第04話「川辺の怪」(2)
レッジェ商会は船着場を占有後、貧相だった食堂を改装。
労働者の福利厚生を図ると同時に、同商会が経営する娼館の新人達を配置し、顧客の開拓を行わせた。
と言っても、付け焼刃という事はない。
あらゆる面でテクニックに長ける彼女達は、料理の腕前も一流だった。
被害者がそういう女性達ばかりの所に、女性の姿で行く事に抵抗を感じるも、武士は食わねど高楊枝とはいかない。
何をするにも、まず、必要なものが無かったアキラに選択肢は無かった。
軒先に積まれていた椅子の一つを拝借。
憂鬱な表情で揺れる水面を遠目に見ていた美女は整った鼻を、突然の生臭さで突かれ、跳び上がるように椅子から立ち上がる。
優雅さは真逆の動きで振り向く前に、赤い紅を塗られた唇は背後に立っていた何者かの水かき付きの手で強引に塞がれ、回転も強引に止められてしまう。
「ッ!」
ほっそりとしている腕に力を込め、息を止めたアキラは右拳をぎゅっと握ると、肘を素早く振り上げ、それ以上の速さで斜め後方に振り落とす。
(痛ゥ! 何て硬さだ!!)
石を叩いたような感覚を味わうと同時に、肘に猛烈な痺れがはしる。
ガタン。
二人に挟まれる形になっていた椅子が倒れたのが合図だったかのように、背後から、生臭さを漂わせる手がまた伸びた。
(振り解けないッ!!)
アキラは背後に立つ何者かの左手で口を塞がれ、己が右腕の上に相手の右腕を乗せられ、体に押し付ける体勢で封じられてしまう。
「ングゥ」
相手の手の異常なまでの生臭さ故に、鼻での呼吸が辛い。
何としても、相手を突き離そうと、アキラは握った左拳を垂直に振り上げて、肘を一気に振るった。
だが、まともに見えていない状況では、とても硬い防具に打ち込むという無駄にしかならない。
(この気持ち悪さッ!)
「揉みがいのある胸だぜぇぇぇ」
それでも――。
喜色の声をあげる相手への怒り。
服越しとはいえ、胸を乱暴に揉みしだかれる事で湧き上がった不快感。
それらを反撃の原動力として、失いそうになっている意識を必死に繋ぎ止める。
肘から全身にはしる痛みを堪えながら、三発目、四発目と振るうが、痺れも溜まっていく。
故に聞き流してしまった。
痴漢が英語ではなく――日本語を喋っていた事を。
「ヴエッ」
五発目で胸鎖関節に一突きが入ると、痴漢は踏まれたカエルのような叫びをあげた。
だが、それで距離をとらせるような事はしなかった。
生臭い左手が勢いよく開かれると、口だけでなく、鼻呼吸をも封じる。
右手は胸を揉みしだくのではなく、アキラの右腕を押さえ込んだ。
しかも、六発目を叩き込まんとしていた左腕をも掴んだ。
(何ェ――怪ィヴァ!)
鼻を突き刺すような生臭さが増し、意識は更に朦朧とし、膝も揺れ始めた。
アキラは必死に立ち続けようとし、痴漢は一刻も早く、気絶をさせんと生臭い水かき付きの手を更に密着させる。
「ゥ!!」
肘から力が抜け、ダラリとした直後、また、胸を揉みしだかれ始めた。
今まで味わった事の無い不快感。
紺色の男に鷲掴みにされた時の事など、比べものにならない嫌悪感。
心が男の自分でも、これだけの不快感を味わうのだ。
ならば、心も体も女性の被害者達が味わった思いは?
