人形の家6
「どうぞ」という声と共に、座蒲団が二枚、勝手に私達の前に出てきた。
「私、知ってる。こういうのって、からくり屋敷って言うんだって」と由香が、涙目で、私に言った。
「メッチャ、緊張」
緊張するというよりも、部屋の空気は、何か緊迫しているように思えた。
パタパタパタという小さな足音が、高くなったり低くなったりしている。
この家には、どこかに子供がいるのかな、と私は思った。
「春子が喜んでいます。
康子さんと華さんが来られて」と春行さんは、ニッコリと笑った。
「春子ちゃんが?」と私は言った。
「覚えておられますか?」と春行さんは、遠い目をして、私に尋ねた。
「ここ何日か、私は夢の中で春子ちゃんに会っています。
目のパッチリとした利口そうな女の子が、何度も夢の中に現れます」
「そうですか。それなら話が早い。
それが、春子です。僕の妹に当たります。
もっとも、前世の話なんですが」
由香が落ち着きなく、身体を揺らしているのがわかった。
「何か私、そういうもったいぶった話って、好きじゃないんだわ」と由香が言った。
「私が、前世で何であるとかないとか、そういう話って、全然興味ないんだわ。
けどさ、そういう話が、今の私に関係してくると、何とかせえへんと、と思うやない」
「そうですか」と春行さんは、動じていない。
「何かすっごい迷惑やない? そういう話って」
「それはわかります」
由香は、ますますイライラしていた。
「そやから、絵美が『華さん』と言われたりして、めっちゃ迷惑してるのがわからない?
『華さん』て、考えてみたら、うちの母方のお祖母ちゃんの妹か何かでしょ?」
「そうですね。僕達の母の妹にも当たります」
「え? そうなん? あんたのお母さんの?」
「ああ。今の母ではなく、前世の母の妹に当たります」
「そやから、そういう前世や何やって言われても、どうも今一ピンと来ないんよ。
それに、言うたら悪いけど、どうやったらそんなことがわかるのよ。
それに、それやったら、今のあんたのお母さんて、一体、あんたにとって何なんよ。
前世では、全然関係ない人なんとちゃうん?」
「僕もそれは随分考えました」と春行さんは言った。
「母は、いつまで経っても、僕の母です。
ですが、それと同時に、前世での母や妹も、僕にとっては、大切なものなのです」
春行さんが、強い視線で、由香を見たので、由香が内心動揺しているのがわかった。
「そんなことを言われたら、私には、何が何かわからへんわ」
「僕にもどう言ったらいいのかわからないんですが、母には、春子の部分もあるんです。
想像にしか過ぎないかもしれないけれど、多分、春子は死ぬ時に、この家に何らかの強い念を残し、その念が母に同調するようなのです」
「そんなこと言われても……」という由香の声を打ち消すように、「え!」と私は、叫んでいた。
「それでは、春子ちゃんは、死んでしまったんですか?」
あの春子ちゃんは死んでしまったのか……
と私は、夢の中に現れた、あの現実以上に存在感のある少女のことを思った。
急に、奇妙な時が流れるような気がした。
春行さんは、黙り込んでしまい、由香は眠ったように静かになり、人形は人形に戻り、私は、元々の私であるような。
「僕は」と春行さんが語り始めた。
「春子がいなくなる前に、死んでしまったのです。
春子のことが、心配で仕方がなかったのに、呆気なく死んでしまった」
「じゃあ、春子ちゃんは、死んでいないんですね?」
「僕には、自分の死んだ後のことは、よくわからないんです」と春行さんは、微かに笑った。
「華さんは、二十年前に亡くなったそうだ。
けれど、その時までも、春子の行方はわからなかった。
華さんは、後で聞いた話ですが、亡くなる前までも、春子のことを心配されていた。
そして、この家を、春子が戻ってきた時まで、今まで通りに保っておくように、という遺言を残された。
しかも、『春子と春行が戻って来る時まで』と言われたらしい」
私は、催眠術にかかったような状態になっていた。
「それで、私は戻ってきたのですか?
春子ちゃんのことが心配で戻ってきたのですか?
