その4
さて、まず俺はブルゾンのポケットの定期入れを確認。
通勤用の定期券なので、もう使うことは無いと考えていたのだが、思わぬところで出番となった。
毎朝通った駅まで歩く。
見慣れた町並みなのだけど、この時間に歩くのは初めてだ。
しかも私服姿。
髪もセットしていないし、無職の実感がしみわたる。
改札口を抜けると、ちょうど良く電車がホームに滑り込んできた。
今までの経験では、社内は混み合っていたものだが、やはり空いている。
初めて、という感覚で座席に座る。
夕方、少し前の時間帯。
今まではこの時間帯、何をしてたっけ?
もう、遠い過去のように実感が薄れてしまっている。
俺の退職は、つい先程のことだったはずなのに。
向かう先は、会社のある駅。
ここもまた、朝のラッシュからはほど遠い。
ガランとしたような、他人顔の風景。
駅を出て会社に向かって、は歩かない。
反対側へ足を進める。
ちょうどオフィス街へ背を向ける格好だ。
するとすぐに、世界のタバコと書かれた看板が見えてきた。
シャルローネに渡した煙草、ゴールデンバットシガーは、北海道限定の商品なのだ。
定価現在のところ二百八十円。
この安さに釣られて、俺はこの煙草を吸うようになったのだ。
つまり俺はこの店の常連である。
ガラス戸を押して呼び鈴が鳴ると、店の親父がすでに紫色のケースをふたつ、じゅんびしてくれていた。
「今日はカートン買いなんだ。ワンカートン貰えるかな?」
「おや、パチンコでも勝ったのですか?」
「知人に紹介したら気に入られてね、まとめて欲しいって言うんだ」
やはりカートン買いは目立つようだ。
値上げ前にはあるあるな光景なのだが、次の値上げは十月と聞いている。
愛煙家の一人としては、煙草というものは是非とも三百円以下。
可能ならば二百五十円以下に抑えてもらいたいものだが。
まあ、そうは言っても値上がりすることは決定しているのだ。
どうにもならないことはどうにもならないのである。
で、レジ袋に入れてもらったゴールデンバットシガー、ワンカートン。
これを提げて店内をうろつく。
革命家の似顔絵をプリントしたパッケージやら、大怪盗アニメの主人公愛飲の煙草を眺めてまわる。
煙草好きとしては、それだけでもニヤニヤしてしまう至福のひとときなのだ。
嫌煙家からすれば、少しどうかしているとしか思えないであろう光景である。
あの煙草はどんな風味なのか?
この煙草は歌のタイトルになっていたな。
今度吸ってみよう、などと想像をふくらますのは愛煙家の楽しみのひとつなのである。
とはいえ、女の子であるシャルローネを野郎臭い部屋にいつまでも一人切りにしておく訳にはいかない。
愛煙家の妄想は早々に切り上げて、駅へと向かう。
ところが、駅の手前の交差点で、あまり出くわしたくない人物に出くわしてしまった。
課長である。
ヤツにとって俺は、生きている限り一生部下のつもりなのだろうか、やけになれなれしく近づいてきた。
「よう、どうだい足立くん! 次の職は決まったかね?」
相変わらずセンスのない男性用コロンの臭いをプンプンとさせて、腕のロレックスを見せびらかすように時間を確かめていた。
「いえ、まだですけど」
「よかったらいつでも復職を認めるよ。なにしろ男なんだからね、男は仕事だろ」
いえ、絶対に遠慮しておきます。
というか自分の価値観を他人に押しつけないでください、迷惑です。
「それじゃあキミもガンバりたまえ! な!」
な! という最後の一言が余計である。
明確に自分の意思を押しつけてきているのだ。
こうした態度のひとつひとつが疳に障るのである。
普段ならば下品な真似をして、道端へ痰ツバでもはいてやりたいところだが、今はシャルローネという可愛らしい女の子が、俺の帰りを待っているのだ。
なんとなくではあるが、品の無い態度はつつしみたくなる。
なんとなく急ぎ足で部屋へ向かう。
俺のアパート、俺の部屋の窓が見えた。
シャルローネもいるな。
……というか、立っている?
押入れの前で?
いかん!
kれは大変に遺憾である!
たのむシャルローネ、押入れに触れるんじゃないぞ!
しかし部屋のドアの前に着いたとき、ドドドという音と「きゃ〜〜っ」という間抜けな声が聞こえてきた。
俺は部屋へ飛び込む。
崩れた洗濯物が部屋の中で山になっていた。
とりあえず洗濯物は押入れに詰め込んで、目を回しているシャルローネを救出。
「シャルローネ……シャルローネ……」
指先でゆで卵のようなほほを押す。
「ふぇ? な、なにがあったんですか?」
「さあ、帰ってきたらキミが倒れていたんで、ビックリしてたんだ」
「確か私……」
「忘れろ忘れろ」
「ケースケさんとの約束を破って……」
「そんなこと無いそんなこと無い」
「何か恐ろしいものを見たような……」
「そんな恐ろしいものが、この部屋にあるかい?」
俺の問い掛けに、シャルローネは右を見て左を確かめ。
「ありませんねぇ」
「そんなことより、ほら。煙草を買ってきたよ」
ゴールデンバットシガーのワンカートンパッケージ。
たったそれだけで、シャルローネは瞳の輝きを取り戻した。