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第04話「川辺の怪」(4)

 アドレナリンの分泌が思考を加速させたのだろうか?

 脳裏に記事が蘇り始めたアキラは、戦いの最中だというのに、気づかぬうちに喜びで頬を緩ませかけていた。


「こりゅに懲りたら、二度と俺を捕まえようなんて思うァ」


 河童は忠告で言ったのだろう。

 だが、アキラには、これからも痴漢を続ける――と宣言したようにしか思えなかった。

 故に。


「女の敵を逃がす気はない」


 重度の風邪で手足が重くなっているような苦しさなど、微塵も感じさせない声で力強く返させる。


「そんな豊満ボディーを魅せつけておいて、触るなは無いだろォォッ」


 河童の下卑た視線によって、体に吸いつくように張りついた衣服を――自分の今の胸元を意識させられる。

 アキラが顔をしかめると同時に、バァァッンと何かが破裂したような音が鳴った。


「ッ!?」


 数瞬前まで、アキラが立っていた場所。正確には腰があった辺り。

 短距離走の選手のように瞬間的な加速で距離を詰めるも、何も無い空間を掴んでしまった河童はチィっと舌打ち音を鳴らし――。


「ヴェッ」


 軽やかに舞っていたアキラの白い右足を彩るルイヒールの先端を顎に打ち込まれた。


(想像以上に速い! だが、相手の狙いが分かっていれば)

「せぇぇィ」


 宙で静止出来た状況を活かさんと、アキラは振り上げていた左踵を勢いよく振り落とす。

 だが、顎に一撃を受けた瞬間に河童は後方へ跳んでいた。

 否、文字通りに飛んでいた。

 口から勢いよく吹き出した水を推進力として。

 そして、それは追撃を避ける為であり、反撃の為の手段だった。


(霞む――ッ)