そして……」と私は言った。
「春行さんが戻って来るのを待って、戻ってきたのですか?」
「僕にも、なぜ、自分が、この世界でもう一度、生を受けたのかは、よくわからないんです。
かろうじてわかるのは、前世でやり残したことをするため、としか……」
「そんなんやったら、何のための、今の人生やのん」と由香が突然、元気回復した。
「何やのん、前世、前世て。
そんなこと言うてたら、いつまで経っても、人生って全うできへんのと違うん?
今の人生が大事やないの。
そうでなかったら、何で生きてる甲斐があるんよ。
そしたら、私は、何のために生まれてきたんよ。
前世のため?
ヘッ。そんな話は、まっぴらごめんやわ。
そんなことだけのために生まれてくるんやったら、私は、生まれてなんか来なかったわ。
もう終わったことのために、もう一度、今の人生を犠牲にする気なんかないからね」
「それは、当然です」と春行さんは言った。
「ああ、目茶、ムカツク。何が当然なんよ。
心の中では、前世のことを何とかするために生まれてきたんや、て思ってるわけでしょ。
ああ、もう、ムカツクわ」
「多分」と春行さんは目を閉じた。
「色々な人がいて、色々な生き方があるんだろうけど、僕が今強く感じるのは、春子のことを知りたい、ということなんです」
それは、私も知りたい。
「隆さんは、春子は、修行中に事故死した、と言った。
隆さんは、そのことを他の人間に知られるのを恐れて、ここの庭に埋めたそうだ。
しかし、庭を掘り返してみたけれど、何も出て来なかった。
春子は死んでいなかったのかもしれない」
「それで、春行さんの今のお母さんが、春子ちゃん?」
「いえ、現実にはあり得ません。
母には、きちんとした戸籍がある。
生まれた場所も、両親も違う、まったくの別人です。
ただ、春子の念に同調できるような、似たような資質はあるのかもしれない」
私は、内心、ガーンとショックを受けていた。
そうか。
あの春子ちゃんも大きくなったら、あんなおばさんになってしまうんだ。
もし、春子ちゃんが生きていたら、今では立派なおばさんなんだ。
「あのう……」と私は、気になっていたことを聞いてみた。
「由香のお母さんと華さんとは、仲が悪かったんでしょうか」
「僕の知っている限りでは、華さんは、春子と同じように、範子ちゃんを可愛がっていましたが。
僕の死んだ後のことは、よくわかりません」
「ちょっと」と由香が口をはさんだ。
「人のお母さんのことを、範子ちゃんなんか呼ばんとってよ」
「ああ、ついクセで」と春行さんは笑った。
「まったく、笑い事やないわ。
あんたのせいやからね。
母が若作りしてんのは」
「範子ちゃんは、僕になついていたから。
ああ、もちろん、前世の話ですけど」
「もう、また、範子ちゃんて言う!」
由香がスタッと座蒲団から立ち上がると、人形が気配を消したまま、春行さんの前に移動した。
由香は気がついていなかったけれど、人形の目がピカッと光っていた。
「大丈夫」と春行さんが言うと、人形は、また元の位置に戻った。
春行さんを守っているんだ、と私は思った。
こんなに小さいのに健気な人形なんだ。
『私は、守っている』と人形が、ちょっと得意そうに言った。
「気をつけます」と春行さんが言うと、由香はまた座蒲団に座った。
どうやら足も痺れてきたらしく、今度は、あぐらをかいていた。
もう、由香ったら、スカートであぐらなんて。
「爆弾質問」と由香は言った。
「じゃあ、前世では、あんたと華さんが恋人同士。どう? ピンポーン?」
微妙に空気が動揺し、私の心も揺れた。
棚の上から何か小さなものがポンポンと落ちてきた。
人形が、ピカッと目を光らせている。
この人形は、私の人形ではなかったんだろうか、と私は思った。
『前は華さんの人形。
今は、春行の人形』と人形が言った。
ゲッ。恋敵か……
『私は負けない』と人形に、ライバル宣言をされてしまった。
「正直なところ、僕は華さんに憧れていましたが、華さんにとっては、可愛い甥に過ぎなかったと思います」
「フーン。ただの片想いか」と由香が冷酷に切って捨てた。
