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人形の家  作者: まきの・えり
8/11

人形の家8

 そこは、光の全く無い世界だった。

 その世界の底に、私は住んでいた。

 私は、地を這う虫のような存在だった。

 周囲にも、もし人間でいる時に見たら、ゾッとするような虫が、いっぱいざわめいている。

 しかし、今、私は、彼らの仲間だった。

 周囲はジメジメしていて、足にはヌルヌルベタベタした感触を感じていた。

『華』という声が聞こえてきた。

 私は、ゾッとして、思わず、身を引いた。

 虫達の中でも、一際醜い虫が、私の名前を呼んでいる。

 しかし、そう思う私の身も、ゾッとするほど醜いのだった。

『華』

『私の名前を呼ばないで』と思わず、私は叫んだ。虫の声で。

『この呼び声に応えてくれよ、華』

 呼ぶ声には、一切応えてはいけない、と誰かが言っていた。

 私は、応えなかった。

『もう今では、虫になってしまったんだ。

 でも、オレ達は、最初から虫じゃなかった。

 周りにいるのは、最初からの虫ばっかりだ。

 淋しいじゃないか。

 オレ達は、本当は、虫なんかじゃないんだから』

 心が微かに動いた。

 確かに、この世界にいて、誰一人として知った者のいない私は、淋しかった。

『応えてくれよ、華』

 もう少しで、呼び声に応えようとした時、『ダメ!』という声が聞こえてきた。

 そうだ。やはりダメなんだ、と私は思った。

『なあ、華、何でオレ達だけ、虫になってしまったか知りたくないか?』

 知りたくない、と私は思った。

 春行は、魚になった、と春子ちゃんは言っていた。

 人間は、死んだら、鳥や魚になるんだ、と言っていた。

 だから、虫になることだってある。

 それで、私は虫になった。

 また、生まれていくために。

『バカだなあ。

 オレ達が、また生まれ替われると思ってるのか、バカだなあ』

 別に生まれ替わらなくてもいい、と私は思った。

 別に、生まれ替わったりしなくても。

『ヘヘヘ』とその醜い虫は、小さなクシャクシャの羽を広げて見せた。

 光のない世界でも、虫には虫の姿が、なぜかわかるのだった。

『この羽がないと、生まれ替わるなんて、絶対にできないんだぜえ』

 それは、それでいい。

 私は、自分には、そんな醜い羽もないことを知っていた。

『愛がないと、生まれ替われないのさ。

 愛がないとね』とその虫は、醜いくせに、美しいことを言った。

『お前は、オレのことを醜い虫だと思っているだろう。

 それは、お前がオレの本当の姿が見えないからだ。

 お前自身の心も姿も醜いから、オレの本当の姿がわからないんだ。

 お前の心に一かけらの愛もない証拠だ。

 だから、お前は、ずっと長い長い間、本当に孤独だったんだ。

 オレは、お前の心に愛を呼び戻すことができる。

 その本当の愛を感じた時、お前は、オレの本当の姿を見ることができる。

 そして、その時になって初めて、お前は、愛というものを知り、生まれ替わることができるんだ』

 本当だろうか、と私は思った。

 私は、愛を知りたい、愛を知って生まれ替わりたい、と思った。

『そうだろう。それが、お前がずっと心の底で願っていたことだ。

 愛を知り、その愛に生きる人間に生まれ替わる』

 そうだ、と私は思った。 

 私は、ずっと願っていたけれど、それは叶わなかった。

『そうだろう。

 お前は、愛し方を知らないからだ。

 お前の心の奥底には、お前の知らない無尽蔵の愛が眠っているんだ。

 その愛は、お前一人の力では蘇ることはない。

 オレの助けがいるんだ。

 オレは、お前が愛そうとしながら果たせなかった、全ての存在の元だ。

 オレの中に、お前の愛の全てがある。

 さあ、オレを愛せ。

 オレの全てを愛し、オレの全てを受け入れる、と言え。

 さあ言え、オレを愛すと言え』

 私の唇が動き始めていた。

『あなたを……』

『ダメ!』という声が聞こえた。

 なぜ、邪魔をするの、春子ちゃん。

『華さんは、ずっと愛してきた』

 一体、何を?