 視界を半ば奪われるも、辛うじて、直撃を避ける事は出来たアキラは冷静につま先から着地。

 膝を曲げて、衝撃を逃がすと同時に、即座に力強く跳び上がった。


「ガッ……アゥ」


 だが、宙へ舞うと同時にアキラの腹部に強烈な一撃が入る。

 但し、打ち込まれたのは拳でも、足でもない。

 頭突きというよりも、顔面突きとでもいうべき一撃。

 肺に残っていた空気を全て吐き出させられ、何が起きたのかが分からないまま、アキラは落ちていく。


「いゃっしゃぁ」


 地面に後頭部を叩きつけられかけたアキラの細過ぎる腰に、ブチャンという音と共に両手が巻きつき、歓喜の叫びが響く。

 だが、当然、河童は人命救助の成功を喜んでいるわけではない。


「ァウゥ」


 新鮮な空気を求めたアキラの形の良い鼻に、猛烈な生臭さが襲いかかる。

 戦いの最中だというのに、臭いに耐えきれずに()は体を捻って、視線を逸らした。


「せぇぇぇぃ」


 一声を放つと同時に河童は両脇を締め、声にならない悲鳴をあげさせる。


「とっとと、ギブアップしろッ! これに懲りたら」


 そう言うや、河童はアキラの細過ぎる腰を更に絞らんとばかりに、抱え込む力を強めるも――。


「ゥェを」


 これが返事だとばかりに、ぎゅっと拳を握り締めた右の肘を脳天に降り落とされたが為に、舌を噛んでしまった。

 続けて、左肘も叩き込まれる。

 締め上げる力を弱めさせる為、脳震盪を起こさせよう――という選択自体は正しかっただろう。


「うぉぉぉッ」


 だが、まともに打てない状況では、三撃目を決めようとも、本来の一発分の威力も無い。

 ただ単純に河童を興奮させ、雄叫びをあげさせただけだ。


「むむむぅぅッン」


 月に捧げんとばかりに、河童は苦悶に一度見れば記憶に残るだろう顔の女性(・・)を高々と掲げ、赤い紅が塗られた唇から、飛沫が零れた。


「おりゃぁぁッ」


 河童が万力で締めるように両腕を更に締めると、ぱっちりと大きな目が更に見開いた。

 輝きを湛えている黒い瞳から、輝きが薄れていき、フィットする事で細さを浮き出させていた袖がだらりと落ちる。


「――ェィ」


 ぎゅっと握られていたアキラの左拳が解かれ、振り上げられていた左肘が撫でるように河童の頭部を掠る。

 突然、全ての音が消えたかのように川辺は不自然に静まり返ると、何かが折れる気味の悪い音が鳴った。


**  §  **


 静まり返った夜の川辺に二つの人影があった。

 一つは口ばしをポカンと大きく開け、目を震わせている河童。

 もう一つは、河童に高々と掲げあげられているドレスを纏った金髪の美人。

 但し、彼女(・・)の首は真後ろに倒れ、まるで人形の様に生気を感じさせなかった。


「こ、腰だよな? せ、背骨じゃないよな?」


 河童は自分が抱え上げている。

 否、両腕で締めつつ、吊り上げる事で自重(じじゅう)という重しも付加して、ダメージを与える。

 相撲の鯖降りと、プロレスのベアハッグが混ざったような技の対象に恐々と問いかけた。


「お、おいッ!」


 だが、何時までたっても、反応が無い事に焦った河童は抱え上げたアキラを激しく揺さぶった。


「俺は悪くないぞ!!」


 叫んだ河童の両腕の中から、肩まで下りている豊かで長い金髪が落ちていく。

 それも、頭から。

 けれど、地面にあたろうと、傷みを負った時の当然の反応もなかった。


「と、とりあえず、119番。いや、110番で救急車を呼んでやるから」


 一切の身動きをしない対戦相手に向けられた河童の目と声はどちらも、激しく震えていた。


「お、俺を捕まえようとした、ねえちゃんが悪いんだからな」


 ズボンの尻ポケットをまさぐる様に、水掻きのついた手を動かしたが――。


「そ、そうか! ピッチ(PHS)は!! こ、公衆電話は何処だ!?」


 河童は強張った顔を左右に必死に動かしたが、残念ながら、この世界に存在しない物を見つける事は出来なかった。


「あ、ぁあぅぁ」


 頭を抱えて、屈み込んだ河童は気づけなかった。

 身動き一つどころか、生気すら感じさせなかった美しい顔が角度を変え、じっと、自分を見ている事に。


 **  §  **


 三度目の肘打ちを河童に仕掛けた直後、気を失っていたアキラには月が下から、天を流れる川を照らしているように見えていた。

 自分の状況を理解出来たのは、唐突に視界が揺れ、自分の体が猛スピードで()に向かって飛んだ時だった。


(そうか、俺は痛みのショックで)


 出血の有無を確かめる為、後頭部に手を伸ばそうとするも――残念ながら、アキラの両腕は動かない。

 状況を理解しようにも、見えるのは自分を照らす月だけ。

 だから、耳を澄ませていると、激しく狼狽する誰かが何かを呟いているのが聞こえてきた。


(折られた……のか?)


 左腕と右手首、腰、正確には尾てい骨。

 そして、急速に和らぎつつあるが、それでも、一番痛んでいる頭部。

 あちこちに猛烈な痛みを感じているのに、自分を冷静に客観視出来ている事に驚きながら、アキラは川のせせらぎ音を聞いていた。


(川辺で河童と戦って、複数個所を折られたのに、数分後には、ある程度ならば動けるようになる……。現実とは思えないな)


 まともに動けない重傷者ではあるが冷静なアキラに対し、散々殴られ蹴られはしたものの――五体無事な河童はぎくしゃくした動きで、グルグルと歩き回る。


(いや、ゲームの中のキャラになるなんて時点で、既に現実離れが酷いんだ。何を今更か)


 河童が救急車を呼ぼうと甲羅の下部を触るのを見て、アキラは苦笑を浮かべた。


(根っからの悪人ってわけじゃないんだろうな)