「そうです。華さんは、本当に綺麗な人でしたから、大抵の男は、憧れていましたよ」
「そうなんやって、絵美」と由香は、私の肩をバンバン叩いた。
「でも、何か聞けば聞くほど、何が何だかわからない」と私は言った。
「それは、僕も同じです。
この家は、最初に来た時から不思議な現象の次々に起こる、奇妙な家でしたが、このところは平和でした。
そうそう。昨日の夜、この子が変に怖がって家中を飛び回った以外は」
「昨日の夜? 夜中過ぎでしたか?」
「そうですが、何か」
「あの隆さんという方の家で、ぼや騒ぎがあって、お爺さんと一緒に出掛けて行ったのですが、人形が突然発火した、ということでした」
「人形が突然発火した? どうやって?」
「あのう……私が見たのは、人形が焦げているところだけで、よくわからないのですが、その前に人形が火事で焼けた、という怖い夢を見ていて、それで目が覚めたのです。
由香の家に泊まっていたのですが、何か焦げ臭い匂いがして、その……人形が助けを求めているような気がして。
隆さんは、春子がやった。まだ成仏していないのか、とかいう訳のわからないことを言っておられました」
春行さんが、私達の後ろの方角を見たので、私と由香も後ろを振り向くと、お母さんが座っているのが見えた。
「え? え?」とお母さんは、ビックリしたみたいだ。
「私は知りませんよ、そんな人形が燃えることなんて。
それに、誰も聞いてくれないけど、私は、明子です、春子ちゃんなんかじゃなく」
「別に、お母さんが犯人やと言ってるわけやないよ。
けど、それは、おかしな話だな。
隆さんのところにも、人形がいてるの?」
「ええ、物凄くたくさんの人形が。
お爺さんが、この家は、康子さんが死んでから、華さんがずっと住んでいた家だと言うてはりましたけど。
それから、今思い出したんですが、私は、夢の中で、春子ちゃんに、人形を全部あげていました」
「そうか、まだ他にも人形達がいたのか。
この家で見つかった人形達は、この子以外は、全部、どこかに怪我をしていたんです。
それで、供養してもらって燃やしました」
『あの子達は、華さんに会いたい』と人形が言った。
「そうか……」と春行さんが呟いた。
『でも、人形は怒らない。
私が、あの子達になったから、燃えても同じ』
「本当に、この子は可愛くて仕方がない」と春行さんが言い、私は、内心、深いショックを受けていた。
『フフン』と人形は、ピカッピカッと得意そうに、目を光らせた。
由香が、肘で私をつついた。
「変態男。人形フェチ」と私の耳に小声でささやいた。
「多分、由香さんは、人形の話がわからないと思うので、僕がスピーカー役になります。
人形に尋ねたいことがあれば、聞いてください。
もっとも人形ですから、あまり大して、お役に立たないかもしれませんが」
そう言うと、春行さんは、ガックリと眠ってしまったように見えた。
何を聞けばいいんだろう。
「どうして、隆さんのところに、あんな沢山の人形があるの?」と私は尋ねた。
「もう、調子に乗って同調するの、やめなさいよ」と由香が私の耳元でささやいた。
『華さんが死んで、私達は、別れた』と春行さんが言った。
声は、春行さんだったが、この微妙に震える話し方は、人形のものだ。
『壊れていない子達は隆さんの所に残った。
壊れている子は、捨てられた。
私は、この家に帰って、壊れている子達を呼び寄せた。そして、隠れた」
「最初、台所の戸棚の中で見つけたんですよ」と春行さんのお母さんが説明した。
『戸棚ではない。人形の家だ』
「でも、華さんが住んでいたところが、人形の家なんじゃ……」と私が言いかけると、『違う!』と人形に訂正された。
『ここが、私達の家。私達は、ここにいた』
「じゃあ、華さんが住んでいたところは?」
『私達は、閉じ込められていた』
「閉じ込められていた? 誰に?」と私と由香が同時に尋ねた。
『知らない。ここが、人形の家』
ウーン、と言って、春行さんが目を開いた。
「もう、このぐらいが限界です」
また、パタパタパタという子供の足音とニャアという猫の鳴き声が聞こえていた。
「あの黒い猫は、どうなったんですか?」と私は尋ねた。
「黒い猫?」
