人形の家9
「絵美、私、どうしたらいい?」と由香が言った。
朝になり、全員が、前日何事もなかったように、春行さんのお母さんが作ってくれた朝食を食べ、「お世話になりましたあ」とショックが大きすぎたせいか、何も覚えていない良平さんは、元気に挨拶していた。
「オレ、出席日数まずいから、ここからガッコに直行するわ」らしい。
私と由香も、まだボンヤリして生気のない春行さんを横目で見ながら、お母さんに挨拶して、家を出た。
春行さんは、怪我のことで、お母さんに散々に叱られていた。
あんなに叱らなくてもいいのに。
怪我が悪くなったらどうする気だろう。
何となく、この日も学校をさぼってしまいそうな気配だ。
「どうしたらいい、て言われても」
ほんまに、男女のことは、私にはわからない。
「良平と付き合って、前世の因縁を繰り返すわけ?」と由香は、いつの間にか、前世肯定論者になってしまったみたいだ。
「別に繰り返さんでもいいんと違うん?」
「けど、そういう因縁て、本人がやめようと思って、やめられるもんと違うらしいし」
「由香、シッカリしてよ。由香は由香やないの」
「うん……」といつもの由香ではない。
「こうなったら、期末のために徹底的に勉強しよう」
「そうやね」
「期末が終わるまで、すべて棚上げ」
「よし」
期末試験まであと二日しかないというのも好条件だった。
勉強どころではないと思いながらも、どこかで危機感が芽生えている。
私と由香は散々相談した結果、二日間私のマンションに籠城することにした。
由香が家に自分の勉強道具や着替えを取りに帰り、私は外で待っていることにした。
何となく、由香のお母さんは苦手だ。
ウンショウンショと言いながら、由香が大きな荷物を二つも運んで出てきた。
「ちょっと、たった二日やのに」と私は驚いた。
「そやかって、洗面道具もお風呂用品も……」
「そんなん、うちにあるのに」
「そやかって、慣れたのがいいし、それにこれ」と枕まで入れて来た模様。
「信じられへん」と私は言った。
「こんなん、どうやって、うちまで運ぶんよ」
「そっかー」と言っているところに、「こんなところで何をしている」という声が、聞こえてきた。
車に乗った隆さんで、由香は、やったー、という表情をしている。
何となく、隆さんと車というのは、似合わない気がしたが、そんなことは言ってられない状況だ。
「伯父さーん、お願い、車で荷物運んでくれませーん?」と由香は、お得意の甘え声を出した。
「そんな暇はない。訓練だと思って、歩いて運べ」
「ええ、こんなん、絵美一人で運べって言うの? 私、腕を痛めていて……」
「嘘をつけ、嘘を」と言いながら、隆さんは荷物をトランクに積み込んでくれた。
「お前達まで乗るのか」とブツブツ言っている。
「春行は、消耗してるだろう」と車を運転しながら、隆さんが言った。
「はい。どうしたのか、というぐらい」と私は心配していた。
「お前は、また霊に連れて行かれそうになったな。
春行は休む間がないな」と言って、隆さんは笑った。
「けど、彼いうたら、肝心の時になったら寝てしまって、全然役立たずやってんから、ねえ、絵美」と由香が言った。
「その前に、力を使い果たしてる。
この女がフラフラと異界に紛れ込むからだ」
異界?
違う世界?