 私は、何も愛して来なかった。

『華さんは、私達を愛した』

 お前達。

 そう確かに、私は、お前達を愛してきた。

 でも、お前達は、人形じゃない。

 心のない人形じゃないの……

『心はある』

 そんなもの、一体どこに?

『華さんの心の中に』

 ピシッと何かが砕ける音がした。

『ウオオオオオ』と醜い虫が、のたうち回っていた。

 口から濃い緑の液体を吐き出しながら、苦しんでいる。

『愛を知っているあなたが、何を苦しんでいるの』

『愛を教えてやったというのに、恩知らずな女め』

『啓介さん? 啓介さんなの?』

『人間だった時の名は、もう忘れた』

 ゴオオオ、という音を立てて、その醜い虫は、砕け散っていった。


『華さん!』と人形が叫んでいる。

 私は、元いた姿勢のまま、茫然としていた。

「絵美、本当に起き上がって、大丈夫なの?」と由香が言った。

「大丈夫」と答えたが、自信はなかった。

「華さん」とお爺ちゃんが入ってきて、その後から、見たことのない男の人が続いた。

「由香さん、お祖父ちゃんが、友達を連れてきたよ」と春行さんが言った。

「良平」と由香が言った。

 ああ、この人が、由香の彼氏なんだ、と私は思った。

「由香、何回電話しても出ないから、悪いと思ったけど、家まで来てしまった」と良平さんは言った。

「んで、よその家で、何してるわけ?」

「ちょっとわけあり」

「あ、この人が、絵美さん?」

「そう」と由香の答えは、そっけなかった。

「はじめまして。河野良平です。

 もう由香から、可愛い友達がいるって、散々聞かされてました」

「はじめまして。坂口絵美です。よろしくお願いします」と私も答えた。

 初めて会ったとは思えないほど、気さくで感じのいい人だった。

「ボク、何持ってきていいのかわからないんで、ビールとつまみ買ってきたんですけど」と良平さんは、頭をかきながら言った。

「そしたら、由香ん家ではお客さんで、お祖父さんが親切に、ここに連れてきてくれたんです。

 お祖父さん、本当にありがとうございます」

 ハハハハハ、とお爺さんも愉快そうに笑っていた。

「え? こちら、絵美さんの彼氏?

 なんて言ったら、失礼なのかな」

「友達です」と春行さんは落ち着いた声で答えていたが、ほんの数分の間に、スッカリ憔悴しきったように見えた。

 顔色も悪い。

「え、彼、どうしたの?