「春子ちゃんが拾ってきて、多分、私が育てていた」
「さあ、僕には、覚えがないけど……」
「さっきから、猫の鳴き声が聞こえているので……」
そう言ったとたん、急に辺りの気温が下がったような気がした。
「猫の? この辺りは、猫を飼っている家も多いようだし、ノラ猫も増えているから」
「もう、絵美、不気味なこと、言わんとって。何かゾクッとしたわ」と由香が言った。
「あ、まただ」と春行さんが言った。
ユーラユーラと周囲が揺れている。
「きゃあ、地震」と言って、由香が私に抱きついた。
地震がおさまったとたん、パシッという音が遠くから聞こえてきた。
「あーあ」とお母さんが言った。
「また、トイレの電気が切れた。もう、いやんなるわ」
「まだ来る」と春行さんが言ったとたん、さっきよりも大きな揺れがきた。
『人形は、怖くない』と言いながら、人形は春行さんの膝に乗っていた。
「大丈夫、大丈夫」と春行さんに抱かれている。
「絵美、くやしくないの」と私に抱きつきながら、由香が言った。
「くやしい」と私も小声で言った。
しかし、そんなことも言っていられなくなった。
部屋のすみにあった箪笥が、ガタガタ言いながら倒れてきた。
「キャアア」と由香が叫んだ。
おかしい、と私は思った。
もう揺れていないのに。
バーンバーンバーンという音が聞こえてきた。
ガラガラガッチャンという食器が壊れる音も。
電気がパチパチと点滅を始めている。
人形は、春行さんの周りを旋回している。
どうやらパニックに陥ったようだ。
「いい加減にしなさい!」とお母さんが怒鳴ると、ピタッと騒ぎがおさまった。
「もう本気で怒るまで、やるんやから」
「まあ、ポルターガイストを止められるんは、うちのお母さんだけや」と春行さんが言った。
由香は、私に抱きついたまま、「マザコンのオカルト男」とささやいた。
「けど、おかしな話やな。こんなこと、ずっとなかったのに」
春行さんは、一人で倒れた箪笥を元に戻していた。
みかけによらず、たくましいんや、と私は思った。
お母さんの方は、台所で割れた物を片づけているようだった。
「あ、私、お手伝いします」と私は立ち上がった。
由香もしぶしぶ手伝っている。
「これ見て」とお母さんが言った。
戸棚の一つには、沢山の電球の予備が入っていた。
「何が気にいらんのか、トイレの電球だけが、定期的に切れるん。
切れるというより割れるんやけど。
よりによってトイレやなんて、もう、いやんなるでしょ」
「はあ……」と言うしかない。
「そうそう、由香さん、今日は、お母さんが遊びに来られるんやけど、お友達と一緒に、ごはんでも食べていかへん?」
「いいえ、結構です」と由香は答えていた。
「どうせ、前世の話で盛り上げるんでしょ?」
「何言うてんの」とお母さんは、ドンと由香の背中を叩いた。
由香といい勝負だ。
「私には、前世なんか何の関係もありません。
今の人生が大事」
「おばさん、気が合いますね」と由香が背中をドンと叩き返していた。
その時、ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの音が聞こえた。
「あれ、まだ早いけど……」とお母さんが言った。
「おばさん、この趣味の悪いインタフォン、付け替えたら?」と由香が失礼なことをハッキリ言った。
「けど、これ、あなたのお父さんの趣味みたいよ」とお母さんも負けてはいなかった。
「じゃ、私達は、これで失礼します。お邪魔しました」
「お邪魔しました」と私も言った。
春行さんが、玄関に行くところだった。
「お祖父ちゃんや」とすごく嬉しそうだ。
「ちょっと前世男」と由香が言った。
「前世もいいけど、この世にも絵美みたいな可愛い子がいてるんやから、好きなら好きって言うた方がええよ。
人形とばっかり遊んでないで」
「ほんまですね」と全然関心のない様子だ。
私は、ガックリした。
「華さんもいてたんか。康子さんまで」と門のところで、お爺さんが言った。
「私は、由香。これは、友達の絵美」と由香が言った。
「まあ、そう言わんと」と言いながら、お爺さんは、春行さんと何か話しては、ワハハワハハと笑っている。