私には、全然覚えがなかった。
「昨晩は、オレも春行に呼ばれたが、生憎、こっちも騒霊現象だ。
春子を呼べ、と言っておいた。
磁場が乱れているのか、霊の動きが活発だ。
開発が進んで、霊の休まる場が減っているせいだろう。
春子は、おかしな女だな。
霊と共存しているように見える。
しかし、共存できる霊ばかりではないからな」と隆さんは運転している間中、話し続けていた。
「これを持って行って、外と繋がる場所に貼っておけ」と言って、隆さんは束になったお札のような物を出した。
「ドアとか窓だ。少しは違うだろう。
それから、霊の言うことを聞くな。完全に無視しろ。
お前達の関心がエネルギー源の一つになる。
特に若い女の関心が霊は好きだ。
気持ちを強く持て。
フラフラと迷うな。
霊につけこまれる」
私と由香は、「はい」「はい」と素直な生徒のように、隆さんの言うことを聞いていた。
怖い目に会った後だから、なおさらだ。
「よっぽど怖かった、と見える」と言って、隆さんは笑った。
「もう怖いなんてもんじゃないって。
真っ暗な中に、おばさんが蝋燭を持ってきて、それに照らされた顔の怖かったこと……」と言って、由香は身震いし、隆さんは、ワッハッハッハ、と大きな声で笑った。
私は、由香が気絶した後、お母さんがアッという間に霊を退散させた様子を語った。
「春子らしい」と言って、また隆さんは笑った。
隆さんは、マンションの前で荷物を下ろすと、そのまま帰ってしまったので、私と由香で苦労して、荷物を部屋まで引きずって行った。
「ケチ伯父さん」と由香は、額の汗を拭いながら言った。
「きっと、これぐらいのトレーニングはしておけ、と思ってるのよ」と私は、何となく、隆さんを庇っていた。
「お札、お札」と由香は、文句を言っていたくせに、律儀に、ドアや窓にお札を貼り始めた。
「外と繋がる場所だから、電話とインタフォンにも貼っておこう」と中々芸が細かい。
由香は、持って来た荷物を洗面所や風呂場や寝室に区分けし始めた。
「それから、食事は、お兄ちゃん達が交代で届けてくれるって言ってる。
だって、料理って、大変でしょ。
心配しなくても、宅配ピザみたいに、玄関までのお届けだから、邪魔にはならへんって」
「そっかー。そういう生活もいいなあ」と私は言った。
でも、料理とか洗濯って、勉強の気分転換にはなるんだけど。
「じゃ、早速」
勉強、勉強。
勉強の能率が一番いいのは、やはり朝。
次いで、真夜中。
一番悪いのが、昼食後。
まず、各自で分担して、各教科の試験範囲をまとめることにした。
「受験前だから、三年間習ったところ全部」などという先生もいたが、とにかくまとめていく。
「うわあ、もう手がパア。脳がウニ」と1時間もしないうちに、由香が音を上げた。
「じゃあ、立って、深呼吸。身体をほぐして、再開」
「うわ、絵美って勉強の鬼」
「私は、勉強の鬼です、はい」
大抵のことに同じことが言えるが、勉強も最初のうちが一番苦しい。
そのうちに、身体と脳が適応を始める。
すると集中力がアップして、頭がよくなったような気になる。
その時に、脳を騙す。
『お前は頭がいい、頭がいい。
何でもできる、何でもわかる、何でも覚えられる』
脳は暗示に弱い。すぐに、その気になる。
反面、不安にも過敏に反応する。
『覚えられなかったらどうしよう』と思うと、覚えなくなる。
私は、脳を褒めて褒めて、褒めまくりながら、勉強を進めていった。
ピンポーン、ときっちり正午に、インタフォンが鳴った。
「はい」
「お昼の宅配です」
「私が出る」と言って、由香が出て、言っていた通り、食事だけを受け取ると、ドアを冷たく閉じた。
「絵美にはできないでしょうから」と由香は言った。確かにできない。
トレイに乗った布巾を取ると、具がたっぷりのサンドイッチが現れた。
「やるなあ」と由香が言った。
「スープと食後のコーヒー付きだ」
「1時間休憩」と私が休憩宣言をした。
「ひええ、お代官様、1時間も休憩くださるですか」と由香がおどけた。
「午後は能率が下がるから、気を抜かないように」
「ゲエ、熱血教師だ」
「3時から15分間、体操」
「ギエエ」
食後にテレビをつけようとした由香の手を止めた。
「テレビはダメ。
勉強した分がパーになる」
「鬼や、私は、このマンションで鬼を見た」
「由香、今日と明日しかないんやから」
「はい……」
1時から勉強再開。
3時から、ストレッチをして、また、勉強。
由香と私の顔が熱を帯びてきた。
6時に、ピンポーン、とインタフォンの音。
「私が出る」とまた由香の出番。
トレイに乗った布巾を取ると、華麗に彩られた混ぜ寿司とお吸い物が現れた。
「これは、お母さんの手だな」と由香が料理鑑定人のように言った。
7時から勉強再開。
「私、テレビで見るものが」と由香が言った。
「ダメ」と私。
「鬼や、鬼がいてる。
皆さん、鬼がいてまっせー」
「由香。そんなこと言うてると、ほんまに出るよー」
「言いません、二度と言いません」
さすがに疲れてきて、由香は時々コックリコックリし始めた。
ま、多少は目をつぶろう。
「就寝」と12時に、私は、就寝宣言をした。
「今日勉強したことは、寝ている間に、脳がシッカリ覚えます」
