第07話「少女と老人」(3)
そう広いとは言えない。
だが、規則的に並べられた四脚テーブルが十字路とT字路を作り、快適に品々を閲覧出来るように考えられている。
買い物のし易さが第一に考えられたアンティークショップの中央部で、白地に青い筋の通った花プスキニアのような少女が、天に昇るかのように浮き上がっていく。
「ぇ? え、ぇ、え?」
戸惑いの表情で少女は溺れているように、手足を必死に動かした。
だが、潜るように手足を動かそうと、下に進む事は出来ない。
車椅子を使う皺の目立つ男は天井に向かって、ふわふわと飛び続ける少女を呆然と見ていた。
店の主人である老店主は何か言いたげに、口を開けては閉じを繰り返していたが、意を決した表情で店の奥へと走る。
「ひぃぁ!?」
背中一面に堅い何かが当たり、少女は顔を強張らせた。
だが、これ以上、浮き上がり続けない事が分かると、少しは落ち着きを取り戻せたのだろう。
下に戻る手がかりを得んと、背に当たった物へと手を伸ばした。
「これに掴まれ」
そう叫んだのは箒を片手に戻ってきた老店主だった。
だが、彼が柄を握り、持ち手を少女の方に伸ばすと――すすっと、少女は波に流されたように離れてしまう。
「と、遠い」
少女が必死に手を伸ばすと、猛風に煽られているかのように前後左右に揺れ動き始めた。
老店主は必死に箒を動かすが届かない。
「じ、爺ッ! 早く、助けろッ!! 何、もたもたし――ゥェ」
その外見からは想像出来ないような罵声を、少女は放ちきる事は出来なかった。
苦悶の表情の開ききった口元から、滴がポタポタと零れ落ちる。
そして、彼女の懐から、市松人形が飛び降りた。
そう――飛び降りた。
落ちたでも、放されたでもない。
人形が自身の意志で飛び降りたのだ。
自分を掴んでいた少女の腹に揃えた両足を叩き込んだ後に。
「なッ!」
車椅子の老人は鮮やか――とは言えない着地。
プロレスのボディープレスのように、腹を叩きつけかねないダイブ。
だが、衝突寸前に急ブレーキをかけたように静止した市松人形を見て、一声を発した。
「や、止めるんだ」
老店主は叫びながら、箒を投げ捨てると床に伏せる。
両足が硬直しているように一切動かさずに、足首の力だけで起き上がったかのような不自然過ぎる。
異様な体の起こし方をした市松人形の目を見て話そうと。
(やっぱり、アレは)
アキラは異色の格闘ゲーム『カーミラ』の中でも、桁外れに小柄なキャラクター。
身長五十センチ程の市松人形にそっくりな何かから、目を離す事が出来なかった。
(なら、次は……)
市松人形は手足が極端に短い為、直接攻撃で相手にダメージを与えるのが困難。
だが、物体を浮遊させ、飛び道具に出来るという能力を持ち、中遠距離戦に強いキャラである。
そして、他のキャラと違って、密着時に相手を投げるという事が出来ない代わりに、離れていると相手を投げられる。
そのような特異な能力も持っていた。
「嫌 こいつ お爺ちゃん 苛めた」
市松人形が口をパカパカと開け閉めするのを見て、アキラは驚きを隠せなかった。
(あれじゃ、くるみ割り人形じゃないか! 『カーミラ』の市松人形に、そんな設定は)
戦闘開始前の会話シーン。勝利時の宣言。そして、エンディング。
他のキャラだと、口元だけがアニメをする場面でも、市松人形は口を動かさなかった。
彼女は物体を浮遊させるように、相手の心に自分の言葉を伝える。テレパシー能力で会話をするという設定だった。
(俺の……カーミラの衣装の細部が異なるように違う? 全てがゲーム通りではないって事か……だが)
似通うならば――ゲームでの知識も参考程度だろうと役には立つだろう。
アキラは必死の形相で走り出していた。
老店主への言動で、少女に少なからぬ不快感を抱いていようと、半ば無意識に体が動くが故に。
(間に合え)
必死に願って、走ったアキラの後ろで、市松人形がギクシャクとした動きで腕を振り落とした。
「いゃゃァッ!!」
浮遊から解放された代わりに、三メートル程の高さから、床に叩きつけられんとしている。
「せぇぃ」
恐怖で顔を引き攣らせた少女を救わんと、アキラは必死の形相で床を蹴ると同時に体を捻った。
(利用出来る物は何だろうと)
かつて、パワーキャラのイエローの『中の人』だった頃に何度か使った回転頭突き。
別に威力が上がるわけでは無いが、見た目が派手になる事で子供受けが良かった技で、今だから出来る事をした。
「ゥゴォ! ォァゥ」
少女は別に太っていたわけではない。
それでも、落下速度が加算されていたのだ。
アキラの豊かな胸部への衝撃は、彼が考えていた以上のものだった。
その端正な顔は滑稽な程に歪み、直後、人間二人分を叩きつけられた床が悲鳴をあげた。
テーブルも揺れ、載っていたアクセサリーが降り落ちて、カチャーン、キィーンと雨音を奏でていく。
「痛ッ」
自身の体をクッションにする事で、少女が床に叩きつけられるを回避したアキラ。
彼は背中の後に打ちつけた頭を擦りながら、体を起こしかけていた。
「ひッ」
起伏豊かとなったアキラの体に跨っていた少女は、自分を睨んでいる市松人形に気づくと、小さな悲鳴を零した。
「ァ」