由香やお兄さんとお爺さんよりも、よっぽど本物の祖父と孫に見える。
もう私のことなんか眼中にないのか、と門から外に出ながら、お爺さんと楽しそうに話している春行さんを見て思った。
「絵美、前途多難やな」と由香が歩きながら言い、「うん」と答えた。
「難点だらけの男やない。
うちのどっちかの兄ちゃんにしときって」
「うん……」と私は落ち込んだままだった。
「元気出し」
「うん……」
「人形なんかに負けてたらアカンで」
「うん……」でも、何となく負けている……
「しっかし、母親と祖父ちゃんまでが、恋敵か……」
友よ、それ以上言わないで、と私は思った。
「うちのババアもや」
もう言わないでったら……
そう思ったとたん、ガクッと膝が折れるような感じがした。
「絵美、どないしたん、絵美」
足と腰もガクガクと崩れるようだ。
私は、ヘタヘタと、その場に座りこんでいた。
自分の身体が、自分の思うようにならない。
まるで地面に磁石ではりついてしまったようだ。
「絵美、絵美、私、誰か呼んでくる」と由香は元来た方角に引き返した。
「行かないで、由香」と言っているつもりだが、声が出ない。
どこか遠くから、お経のような声が聞こえている。
その声は、高く低く途切れることなく、私の周囲を行きつ戻りつしているようだ。
何度も何度も私の周囲を旋回するうちに、その声は、私の耳元で聞こえるように近くなっていた。そして、音は私をどんどんと狭い空間に閉じ込めていくように思える。
身動きが取れない、と私は思った。
「結界か」と言う声がして、春行さんが、すぐ近くにいるのがわかった。
私は、すごく安心した。
私を助けに来てくれたんだ、と思うと、身体が震えるほど嬉しかった。
パタパタパタという子供の走り回る声と、ミャアミャアという猫の鳴き声が聞こえている。
『華さん、華さん』という人形の声も聞こえる。
恋敵なのに、助けにきてくれた。
『助けてくれー、助けてくれー』という声も聞こえる。
お経の声に、助けてくれーの声が混じっていて、それが奇妙に私を圧迫してくる。
一体、誰?
私に何をして欲しいの?
『助けてくれー、助けてくれー』
『私に何をして欲しいの?』
「華さん、取り合ってはダメだ。
返事をしてはダメだ」という春行さんの声が、どこか遠くで聞こえている。
そんなことを言ったって、誰かが、私に助けを求めている。
「華さん、今は、僕のことだけ考えて」と春行さんが言った。
そのことばで、私は、ハッと我に返った。
その瞬間、身を低くした春行さんが、私の方に飛び込んでくるのが見えた。
音は何も聞こえなかったけれど、ガッシャーン、と何かが砕けるような衝撃がした。
目には見えないガラスの壁が破れたみたいだった。
その破片が、春行さんの周囲に散乱しているかのように、春行さんの衣服を裂き、顔や手や足を傷つけていた。
「キャアア」と私は叫んだ。
ようやく声が出た。
「やめて、やめて、誰だか知らないけれどやめてください」と私は叫んだ。
「この人を傷つけないで。お願い、お願い」
「大丈夫だ、華さん、僕は大丈夫だ」
どこが大丈夫やの、と顔や手から血を流している春行さんを見て思う。
「何でもします、だから、この人を傷つけないで」
『本当だな』という地の底から聞こえてくるような声がした。
『今のことば、本当だな』
「華さん、いけない。
これは、目くらましなんだ。
僕は全然傷ついていない。
詰まらない約束をしてはいけない。
今のは、嘘だった、と言え、言うんだ。
本当に、傷はないから。だまされてはいけない」
「今のは、嘘だった」と私は、言われた通りに言った。
『グワアアア』という地を這うような叫び声がした。
『嘘つき女め、こうしてやる』
目に見えない破片が、腕をかすった。
コートがパサッと切れた。
ハッとして、春行さんを見ると、身体中に破片が刺さったように、血が吹き出している。
嘘ばっかり、と私は思った。
春行は、いつも強がりばかり言って、とうとう私を置いて行ってしまった。
その時、地面を揺るがすような衝撃がして、私は、意識を失っていた。
「未熟者」という声が、どこか遠くで聞こえていた。