女吸血鬼となった肉体を――アキラの熱い血が駆け巡った。
「ヴゥゥッ」
アキラはばっちりと大きな両目を更に見開くや、崩れ落ちるかのように、膝を一気に曲げた。
間髪おかずに、バァァッンと爆発したかのような音と土煙を生むと、後ろへと跳んだ。
「グゲェェッ」
同年代の平均よりも軽いとはいえ、大人の女性一人分。
一種の重量物を抱えた状態で、背中から、叩きつけられたのだ。
痴漢が潰されたカエルの断末魔の如き叫びをあげるのも必然だろう。
アキラは窒息から脱すると、呼吸を整えるよりも、拳を叩き込まんと構えた。
だが、ぎゅっと握った両の拳を振るう事は出来なかった。
何故なら――。
「はァ!?」
痴漢はアキラに目を見開かせ、間の抜けた声も出させてしまうような姿だったからだ。
** § **
夜の川辺で目を見開いた女吸血鬼の前で、全長180センチ程の亀のような生き物が、必死に起き上がろうとしていた。
ぱっと見でわかる程に硬そうで、水苔だらけの甲羅が、頭部と両手足以外の部分を覆っている。
両手の指と指の間には水を掻き進む為の膜があり、両足の指先からは足場の悪い場所でも、確実にしっかりと立てるようにだろうか? 鋭い爪が伸びていた。
そして、口元からは、鳥のような口ばしが伸び、頭には皿にしか見えない何かがある。
どう見ても、多くの絵師が水墨画や漫画で描き、映画やドラマで立体化されてきた河童だった。
「はァ!?」
よたよたと立ち上がった河童は呆然としているアキラを見ると、間の抜けた声で日本語を発した。
(日本の代表的妖怪なんだから、日本語を喋っても……。いや、妖怪なんて代物が存在するのか? ああゆう外見の生き物?)
気づいたら、急加速中のジェットコースターに乗せられていた。
見えているのに、目の前のモノを認識出来ない――という表情で、アキラは口をポカンと開ける。
「服のデザインが違うが、その一度見たら忘れられない顔……『カーミラ』の女吸血鬼か!?」
問いかけとも、独り言ともとれる声を発した後、河童は下品な笑みを浮かべた。
「パツキンのねえちゃん達は英語しか喋らねぇから、言っている事が半分も分からなくて面白くねぇ」
地面を踏み均さんとばかりに、両足を振り上げては振り落とす。
一見駄々をこねる子供のようにも見える仕草だったが、もし、ちゃんと見ていたならば準備運動と気づけただろう。
(英語圏の人間が、英語を話すのは当たり前だろ)
思わず返したくなったツッコミを飲み込み、アキラは両の拳を見せつけるようにぎゅっと握り、隠されたスカートの中で地面を蹴っていた。
河童は腕を左右にゆっくりと広げると、自身を大きく見せる事で威嚇するかのように、水掻き付きの両手も大きく開いた。
「揉んで、喘がせ」
当然ながら、これは試合ではない。
途中で止める審判もいなければ、開始の合図も無い。
両手を眼前で打合せつつ、されようとしていた河童の犯行予告は――。
「せェィッ」
「ヴェ」
距離を詰めると同時に、気合一閃。
ルイヒールの先端を鎌で草を刈るように、河童の左足首の外から内へと振るっていたアキラに止められた。
「ぐッ!!」
河童は左頬から、地面に叩きつけられん程にバランスを一気に崩した。
地面に向かって落ちる眉間を打ち抜かんと、鬼気を纏ったアキラの鋭い目が追う。
「ハッ」
無言で重心を落としたアキラは左の拳は握ったままにし、腰のところで構えていた右拳を、溜め込んでいた息を吐き出すと共に一突きに打ち出した。
「むむむぅぅぅん」
一突きを避けんと、苦悶の表情の河童は気の抜けるような叫びをあげながら、背を大きく逸らせ――。
パァァン。
甲羅という重石によって、一気に体を後ろに引っ張らせる事で、アキラの一突きに空気を叩かせる事に成功した。
(急き過ぎた)
焦りと後悔が入り混じった表情を浮かべたアキラに対し、河童は下品な笑みを浮かべる。
「グラマーボディーで金髪で日本語を喋る女なんて最高ォォォッ」
反ったのを活かさんとばかりに、河童は水を滴らせ続ける体を前に振るや、月明かりの中を蛙のように跳んだ。
「いや、待て! 俺は」
男だ。
アキラはそう言おうとしたが、それを言葉には出来なかった。
代わりに夜闇の中に広がったのは、硬い何かと何かがぶつかる音。
「ぐぁぅ」
「痛ェ」
小さく美しく整っている鼻先に、口ばしをぶつけておきながら、河童が恨みがましい目をアキラに向ける。
「くぅ……痛ゥ」
河童が意図しなかった結果とはいえ、助走をつけての頭突きを打ち込まれ、目の前が揺れていたアキラは倒れないように両足に力を入れる。
だが、踏ん張るのが精一杯で、優雅でほっそりとした体は前後左右に揺れ動く。
「お! ピヨったな」
喜色満面の河童は大きく踏み込むと、広げていた両手を一気に閉じて、細い体には不釣り合いな程に豊満な胸部を勢いよく左右から挟み込んだ。
「ゥ……ウッ」
服越しとはいえ、他人の手で触られる気持ち悪さ。それも、濡れた手で。
アキラは零しそうになった苦鳴を飲み込めたが、河童の次の攻撃には耐えられなかった。
掴んで寄せたバストに己が頭を――否、顔を叩き込んできたからだ。
当然ながら、頭突きが目的ではなかった。
女体の胸部をエアバッグ代わりにする事も目的ではない。
「このボリュームッ! 堪らねぇ!!」
歓喜の叫びをあげながら、河童は激しく顔を左右に振り続ける。
鼻先で急速に広がる生臭さ。
猛スピードで全身を駆ける悪寒に苦しむ中、アキラは河童を離さんと、その両肩を掴もうとするも――。
「なッ!?」
ツルリッ。
漫画であればデカデカと擬音が描かれる程に、両手は虚しく、猛スピードで宙へと打ち上げられた。
(カエルはぬるぬるしているけど、河童も!?)