「絵美、あんた、ガッコの先生になり」と由香が言った。
「私、一日でこんなに勉強したことないわ。
勉強記念日や」
「私も、由香のいるお蔭で気が散らずにすんだ」と私も言った。
「明日は、7時起床。
ラジオ体操の後、勉強に突入」
「おー」
隆さんのくれたお札のお蔭かどうか、二日間は何事もなく過ぎ、試験の日がやってきた。
「絵美、私、決心した。
試験の間、ここに泊まる」と由香が言った。
「ここは、何かすごい勉強しやすい。
きっと絵美がいつも勉強している所やからや」
「いいけど、私と一緒にいたら、勉強漬けやで」
「私かて、一生に一度ぐらい、勉強漬けにならな。
過去最高得点を目指すぞ」
「その意気よ、由香」
由香の通学カバンの内側に隆さんのお札が貼ってあった。
「覚えたもんが出て行かないように」と由香が恥ずかしそうに言った。
試験の後は、「できた、できた」と由香が喜んでいた。
由香は、途中で何回か家に必要な物を取りに帰り、朝昼晩と宅配はキチンキチンと届き、土日をはさんで8日間の試験期間は、無事に終了した。
その間に、私は、ひっそりと十八才になった。
「私、この試験で、目茶苦茶頭よくなった気がする」と由香が言った。
「それは、いっぱい勉強したんやから、よくなってるって」
「絵美先生のお蔭です」
「何言うてんの」と言いながら、ちょっといい気持ちかも。
「けど、絵美のお母さんて、全然帰って来ないんやね」
「うん」それは、私も気になっていた。
しかし、長い時には、二週間ぐらいは、平気で戻って来ない。
仕事がうまくいっていないのだろう。
「けど、私は、その方がよかったけど」
由香が荷物をまとめているのに付き合っていると、ジワッと淋しくなってきた。
「そっかー」と突然、由香が言った。
「終業式まで休みなんやし、慌てて帰ることもないか」
そう言うと、また、荷物をほどき始めた。
「それに、受験勉強も一緒の方がはかどるかも。
何か、私、絵美先生がおらんと勉強できへん身体になったかもしれへん」
「うん」と私は、半分泣きかけになりながら、言った。
「けど、今日だけは、勉強忘れて、ブラブラしよ」
「うん」
「服着替えて、絵美の彼氏の顔でも見に行ってやるか」
「そ、そんな。何言うてんの」
「けど、あの人って、普段何やってんのやろ」
「さあ」
「学校に行ってる風でもないし、働いている風でもないし」
そう言われて、自分が春行さんのことを何も知らないことに、気がついた。
「人形に負けてるなあ……」と私は言った。
「勉強には強いけど、恋愛には弱い、か」と由香も言った。
「けど、男って何なんやろな。
勉強してる間、良平のことなんか、コロッと忘れてた」
「男の方というのは、暇で退屈な時の刺激剤。
お料理でいえば、香辛料に当たります。
それだけでは栄養になりませんが、料理の味は引き立ちます」
「ええ、そんなこと、誰が言うたん」
「前世の由香さん」
「嘘ー!」
「嘘。口から出まかせ」
「すごーい。絵美って、潜在的な悪女なんと違う?」
「実は、そうかも」
「勉強し過ぎて、潜在能力が開発されたとか」
「エヘン」
「チャネリングやサイコキネシス」
「オホン」
「もう、どーんな男でもグーイグイ。
春行もイチコロリン」
「……ならいいけど……」
「あー、疲れた。んじゃ、ブラッと人形オタクの顔でも見に行くか」
由香と私は、私服に着替えて、ブラブラと歩き始めた。
「お前達、こんなところで何をしている」という声が、聞こえてきた。
車に乗った隆さんで、由香は、アレー? という表情をしている。
「伯父さんこそ、こんなところで何してんの」
「まあ乗れ、面白いものを見せてやろう」と隆さんは言った。
「誰かいないか、と思っていたところだ。
どうせ、また、春行の傷を増やしに行く気だろう」とズバリ見抜かれている。
「あの札は効いただろう。
普通の家なら、あの程度で大丈夫だ。
今度は、あの家用に、強力なのを作ってみたから、試してみよう、と思っている」
「あ、伯父さん、ハンドル、ハンドル」と由香が叫んでいた。
「ああ、これを誰かに見せたかった。
車が念で動くかどうかを知りたくて、車を買ったのだ」
「ね、念で動かしてるう?」
「後でかなり疲れるが、立派なものだろう。
ガソリンがいらん。
空気は清浄なまま。ただ、途中で時々眠くなる」
「お、伯父さん、前、前」
どこかの壁にぶつかりそうになっている。
「おっと」と隆さんは、ハンドルを握ったが、そのとたんに車は止まった。
「何だか疲れた。
しばらく休ませてくれ」と言って、隆さんは眠ってしまった。
「ほんま。これやったら、何のための車かわからへんわ」と由香が言った。
「歩いた方が、よっぽど早いやないの。絵美、歩いて行こう」
由香がドアを開けようとしたが、ドアはビクともしなかった。
「オートロックや。あーあ。動かなければ、ただの窮屈な箱」
その時、車がゆっくりと動き始めていた。
「もう、伯父さん、人が悪い。寝たふりなんかして」
「由香、違う。伯父さんは寝ている」と私は、言った。
運転席からは、スースーという寝息が聞こえている。
私と由香は、顔を見合わせた。
「念……」と由香が言った。
「誰かの念?」と私も言った。
誰の?