 何か事故にでも会ったの? 交通事故?」

 私は、由香には悪いけれど、段々と不愉快になっていた。

「すみません」と春行さんが言った。

「少し、休ませてもらいます」

 そう言って、春行さんは、ヨロヨロと自分の部屋に入って行った。

「あれ? 彼、身体でも悪いの?」

「今日は、大変なことが色々あって、春行さんは疲れているんです」と私は言った。

 良平さんは、気がつかなかったようだが、人形も、フラフラと春行さんの後を追って行った。

 人形までが、疲れ切っているようだ。

「へえ、大変なことって、どんなこと?」

「あんたには、全然関係のないこと」と由香がピシャリと言った。

 こういう時、由香って、かっこいい、と思う。

「ま、折角ビールとつまみ、持ってきたんやし、絵美さんとも初めてお会いしたんだから、まあ、お祖父ちゃんも一緒に、皆で乾杯しませんか?」

 こういう姿を見ていると、悪い人ではないんだけど、何か春行さんに悪意を持っているような気がする。

 とにかく、そう言われてみると、由香も私もおなかがすいていた。

「かんぱーい」と皆で、勝手に台所からグラスを持ってきて、乾杯した。

 おつまみと言っていたが、どこかの中華料理店で注文したような品が出てきて、おなかのすいていた由香と私、それから、お爺さんも、パクパクと食べていた。

「絵美さーん」と良平さんは、甘えるような声を出した。

「最近、由香は、あなたのことばっかりで、全然、僕に冷たいんですよ。

 何とか言ってくださいよ」

 え! と私は、思った。

 自分の存在が、恋人同士の障害になっているなんて、聞いていて、あんまり嬉しい話しではなかった。

「あ、それは、ごめんなさい。すごく気をつけます」と私は、謝った。

「ま、そんなことはいいから、絵美さん、もう一杯」と良平さんは、私のグラスに、またビールを注いだ。

 なぜか、ビールが、とてもおいしい。

 お爺さんも、注がれるままに、グイグイと飲んでいた。

「良平、私にも」

「もう、由香は酒癖悪いからなあ」と言いながら、由香にも注ぐ。

「けど、絵美さんの彼氏って、どこか悪いんですか?」

「いややわあ、彼氏やなんて」もっと言うて、と私は、少しのビールで酔っていた。

 そのうち、ちょっと酔った私の耳に、ニャアニャアという猫の甲高い鳴き声が聞こえてきた。

 それから、パタパタパタパタという子供の足音。

 しかし、その足音は、何か心配そうにパタパタしているように聞こえる。

「僕、猫って、嫌いなんですよ」と良平さんが言った。

「どうも、好きになれへんな。

 特に、黒い猫はダメですね。

 外国では、黒い猫は、不吉って言うそうやないですか。

 黒猫が道を横切ったら、悪いことが起きるとか。

 そうでなくても、黒い猫って、何か気味が悪いですよね」

「ちょっと良平、怖い話せんとってよ」と由香が言った。

「何言うてんねん。別に怖い話と違って、僕は猫が嫌いやって、言うてるだけやないか」

「それが、怖いちゅうねん」

「もう、ほんまにね、コイツ、物凄い怖がりなんですよ。

 前、夏にうちの家で大勢集まって、怪談大会やったんですよ、家中の電気消して、蝋燭ともして。

 そしたら、誰も何も言わんうちに、ワアワアキャアキャア騒ぐんで、結局、やめたんです。

 その時、こいつ、何を言うたと思います」

 私は、部屋の気温が下がり始めているのに、気がついていた。

「一人多い! て叫んだんです」

「そやかて、人数が一人増えてたんやもん」

「で、慌てて、電気つけて数えてみたら、別に、一人増えも、一人減りもしてないんですよ」

「そやかて、暗い時に、フと数えたら、一人多かったんやもん」

「ね、こういうヤツなんですよ。

 けど、何か、この家、寒いですね。

 暖房とかないんですか?」と良平さんが言った。

「ストーブがあったはずや」とお爺さんが言って、どこからか旧式の石油ストーブを運んできた。

「お祖父ちゃん、それ、物凄い古いんと違うの」と由香が言った。

「そや」とお爺さんは言った。

「けど、それって、灯油かなんかないとアカンのと違いますか」と良平さんが言った。

 アハハハハ、とお爺さんは、屈託なく笑って、ストーブの話は、それまでになった。

 私と由香はコートを羽織り、お爺さんと良平さんは、どこからか引っ張り出してきた、毛布を被っていた。

「こらもう、酒でも飲まんとあきあせんね」と良平さんが言った時、ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの音が聞こえた。