相手の思わぬ特性で呆気にとられる暇など、アキラには無い。
「自分から胸を押し付けてくるなんて、俺のテクはそんなに良いかァッ!?」
思わぬ形で前のめりになったアキラの行為を挑発か? それとも、真に誤解したのか? 河童は上気した声で問いかけた。
返事とばかりにアキラは右拳をぎゅっと握ると、肘を相手の頭部へ――。
「せぇぇいッ」
気合の叫びと共に、河童の特徴ともいえる皿に振り落とす。
「ぐぇッ」
河童は一鳴きするや、ふらふらとよろめくように後退った。
(頭の皿は割れ易いイメージがあったのにな)
アキラに技を教えた先達達は揃って、瓦とは葺く物であって、割る為の物ではない――と教えてきた為、彼も瓦割には興味が無かった。
それでも、ショーの一環として、ヒーローの姿で瓦割を行った経験は何度かあった。
(瓦よりも堅いぞ。皿を頭に乗せているんじゃなくて、あれは剥き出しの頭蓋骨?)
防具を着けていない相手の頭部に一撃を入れてしまった。
罪悪感で胃が痛みだしたアキラの前で、腰を沈めていた河童の尖った口ばしが大きく開く。
「お返しだぜェェッ」
ダメージなど感じさせない声を響かせながら、三メートル程、離れていた距離を一気に詰めた。
自己嫌悪に陥っていても、無意識に握っていた両手の拳を、アキラは意識して更に強く握り締める。
(マウント狙いの低空タックル? ならば)
アキラは右の拳を構え、左の膝も打ち込まんとスカートの中で深々と静かに腰を落とす。
「ヤッハァァッ」
もう、二踏みで河童は相手の腰を掴める。
あと、一踏みでアキラの拳は相手の顔面を捉えられる。
そのような距離で、河童は奇声をあげるや、急速浮上をする潜水艦のように、体を浮き上がらせた。
「ッ」
加速中に突き上げられた手の平から、水が滴り落ち、月光が怪しく照らす。
(速いッ! それに!!)
とある格闘技大会で対戦した相撲とレスリングの経験者の猛烈な張り手。
意識が跳びかけた一突きを思い出し、アキラは唇をぎゅっと結んだ。
だが、覚悟していた以上の衝撃が腹から全身へと走り、同年齢の平均よりも軽い体は軽々と浮き上がる。
漏らしそうになった苦鳴を飲み込み、美しい顔を顰めた女を狙って、踏ん張った河童の右掌も一気に伸びた。
(顎狙いか!!)
宙へと舞わせられたアキラが背を反らせた瞬間、またも、重い一撃が貫くも、相手の狙いは顎では無かった。
「叩きがいのある胸だぜェェッ」
力士が繰り出すような見事な突っ張りが、空気を裂く音を轟かせながら、柔肌を突いた。
但し、技として使う彼らと違って、河童は好からぬ目的の為に使っている。
それは愉悦に満ちた表情と嘴から、零れ続ける涎の量で明らかだった。
「ぅ」
一突き毎に肺の中の空気を吐き出させられ、踵が波止場の床板を踏む前に、再度突き上げられる。
(踏ん張れない)
吊られて固定されているわけではない。
なのに、一種のサンドバック状態にさせられてしまっていた。