「由香、いい?
怖がったらダメ」と私が言った。
しかし、膝がガクガクしている。
「きっと、今の私達、潜在能力がアップしてる。
二人で春行さんを呼ぶ」
「どうやって」
見なくても、由香が涙目になっているのが声でわかる。
「二人で、助けて、と呼ぶのよ」
「けど、聞こえたとしても、どうやって来るの?」
そうか、と力が抜けたとたん、車のスピードが上がって行った。
「キャア」と由香が叫ぶ。
「怖い」
「もうどうやってでもいいから、来てもらうの。
いい、一緒に呼ぶよ!」
『春行さん、来て』
『来て、来て、早く、助けてー!』
「それから、何とかして、隆さんを起こさないと」
由香がカバンを開けて、パッとお札を取り出した。
「予備」と由香は言って、もう一枚取り出した。
「由香、偉い」
もう何が何だかわからないが、一枚を隆さんの額に貼り、もう一枚をハンドルに貼ってみた。
何も起こらない。
車は暴走し始めた。
「隆さん、起きて」と私は叫んだ。
由香は、バシバシと後ろから頭を叩いている。
「車は何で走る?」
「エンジン」と由香が答えた。
二人同時に、答えがわかった。
「エンジン、止まれ」と言うと同時に、強く思った。
ガクガクガクッと揺れた後、シュー、というような音を立てて、車は停止した。
車が急に止まった反動で、私と由香は、前のシートで頭を打ち、運転席からは、グウ、というような声が聞こえた。
「アイタタ」という隆さんの声がして、私と由香は抱き合った。
「油断したな」と隆さんが額にお札をつけたままで言った。
「気が一番落ちた時を狙われた。
しかし、お前達にしては、上出来だ」
「伯父さん、起きてたの?」
「寝ていたけれど、聞こえていた。
まかせて大丈夫そうだったから、寝ていられた」
「ヒドイヒドイ」と言って、由香はまた、ボカボカと隆さんの頭を殴った。
その衝撃で、隆さんの額からお札がパラリと落ちた。
「コラ、何回殴れば、気がすむ」
「ここは、どこなんでしょう」と私は、言った。
「さあな。霊が連れて来るんだから、霊の好きな場所だろう。
墓場とか死体置き場とか」
「イヤー!」と由香が叫んだ。
「または、霊がエネルギーを吸収しやすい水のそば。
地下水脈の上。
うちの家の建っている一帯は、そういうエネルギーの集合しやすい場所だ。
そういう場所には、霊的能力の発達した人間が育ちやすい。
春子とか春行とか、オレとかがそうだ。
父なんかも、そうなのかもしれない」
「じゃあ」
「多分。降りるぞ、気をしっかり持て。さっきの調子だ」
ドアを開けると、簡単に開いた。
オートロックではなかったようだ。
私の腰にしがみつくようにして、由香が降りてきた。
目の前には、見慣れた鉄の門があった。
車は、門の手前5センチぐらいのところで止まっていた。
「激突させるつもりだったか」と隆さんは言った。
「または、ただの脅かしか。ちょっと手伝ってくれ」と隆さんが言い、私と由香で、車を押して、塀の横につける羽目になった。