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人形の家  作者: まきの・えり
7/11

人形の家7

 春子ちゃんと手をつないで、私は、川辺を歩いていた。

 心の底が抜けてしまったような気がしていた。

 春子ちゃんは、白い小さな襟のついた黒のワンピースを着ていて、私は、亡くなった上の姉の喪服を着ていた。

 春子ちゃんは、絶対にこの手を離さない、という風に、ギュッと私の手を握っている。

 私達は、黙ったまま歩いていた。

 途中で立ち止まり、川が流れていくのを眺めていた。

 いくら眺めていても、見飽きなかった。

「魚がいる」と春子ちゃんが言った。

「どこ?」

「あそこ、ほら、あの石の陰に」

 私には、魚は見えなかった。

 目に涙があふれてきていた。

「あ、動いた」と春子ちゃんが言った。

「あ、また、魚がいる。

 小さい魚がいっぱいいる」

「ほんとね」と私は言って、ハンカチで涙を拭った。

「ねえ」と春子ちゃんは、大きな瞳で、私を見上げている。

「死んでしまった人は、どこに行くの?」

「死んでしまった人はねえ……」

 私は、春子ちゃんを慰めることばを探していたが、どこにも見つからなかった。

「春子は知ってる」と春子ちゃんが言った。

「死んでしまった人は、鳥や魚になって、それからずっと待ってるねん」

「ずっと? 何を待ってるの」

「もう!」と春子ちゃんは、口をとがらせた。

「また、生まれてくることに決まってるやん」

「また、生まれてくることに……決まってるの……」

「そやから、春子も、お兄ちゃんも、お母さんも、華さんもまた生まれてくるねん」

「いつ?」

「いつか知らん時」

 川面に風が吹いて、水面が波だった。

「あ、また、魚。

 あれは、お兄ちゃんの魚や」と春子ちゃんが嬉しそうに言った。

 春行……と私は、思った。

 あなたは、とうとう魚になってしまった。


 目を開けると、天井が見えた。

 マンションの天井ではない。

 木が組み合わさった天井だ。

「あれぐらいの低級霊に何ていうザマだ」という声が聞こえていた。

「はい」という声が……春行さんの声がした。

 私は、ガバッと起き上がろうとしたが、誰かが私を止めた。

「まだ、寝ておけ」

 首を回して声の方を見ると、どこかやつれた隆さんだった。

 額と頬、手や足に無数の傷がある。

「絵美、絵美」と言って、枕元で泣いているのは、由香だ。

「ここは深いな」と隆さんが言っている。

「嘘つき……」と私は、呟いた。

 何が、目くらましやの。

「隆さんも、随分やられましたね」という春行さんの落ち着いた声がした。

「全部、かすり傷だ。

 お前のは、何だ。

 下手したら、致命傷だ」

「しかし、信じられへんな。

 ただの低級霊にしたら、悪質すぎる」

「霊は低級だが、憑衣していた念が強烈だった。

 この世に未練を残した念だ」

「華さんに?」と声が聞き取れないほど低くなった。

「多分」と隆さんが答えた。

「おふくろがいなくてよかった。

 タッチの差で、範子さんの電話ででかけたところやった。祖父ちゃんも連れて」

「あの女は、ギャアギャア騒ぐからな」

「おふくろを悪く言わんとってください」

「しかし、あいつは、怒ると怖い。

 あいつが怒ると人形が全部味方するからな」

「ポルターガイストも静めてしまうんですよ。

 僕には、まだできんなあ」

 何がおかしいのか、隆さんと春行さんは、クックックと笑っていた。

 私は、春行さんを見るのが怖かった。

 ひどい怪我をしていたらどうしようか、と思っていた。

「華さん、大丈夫ですか?」と春行さんが言った。

「はい」と私は、蚊の鳴くような声で答えた。

「絶対に、ああいう声には答えてはいけませんよ」

「はい」

「お前のような、グズグズした女は、アッという間に霊に憑衣されてしまう」と隆さんが言った。

「はい」と何も言えない。

「ゆっくり休んでから帰れ」と隆さんが言った。

 言い方は乱暴だったが、声が優しかった。

「あの……隆さん、ありがとうございました」

 空気が、動揺して、私の上に人形が落ちてきた。

 どうやら、私の上に浮かんで、心配していたらしい。

『あなたも、ありがとう』

『人形は、何もしない』と人形は、怒ったように言った。

「オレは、もう帰る。

 由香も早く帰れ」と隆さんも、怒ったように言った。

「役に立たないバカ人形」と隆さんが言い、『隆さんのバカ、ウンコ』と人形も言い返していた。

 隆さんが『もう帰る』と言った数秒後には、玄関の戸の閉まる音がしていた。

「お前は下品やぞ」と人形は、春行さんに注意されていた。

「あんた達は、一体、何なんよ!」と由香が涙声で言った。

「絵美をこんな目にあわせて、いいと思ってんの?」

「何かが近づいている」と春行さんも隆さんと同じことを言った。

「一体、それは、何なんよ!」と由香は、半狂乱だ。

「由香、由香、落ち着いて」と私は言った。

「何で、落ち着いていられるんよ。

 下手したら、絵美は、もうちょっとで死んでたかもしれへんやないの」

「僕が守ります」と春行さんが言い、私は、ドキンと心臓が止まりそうになった。

「あんたでは、アカンかったやない」と由香は、言ってはいけないことを言った。

「いえ、あのままで大丈夫でした」

