人形の家4
「また、会おう」と隆さんが言った。
「はい」と私は答えた。
「何かが近づいている。イヤでも会うことになるだろう」
隆さんの手が、ゆっくりとためらいがちに伸びてきた。
私は、ためらわずに、その手を握った。
「また、必ず、お会いします」
また、隆さんは、最初に見た時と同じ、三十才ぐらいのハンサムな男性に戻っていた。
この人は、一体何才なんだろう、と私は思った。
明け始める夜、夜のベールが一枚また一枚と外されていく。
夕暮れよりも、もう少し暗い冬の朝。
私とお爺さんは、なぜか、クスクスと笑いながら、家に帰った。
「華さん」と門から中に入り、玄関の鍵を閉めた後、お爺さんは、物凄く幸せそうな、少年のような微笑みを顔に浮かべた。
「隆は、ずっと、あんたのことが、好きやったんや。
わしは、若い時のあんたが好きやったけど、隆は……
あんたが何才になっても、同じように好きやった」
私は、胸がズキンとした。
私には、まだわからないけれど、そういう愛し方もあるのかもしれない、と思う。
「けど、あんたは、絶対に、誰も、好きにならんかった」
「え? 何で?」
「何でかは、あんたにしかわからん」
お爺さんは、ニカッと笑って、一階の自分の部屋の中に入って行った。
私は、カタカタと階段を登って行った。
ソッと由香の部屋に入り、音を立てないように、コートを脱いだ。
その時になって初めて、自分がパジャマ姿だったことに気がついて、ガーンとショックを受けた。
男の人にパジャマ姿を見られてしまった?
けどいい、もういい、と思って、私は、ソッと由香の隣の布団に潜りこみ、そのまま、眠ってしまった。
真っ黒な子猫が、まだ見えない目で、親を探すようにして、細かく首を震わせていた。
私は、ソッと手を延ばして、子猫を抱き上げた。
「この子、死んでしまう?」
心配そうな大きな瞳が、私を見上げていた。
抱き上げた子猫の体温は低く、時折、ブルブルッと身体を震わせている。
さあ、どうだろうか、と私は思った。
もしかすると、死んでしまうかもしれない。
でも、もしかすると、生き延びるかもしれない。
多分、大丈夫だろう。
自分でミルクを飲むこともできるんだから。
「大丈夫や、春子ちゃん」と私は言った。
女の子は、ホッとしたような表情をして、ポロリと涙をこぼした。
「この子、可哀相やねえ、こんなに小さいのに。お母さんがいないなんて」
「ほんまやねえ」
私の目がうるんで、女の子の姿が、ボウッとかすんで見えた。
「春子のお母さん、もうじき帰ってくるよね。
赤ちゃん連れて、帰ってくるよね」
「うん。そうやね。きっと、もうじきやね」
「そしたら、春子、いっぱい赤ちゃんのこと、可愛がるねん。
お兄ちゃんと一緒に、いっぱい、色んなとこ、連れて行くねん」
女の子は、私の抱いている子猫の背中を、ソッと撫でた。
「この子も、いっぱい可愛がったらんと。そやかて、お母さんがいてへんねんから」
「うん、うん」
そう言って、私は、春子ちゃんの髪を撫でた。
そして、春子ちゃんにわからないように、ソッと涙を拭った。
「もう、絵美いうたら、完璧、爆睡」と言う由香の声で目を覚ました。
「もう、また、変な夢でも見たんと違う?」
由香に指摘されて初めて、自分が泣いていたことに気がついた。
「ほんまや。きっと悲しい夢でも見たんや」
「フフ。どうせ、ジョギングの君にでも、ふられたんやろ」
「わあ、由香って悪魔」
「女は、みんな、悪魔です」
昨夜の出来事、それも、朝起きてみれば、完全に夢幻に思える。
辺りには、朝というよりも、昼間の太陽が差し込んでいて、明るい空気の粒子が、周囲を跳ね回っているように見える。
自分が、他人の家で一晩過ごしたなんていうことこそ、夢か幻。
「絵美さん、おはようございます」と由香のお兄さん達が、顔を並べて、ダイニングで待っていた。
「おはようございます……」と自分の朝寝坊が急に恥ずかしくなった。
「母が所用で出かけておりますので」とお兄さん達は、トーストを焼いてくれたり、スクランブルエッグやグリーンサラダを作ってくれたりした。
コーヒーも挽きたての入れたてだ。
私は、男の人が料理をするのを見て、ビックリしていた。
「由香は、父に似て、ぜーんぜん、あきませんが、私達は、母に似て料理人」
「うわ、凄い、おいしいです」
「でしょう?」
「もう、お兄ちゃん達、支度が終わったら、さっさと消えて」
「はい、はい。こーんな超我が儘な妹ですが、こりずに付き合ってやってください」
そう言うと、お兄さん達は、姿を消した。
「ああ、私、超恥ずかしい」と由香が言った。
「うちは、何でか、昔から兄貴達が料理上手で、私、全然出る幕なかった」
「私は、超羨ましい」と私は、由香の気を引き立たせるように言った。
深夜の冒険のせいか、私は、食欲旺盛だった。
「絵美、あんまりガッツくとデブるで」と由香が心配するほどだ。
「今日どうする? 映画でも行く?」
「私、一応、家に帰る」と私は言った。
やっぱり、日曜日の掃除と洗濯はやってしまいたいし、試験勉強だって、きちんとしたい。