「さっきも思ったけど、えらい音ですね」と良平さんが言った。

「ほい」と皆を代表するように、お爺さんがインタフォンに出て、「春子ちゃんや」と物凄く嬉しそうに、ニコニコした。

「春子ちゃんやで、啓介さん」

 お爺さんは、ヒョコヒョコと出て行ったけれど、由香と私は、底無し沼に突き落とされたように、緊迫した。

『啓介さん?』

 私と由香は、同じことを考えていた。もしかすると……と。

「ええ? 啓介さんて、誰? ねえ、誰?」と良平さんだけが、それまでと変わりがなかった。

「そっかー」と由香が言った。

「因縁かあ」

「ねえ、ねえ、誰のこと?」とまだ良平さんが言っている。

「あんたさあ、前から、絵美のこと、めっちゃ気にしてたやん」と由香が言った。

「そらそうやん。由香の大事な友達やんか」

「……うん。けど、どっか限度越えてる気がしてたんよ」

 その時、「ああ、酔うた、酔うた」と言って、春行さんのお母さんが登場した。

「あれ? あんたら、まだおったん? 春樹は?」

「あ、息子さんやったら、寝てはりますよ。身体弱いんですか?」と良平さんが言った。

「あんた、誰?」とお母さんは、身体をユラユラさせながら言った。

「啓介さんやんか、春子ちゃん」とお爺さんが、こともなげに言った。

「私、知らんけど、そんな人」とお母さんは、酔っている。

「僕も知りませんから、遠慮無く休んでください」

「じゃ、お先に。あんたらも泊まるんやったら、適当に布団敷いてね」と大雑把なお母さんだ。

「はい。適当に雑魚寝しますから」

「はい、はい」と言って、お母さんは、横の部屋に姿を消した。

「変な家やなあ」と良平さんが言い、「何言うてんねんな」とお爺さんが言った。

 家の気温は、どんどんと下がってきている。

「絵美」と由香が私に抱きついてきて、うーん、抱きつく相手が違うような……と私は思った。

「ね、オレが嫉妬するん、わかるでしょ?」と良平さんが言い、「康子さんは、ずっとこうやったからなあ」とお爺さんが答えていた。

「どういうこと?」と由香が尋ねると、「どっちがお姉さんかわからんかった、ハハハ」とお爺さんは答えた。

「この爺さん、どっかおかしいん?」と良平さんが小声で私に尋ねた。

「別に」と私は答えた。

「あんたの君は、何で、こんな時に寝てるん」と由香は、私に言った。

「そやかて、今日は、大変やったもん」と私は、春行さんに代わって、弁解した。

 しかし、それにしても、あの疲れ方は異常だ。

「はい、はい」と由香は言った。

「けど、何か来る」

「うん、多分」

「けど、私の人生って、最低」と由香が言った。

「前世も今生も」

「そんなこと、ないって」と私は、なぜか自信を持って言った。

「そやけど、この家って、何か懐かしい気がするな」と良平さんが言ったとたん、パシパシパシーン、という音がして、家中の電気が消えた。

 やっぱり来た、と私は思った。

「おい、由香、おい、由香、大丈夫か」という良平さんの声が聞こえている。

「大丈夫なわけないやないの」と由香が涙声で言った。

「オレのとこに来い。絵美ちゃんも一緒でいいから」

『康子も華も、一緒に来い』という地を這うような声が聞こえてきた。

「あれは、何や!」と良平さんが叫んでいる。

『康子も華も、オレのところに一緒に来い』

 また、地を這うような念仏のような声が聞こえてきた。

「何やねん、一体、何やねん……」という良平さんの声が、念仏の声に混ざり始めていた。

「啓介さん、もう諦めてくれ」というお爺さんの声。

 私は、震える由香を抱き締めていた。

 私だって、怖かった。

 暗闇の中で、ガシャンガシャンという何かが壊れる音が聞こえていた。

 パシーンというという遠くからの音で、ああ、もうトイレには行けない、と私は思った。

 ユラユラユラユラと家が揺れている。

『わあ、地震やあ』と良平さんの声が変わっている。

 地震かもしれないし、そうでないかもしれない。

 その時、微かに、明かりが見えた。

「もう、この家はこれやから」という春行さんのお母さんの声が聞こえた。

 お母さんは、手に蝋燭を持ったまま、私達のいる部屋まで来たが、蝋燭で照らされたお母さんの顔の方が、暗闇よりも怖かった。

「ギャアア」と由香は叫んで、私の腕の中で、グッタリしてしまった。

「もう、一遍に酔いが覚めてしまったわ。

 折角、気分よう寝てたのに」

『春子かあ……』という地を這うような声が聞こえてきた。

「アホちゃう。 

 私は、明子。

 明るい子よ」

『グアアア』という声が聞こえたと思ったら、ピシパシピシッと言って、電気がついた。

「ほんま、鬱陶しい家やわ。

 お金さえあったら、さっさと引っ越すのに」とお母さんは言った。

「あんたらも、さっさと寝」

 そう言うと、お母さんは、サッサッサと布団を敷いて、また自分の部屋に戻って行った。

 私は、気絶していた良平さんと由香を、思案した末引き離して寝かすと、ボウッとしているお爺さんを寝かし、私も部屋の隅に寝た。

 その途中で、人形がアタフタしながら飛んで来て、『春行が起きない』と私に告げると、また飛んで行った。

 それ以後は、朝の光が差し込むまで何事も起こらず、私は、この一件で、春行さんのお母さんの隠れたファンになった。



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