「嘘ばっかり。

 メタメタにやられてたやない。

 伯父さんが来なかったら……」

「完全に、やっつけてました」と春行さんが言った。

「行動パターンは読めていましたが、念の行方が中々つかめなかった。

 念は途中で二手に分かれて、由香さんにも手を延ばそうとしていた」

「え! 嘘!」と由香はショックを受けたみたいに、黙りこんだ。

「想像に過ぎないのですが、様々なデータを総合すると……

 あの念の持ち主は、啓介の可能性があります。

 僕と春子の前世での父……そして、由香さんの前世での夫に当たります」

「んな、アホな」と由香は、かろうじて言った。

 見ていないようなフリをしながら、私は、春行さんを盗み見た。

 隆さんが手当てしたのだろう。

 全身にバンドエイドの大型みたいなのがベタベタと貼ってある。

 そのいくつかからは、まだ血が滲み出していた。

 私は、誰にともなく誓った。

 二度とこんな目には会わせない。

 今度、低級霊だとか念だとかが近づいてきたら、完全にやっつけてやる。

『華さん、偉い』とおなかのところに乗っていた人形が起き上がって言った。

『私も負けない』

 春行さんが、この子が可愛くて仕方がない、という気持ちがわかった。

『私は、守る』

『私も』と私は、人形にだけ聞こえるように、心で思った。

「けど、無茶なことはせんとってくださいよ」と春行さんが言い、私は、ビクッとして、全身真っ赤になった。

 心の声も聞かれている?

「絵美、大丈夫?

 熱が出たんと違う?」と何も知らない由香が心配してくれた。

「私も今日は、絵美についてる」と由香が宣言した。

「今日は、ここに泊まる」

「ああ、賑やかになって、おふくろも喜びます」

「あんたねえ、若い女の子が二人も泊まるんやから、ちょっとは、緊張したり、喜んだりしてみたら?」と由香が言った。

「それは、嬉しいですよ」と春行さんは動じない。

 その時、突然、ジリリリリン、ジリリリリンという空気を揺るがすような音がして、私と由香は心臓が止まりそうになった。

「ああ、電話です」と春行さんが言った。

「今時、あんな音する電話ある?」と由香が言った。

「あ、そう。うん、別に何も。

 ああ、適当に食べとく。

 じゃ、あんまり迷惑かけんように」と春行さんが言って、電話が切れた。

「お袋から、ちょっと飲み過ぎたから、範子さん家に泊めてもらうということです」

 春行さんは、しばらく沈黙していた。

「隆さんが帰ってしまったのは、まずかったかなあ……」

「何なん、どういうことなん。

 僕が守るんと違ったん?」と由香が、パニックに陥ったように叫んだ。

「お母さんがおらんと全然アカンわけ?」

「さっきみたいな低級霊ならいいけど、力の強い霊と念が結びつくと……」

「イヤー!!」と由香が叫んだ。

「呼んで、あの変な伯父さんを呼んで」

「この家では、隆さんより、母の力の方が強いんです」

「イヤー!!

 呼んで、早くお母さんを呼んで!!」

「ところが、母は、飲み過ぎて、今頃ダウンしてます。

 霊というのは、こういう間隙を縫って、やってくることが多いんで……」

「イヤー!!」

「由香、由香、落ち着いて」と私は、由香の手を握った。

「今、絵美さんは動かせませんが、由香さん、家に帰った方がいいかもしれません」

「イヤよ、一人で帰るのなんか怖い」

「けど、由香さんを送っていけば、絵美さんは一人になってしまう。

 霊に触られた後は、霊に対して弱い状態になっているんです。

 もし、お二人を送って行く途中で襲われたら、僕は身動きが取れない」

「イヤー!!」

「騒がないでください、集中できませんから」と春行さんがビシッと言うと、由香は黙った。

「まず隆さんを呼びます。僕よりは遙かに力がある」

 春行さんが目を閉じて、家の中がシーンと静まり返った時、突然、ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの音がして、私と由香だけでなく、春行さんもビクッとした。

「ダメや。集中できない……」

 春行さんがインタフォンに出ると、「わし」というのんびりした声が聞こえてきた。

「祖父ちゃんか……」

 私と由香も、ホッと全身から力が抜けた。

「もう、ほんまに、人騒がせなんやから」と由香が気の抜けた声で言った。

「ちょっと行ってきます」と春行さんが玄関に向かった後、私は、部屋の温度が、ズンズンと下がっていくのを感じていた。

 物凄くイヤな予感がした。

 由香もブルッと身体を震わせた。

「何か寒いんと違う?」

「うん」と私は言って、起き上がった。

『華さん』と人形も言った。

『うん』と私は、人形に答えた。

「絵美、起きて大丈夫なん?」

「うん、もう大丈夫」

 もう大丈夫でないといけない、と私は思った。

 パタパタパタパタという子供の走る音が、私の周囲を回っている。

 ニャアニャアという猫の鳴き声がしたかと思うと、またあのお経のような声が、地を這うようにして、聞こえてきていた。

 来る、と私は思った。

 その瞬間、目の前で花火が炸裂するような閃光が起こった。

『華さん!』と人形が叫んでいる。

 私は、どこか、ここではない世界にはじけ飛んでいた。



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