばされる。
「せぇィッ」
開ききったコンパスのように、180度近く開かれた見事な開脚。
体の柔軟な女性のみが出来る見事な一蹴り。
靴先で満月を描こうとしているかのような軌跡。
「アグッウェッ」
再びの金的。
それも手を使った技の数倍の威力はある――と言われる足を使っての一撃。
しかも、勝利を確信していたところへのカウンター。
紺色の男が口から泡を吹きながら、無防備な体勢で落下するのも必然だろう。
(あの声は……幻聴?)
冷たい汗が頬をすっと流れる中、アキラは天井に向けていた足先を振り落とすや、床を力強く蹴ると跳びあがり――。
「せゃぁッ」
左膝を折り曲げると、気合一閃。
先程とは逆の足先を降ってくる男の鼻に向け――意識を無くしている相手に対して、過剰ともいえる追撃を叩き込んだ。
** § **** § **
時折、視界が揺らぐのに耐えながら、アキラは両足に力を込めて、顔面から床に叩きつけられた紺色の男をじっと見る。
少なくない痛みはあるが、それでも、動かすのに支障はない――と右手を前面に出し、左拳を腰に構えて立つ。
(頼むから、そのまま寝ていてくれ)
やがて、紺色の男が起き上がらないのを確信。
優雅と言うよりも、鈍いと言った方が正しいだろう歩み方で、そっと近寄り、最初に口元、次に喉と手の脈を確認した。
(呼吸は荒いが、脈は問題ない。ヘルメットを被っているとはいえ、頭を打ったのが気になるが)
自身も抱える頭部へのダメージを考え、渋い顔をした後、アキラはふらふらとカウンター席に向かって歩き出す。
「今、手持ちがないんだ。皿洗いとかをするから、何か冷たい物を貰えないか?」
優雅に紅茶を飲む姿が似合うだろう美女には似合わない。
そのような懇願をされ、スキンヘッドのバーテンは苦笑すると、すっと、泡が湧き出し続ける炭酸水を注いだグラスを差し出した。
「奢りだ。面白い勝負を見せてもらったからな」
「ありがとう」
「但し、あれは別勘定だ」
バーテンは冷ややかに言うと、アキラが叩き割った床をクイッと親指で指し示した。
その様も絵になる渋い顔をされると苦笑。
「まぁ、直ぐに払えとは言わない代わりに、ある仕事をやって欲しい」
提案とも、要求ともいえる言葉をかけた。
「腕のたつ女を探していたんだ」
「荒くれ者相手のウェイトレス?」
気絶中の紺色の男を皆で端っこに片付けるや、何事も無かったかのように、酒盛りを再開した客達。
彼らに体を触られかけては、持っている皿を落とさずに華麗に蹴り飛ばす娘達。
ここでは日常なのだろう光景を見ながら、アキラが苦い顔で尋ねると、バーテンはくっく――と笑い声をあげる。
「言っただろう。必要なのは腕のたつ女。あの娘ら程度では、無意味に犠牲を増やすだけだ」
(俺は『カーミラ』の女吸血鬼の姿になっていても、女じゃないんだけどな)
「で? 何をやればいいんだ?」
犠牲、必要なのは強者。
不穏を感じさせる単語に眉を顰めながら、アキラは一字一句聞き逃さないつもりで尋ねた。
「最近、川沿いに女が通るまでは水中に潜伏。撫で回した後、川に飛び込んで逃走を繰り返す痴漢が出没している」
(男の俺があんな不快な思いをしたんだ……。心も体も女だったら)
戦いの最中の行為――攻撃手段の一つとしてだが、バストを鷲掴みにされた瞬間を思い出し、アキラは不快気に顔を歪めた。
「関係者も被害に遭ったという事でな。レッジェ商会が賞金三千ドルをかけている」
(単純計算で三十五万円。この世界の物価が分からないが……高過ぎないか? いや、関係者というのは身内? 街を二分するという組織の面子絡み? それに、何時出るのかが分からないのが相手で、成功報酬型だと考えれば)
アキラがそのまま、唸り声をあげそうな様子で腕を組んだ時だった。
パチパチパチ。
拍手の音と共に背後から、そっと近づいてくる一人の黒髪の男性がいた。
「慣れない女の体のはずなのに、それだけのアクションを出来るのは流石だよね」
男性が使ったのが自分には理解出来ない言語――日本語だった為、バーテンは拭いていたコップを置くと、不審げに顔を向けた。
そして、アキラは目の前に数時間前の自分――自宅でゲームをプレイしていた時の姿、ラフなシャツ姿の神月アキラが立っていて、拍手と共に話しかけてきた事に言葉を失っていた。