「アメリカで救急車を呼ぶ時は911だ」


 そう声に出したつもりだったが、言葉として発する事は出来ていなかった。

 もし、その声が届いていたならば、罪悪感から解放された河童は嬉々として、満足に動けないアキラの全身を揉みまくっていただろう。


 だが、声は届かなかった。

 故に、屈んでいた河童は勢いよく立ち上がるや、罪の意識から逃れんとばかりに、猛烈な勢いで走り出した。

 ペチャペチャと足音をさせながら。

 今まで、何人もの女性を襲って逃げ去った時のように、月光の下を流れる川に向かって。


(だけど、痴漢だ。逃がすわけにはいかない)


 月を見る格好で仰向けに倒れていたアキラは丹田(たんでん)――へその少し下に力を溜めんとばかりに、大きく息を吸い込んだ。

 覚悟していたのを超える痛みに、心臓が止まったかのような感覚に襲われてしまう。


「はッァッ」


 気合の叫びと同時に全てを、全身をはしる痛みさえも吐き出し、腰をぐるんと捻る。

 突然の声に河童は凍りついたかのように足を止めると、ゆっくりと首を捻った。


(走る際の霧化が出来たんだ。ならば)


 雪のように白い。

 そして、しっとりとして輝かんばかりに艶やかな指先が緩慢に向けられる。


「凍てつけッ」


 真夏さえも氷づけにする冷たさと、決して、痴漢を逃さないという熱き決意が重なった声が夜闇に響く。

 口ばしをパカっと開けていた河童を中心として、半径数メートルが一瞬にして、白銀に染まる。

 いや、半径という呼び方は不正確か。

 まるで蜘蛛の巣のように、四方八方へ広がっているが、一辺の長さが不均等である。

 一見綺麗だが、氷細工としては不出来だろう。


「アェッ」


 命を奪わない程度に凍らせ、動きを封じたい――と願ったアキラの前で、寒さでガタガタと震えながら、痴漢はよたよたと走り出した。


「ひゃぁ」


 だが、足を滑らせ、見事な、本当に見事な後方宙返り。

 絵になる様というより、まるでコメディ映画の一場面だった。


「ウェヴァ」


 パキリ――と皿に見える頭部で氷に亀裂を入れると、するすると逆立ち状態で滑り出した。

 と言っても、逃走しているわけではない。

 不自然にだらりと下げられた両腕と、変に曲がった両足の様子から、河童がまともな状態に無い事は明らかだ。


「ま、まずい」


 アキラは痛む両手を地面につけると、肘の力も使って、ゆっくりと動き出す。

 ドレスの前半分と端整な顔を泥まみれにし、ティーカップを乗せられるくらいに水平に出っ張っているスカートを揺らしながら、芋虫のような動きではあるものの、何倍もの速さで月光の下を匍匐前進していく。


「くぅ……ぅッ」


 白い歯を剥き出しにして、食いしばりながら、苦痛に耐える声をあげる。

 立ち上がる為の支えを求め、柵の一片を握ったが――。

 バキリ。

 痛んでいた木材は白い手の内であっさりと砕け散ってしまった。


「くそッ」


 その風貌に似合わない悪態を吐いた後、アキラは波止場の外へと体を突き出した。

 もし、気絶から覚めた河童が待ち構えていたならば、抵抗の間もなく、水中に引きずり込まれる。

 それを予測出来ない程に疲労し、時折、目の前が上下左右に揺れ動く。

 反撃には絶望的な状況。

 だが、幸いな事に河童の逆襲は起きなかった。

 そして、逃走もしていなかった。


 不法投棄されたのだろうか? それとも、事故に遭ったのだろうか?

 少し下流で頭だけを出していた少人数乗り用の木造船の残骸に、腹部を月光に晒した河童が引っかかっていた。


「河童の川流れ」


 諺のように河童が川で溺れているわけではない。

 そもそも、流されてもいない。

 なので、例えとしては全てがおかしい。

 それが分からない程に意識が朦朧としており、満足に動けない状況。

 それでも、アキラは何時、溺れるか分からない誰かを。

 例え、それが殴りあいをしていた相手だろうと、そのままにしておけるような人間ではなかった。

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