由香には悪いけれど、この家では、勉強はできそうになかった。
「ええ! 嘘!」と由香はショックを受けた顔をした。
「ごめんね。私、一応、主婦もやってるから」
「そっかー。することが、いっぱいあるんや」
「うん。そやねん」
「けど、また、泊まりに来てね」
「うん。すっごく楽しかったわ」
「うちの兄貴達、両方共料理もうまいし、優しいし、ジョギングの君ほどハンサムやないけど、妹の私としては、超お勧め品やで」
「うん。由香が羨ましい」
「あ、そう。やっぱり、あの変態男の方がいいんや」
「そやかて、私、全然、男の人と付き合ったことないし……」
「わかった、わかった。
ジョギングの君に絶望したら、この由香さんに相談し」
「そんな……昨日会ったばっかりの人やのに」
「けど……」と由香は、ボロボロとパン屑を落としながら言った。
癖なのかどうか、ずっと食べもしないパンを指で砕いている。
「昨日の朝初めて出会って、胸キュン。
次に偶然、家の前で出会う。
それから、これまたビックリ、私の家で再会。
言いたくないけど、偶然に三回出会う相手は、運命の相手やて言うよ。
しかも、それが、全部一日の話やんか。
もしかしたら、もしかするかも」
「へえ。偶然に三回出会ったら、運命の相手なんや」
「ま、モノの本によりますと、そういうことみたいです」
「へえ、そうなんや」
その時、フと、人形達には、夢の中も含めると、もっと出会ったような気がした。
『春子ちゃん』にも、あのおばさんを勘定に入れると、何度も会っている。
写真まで含めると、黒猫にも。
まあ、余り考えないでおこう。
「色々ありがとう」
「また来てね」
そう言って、私達は、別れた。
「また、明日ねえ」
「うん、また明日」
家に帰ってから、私は、洗濯機を連続して回しながら、掃除機をかけ、あちこちを拭いて回った。
日曜日の行事だ。
洗濯と掃除が終わると、しばらくボオッとしていた。
よく考えてみたら、たった二日の出来事なのだ。
二日の間に、自分が何十才も年をとってしまったような気がした。
恐々と自分の手を確かめてみたが、別に年を取ったような徴候は見られなかった。
多少洗濯の後で、手が荒れていたが、それはいつものことだった。
人は、いつ、年を取るのだろうか。
昨日と今日とでは、別段何の変化もないように見えるが、そう思っている間に、年を取っているのだろうか。
由香のお祖父さんは、いつの間に、お爺さんになってしまったのだろう。
春行さんのお母さんも、由香のお母さんも、それから、うちの母も、一体、いつ、おばさんになったのだろう。
私も、ハッと気がつくと、おばさんになっていたり、お婆さんになっていたりするのだろうか。
人形達は、年を取らない。
華さんの人形達は、きっと何十年も生きている。
けれど、古くなりはしても、決して、年を取らない。
人間がそう思っているだけなんだろうか。
人形達も、年を取っていくのだろうか。
今度聞いてみよう、と私は思い、そんな自分に苦笑した。
華さんは、なぜ、あんなにたくさんの人形を持っていたのだろうか。
隆さんは、なぜ、華さんの人形と一緒に住んでいるのだろうか。
隆さんが奇妙なことを言っていた。
春行も同じ年に転生している。
康子も?
もしかすると、啓介も?
私の記憶を総合すると、康子さんと啓介さんは、春行さんと春子ちゃんの、前世でのご両親だったはずだ。
私が転生したと言われている華さんは、春子ちゃんの伯母さんだ。
それなのに、なぜ、肝心の春子ちゃんが、あんなおばさんなのだろうか。
しかも、春行さんのお母さんだという。
気がつくと、辺りは暗くなっていた。
夕食の準備をしないと、と私は思った。
そう言えば、今日は、いつもの日曜日のように、買い物に行っていなかった。
冷蔵庫をのぞくとガランとしている。
それはそうだろう。1週間分の買い物をして、それを毎日食べているのだから。
昨日泊まった分の材料が残っていたが、由香の家での経験のせいか、何か億劫で、料理を作る気がしなかった。
何かつまんで、勉強しよう。
由香は、毎日、お母さんやお兄さんに、料理を作ってもらっている。
今までは、頭だけで知っていたことを、今は、実感として感じていた。
部屋で勉強していると、「ただいまー」という声が聞こえてきた。
お母さんだ。
今回は、予定より早い。
内心、ちょっとイラッとした。
勉強の途中だというのもあるのかもしれない。
今日は、できたら無視して勉強を続けたかったが、「お帰りなさい」と部屋から出て言った。
由香が自分の母親が、化粧してパーマを当てて、別人のようになった、と不満を言っていた。
その目で見ると、私の母なんて、化粧お化けだ。
おまけに、香水までプンプンさせている。
習慣というのは恐ろしいもので、勝手に身体が動いて、手早く野菜炒めと簡単なサラダを作っていた。
当たり前のような顔で、ごはんを食べると、「聞いてよ、絵美」と話し始めた。
母は、自分のことしか話さない。私の話なんか、今まで一度も聞いたことがない。
「3億よ、何と3億」