体を起こしかけていたアキラの豊かな胸を踏み台にし、薄っすらと嬌声が混じった悲鳴をあげさせた少女が店の奥へと逃げて行く。
「苛めてやる」
口元をカタカタと動かし、そう宣言をするや、市松人形はふわりと浮き上がった。
それを捕まえようと老店主が立ち上がった時には、既に倒れたアキラの足元の側まで、一メートル近くを飛んでいた。
(ゲームだと、他のキャラの三分の一くらいの大きさで、ちょこちょこと走り回るのが可愛かったのに)
相手を浮かせる事が出来るなら、自身を浮かせる事も出来るだろう。
アキラは苦痛を必死に堪えながら、上半身を跳ね上げた勢いで立ち上がると同時に、右足を軸として、左足先を人形に当てないように、空を裂くかたちで振りぬいた。
その気流に押されたように、後ろに下がった人形がパクパク、カタカタと口元を動かす。
(店主への態度等を考えると、正直、助けたくはないけどな)
「子供のやった事だから、忘れろとは言わない。けどな」
流れる金色の長髪に指を突きいれ、頭を掻き毟りながら、心底嫌そうにアキラは市松人形に語りかける。
「お前 邪魔 どけ」
「女の子を吊り上げて、顔面から叩きつけようなんて奴を見過ごすわけにはいかねぇ」
力ずくで止めるの宣言と同時に、アキラは仕草を覆い隠すスカートの中で腰を落とす。
(けど、河童達みたいに殴る蹴るするわけにも)
ぎゅっと握った左拳を腰の所で構え、右手を顔の少し先で大きく開く。
(ぎりぎりで当たらないようにしながら、距離を詰めて、掴まえたいが……)
相手の攻撃を受け止めるか、払えるように体勢をとりながら、軸にする左足を前面に出し、右足を後ろに引く。
(ゲームだと、小石にネジ。ステージ毎に異なった小物を浮かせては、飛び道具として使ってきた)
アキラは右目で市松人形を見ながら、左目でテーブルの上を。
次いで左目で人形を見ながら、飛ばしてくる可能性がある物を確認すると静かに、息を吸って吐いた。
(西洋と東洋の違いはあれど、同じ人形を飛ばしてはこないだろうから)
片目で眼前の敵を観察しながら、残る片目でテーブルのアクセサリーに動きが無いかを観察。
右に異変が無いなら、左を。そして、また、右を見る。
アキラから動くのを待っているのだろうか。
市松人形は波で揺れるボートのように、微妙に上下左右に揺れ動きつつも、それ以上の動きは見せなかった。
そのまま、睨み合いが延々と続くと思われたが――。
「止めるんじゃ」
アキラがやりたかった事を老店主が成功させた。
後ろから、人形に両手で掴みかかる。
否、抱くように両手で包み込んだ。
「やだ 放して」
飛び立とうとはかりに、人形は上下に激しく揺れる。
老店主は激しく体を揺さぶられるも、それでも、手を放さない。
(乱暴な手は使いたくない。そのまま大人しく、捕まってくれ)
だが、アキラの願いも虚しく、トスンと枯れ枝が落ちたような音をさせて、遂に老店主は足をもつれさせて転んでしまう。
「くぅ」
足首を抑えた老店主に向かって、アキラが走り出すと同時に、市松人形も飛んだ。
直後、パァンと銃の発砲音ではないが、火薬の炸裂した臭いが広がった。
音のした方向へと腰を捻ろうとしていたアキラの眼前で、市松人形が床に向かって落ちていく。
背中から、腹へと鋭い何かを生やしながら。
** § **
会場の子供達の声援を受け、ヒーローが五人がかりでの大技を繰り出し――火薬の臭いと爆発音が広がり、怪人が派手に倒れる。
それがショーの終わり方の一つであり、『中の人』であるアキラは見慣れた光景だった。
だから、近距離での火薬にも慣れているつもりだったが、ショーのものではない火薬の臭いは鼻をついた。
誰かが静かに倒れていく光景はショッキングであり、ほっそりとしていて優雅な体は厳つい岩のように硬直をしていた。
(今、何が?)
呆然とし、声を出せないまま、音の発生した方角へと顔を向ける。
そこにいたのは、車椅子に乗った皺の目立つ痩せた男。
ただ、少し奇妙だった。
彼の座る車椅子は背もたれの部分が妙に分厚い。そういうデザインという事もあるだろう。
だが、肘掛け部分から、弾を放った直後の銃口のように硝煙を立ち昇らせている。
そのような車椅子があるだろうか?
「ぉおッお」
何が起きたかが分からない。
ゴミ捨て場で目を覚ました直後のように、理解が追いつかない状況でも、家族を目の前で失ったかのように泣く誰かの声を聞き、アキラの体は無意識に動いた。
(幸い、留まっている。下手に抜いたら、失血死に繋がるから)
背中側から、腹へと矢と言うには太過ぎるが、杭と呼ぶには細過ぎる。
異様な突起物が突き抜けた市松人形を前に、アキラは負傷時の応急処置の知識に基づいて考えるも――。
(いや、待て。これは人形だ)
ゆっくりと息を吸って、同じように吐き、あらためて考える。
(痛々しいから、直ぐに抜いてやりたいけど)
老店主は泣き喚くのを止めたものの、人形を抱きかかえるアキラの前で、ただ口を開けては閉じるを繰り返すだけだ。
「俺に人形修繕の知識は無い。だから、この子はあんたが治すんだ」
そして、新たな銃弾を放たんとしている銃口の前に立ち塞がるように、痩せた男の視線を遮らんと勢い良く立ち上がった。