人形の家2
佐藤圭吾十九才と、佐藤仁十八才。年令にして約1才離れているけれど、3月生まれと4月生まれのせいで、今では同じ大学の一年生だということだった。
「へえ、絵美ちゃん、オレラと同じガッコ、狙ってるんや」
「オレラのガッコ、ええでえ」
「そや、絵美ちゃん、ボク、家庭教師するわ」
「アカン、アカン。コイツ、補欠入学やから。その点オレは、推薦入試やで」
「もう、お兄ちゃん達は! 私が、勉強教えて欲しい、言うた時は、試験やバイトや何やかんやで忙しい、て言うくせに」
「そ、そんなことないで」
「そやで。絵美ちゃんと一緒に、ミッチリ教えたるで」
「いい加減なことばっかり言うて」
「そやかて、オレラは寮生活やんか。滅多に家に帰って来られへん。な?」
「な? 由香にかって、こういう機会でもないと、滅多に会われへんやないか」
「もう、調子がいいんやから」
由香はプンプン怒っていたけれど、フと思いついたように言った。
「それよりもお兄ちゃん、あの家に住んでる人のこと、何か聞いた?」
私の心臓は、急にドキドキし始めた。
「あの家ってさ、何かわけありやったけど、それ、何か知ってる?」
「さあなあ」というのが、二人に共通した答えのようだった。
「オレラ、滅多に家に帰って来いへんからなあ。誰かに掃除させてるみたいなことは、前から言うてたような気が……」
「そうそう。大分前やけど、祖父ちゃんは、誰かが帰ってくるみたいなこと言うて、めっちゃ喜んでたなあ」
「そうや。季節に関係あるな、て思った。そうや。春子ちゃんや」
「春子ちゃん?」と私は尋ねた。
その瞬間、パシッという音がして、部屋の電気が消えた。
それまで鳴っていたCDプレーヤーの音も止まった。
周囲は真っ暗だ。
「うわ。何や、これ」
「多分、ブレーカーが飛んだんや」
「お前、ちょっと見て来いよ」
「いややわ、何で、オレが」
「一緒に見に行くか?」
「そやな」
二人が部屋を出て行くと、ブーンという低い音が聞こえてきた。
地の底を這っているような音だ。
蜂の羽音に似ている、と私は思い、そんなものは聞いたこともないのに、とも思った。
どこか遠くで、ニャーという猫の鳴き声がした。
「キャアア!」と突然、由香が叫んだ。
「何かいる!」
急にゾクッと寒気がした。
部屋の気温が急激に下がっている。
「絵美!」と由香が言い、私と由香は暗闇の中で、ヒシと抱き合っていた。
由香の肌の温もりに、奇妙な懐かしさを感じる。
由香は、私の胸に顔を埋める恰好になっていた。
暗闇に目が慣れてきたのか、私の目には、部屋のそこここに、ポツポツと小さな明かりが灯り始めているように思えた。
由香のお兄さん達は、どこに行ってしまったのかは、まだ帰って来ない。
『お前達……』となぜか私は思った。
暗闇の中から、ボウッと人形達の姿が浮かび上がってきた。
ポツポツと灯っていた小さな明かりは、人形達の目の光だ。
『ずっと待っていた』と私の正面にいる人形が言った。
大変美しい顔立ちをした、優美な日本人形だった。
『私達は、ずっと待っていた』
ずっと待っていた?
何を?
誰を?
その瞬間、パチパチパチという音がして、部屋の電灯がついた。
ドタドタドタという音を立てて、由香のお兄さん達が戻ってきた。
部屋の冷気は消えていた。
私は、自分の周囲を見回したが、部屋の内部は元通りの由香の部屋で、どこにも日本人形なんかはいなかった。
由香の兄さん達は、奇妙な顔をしていた。
「ブレーカーなんか、下りてなかった」
「下の部屋は、電気がついていた」
「二階だけ、停電したみたいや」
「何か、不気味やな」
「絵美」と私の胸に顔を埋めていた美香が言った。
「今日、絶対、泊まっていって。お願い」
え? と私は思った。
「お願い。一生に一度のお願い。
私、凄く怖い。
今日、この部屋で一人でいるの、考えられへん。さっき……」
由香は、ブルッと身を震わせた。
「さっき、絶対、何かいたもん」
そう。確かに何かいた。
人形達がいた。しかし、本当にそうなんだろうか。
真っ暗闇の中で、本当ならいないものを想像してしまっただけなのかもしれない。
「ほんまやな。そうやで、絵美ちゃん、泊まっていきいや」
なぜか、由香の兄さん達も、声を震わせて言った。
「怖いもん知らずの由香が、これだけ怖がるんも珍しいし」
「オレまで怖くなるわ」
「そうします」と私が答えると、なぜか周囲の気温が上昇したように思えた。
「やったー」
「バンザーイ」
「絵美ちゃんが、お泊まりするぞお」
私の母は、当分戻っては来ない。
仕事で九州に行っていて、どんなに早くても1週間は戻って来ない。
旅先から電話が来ることもない。
そんなことは、一度もなかった。
一度もないと言えば、ハガキ一枚ですら届くことはなかった。
そういう生活を、別段淋しいと思ったこともなかったけれど、どこかで、ここの家族なら、毎日電話がかかり、毎日手紙が届くような気がした。
泊まる準備なんかしてきてなかったのだけど、由香が、大抵の準備を整えてくれた。
「ごめんね、絵美。こんなことになって」と由香は言ったが、心の奥で、すごく喜んでいるのがわかった。
私も、なぜか、嬉しかった。
「由香、ごはんよー」という声が、階下から聞こえて来る。
「あーあ、もう、ごはんか」と由香が言う。
そんなことを一度も言ったことのない私は、微かに戸惑いを覚えた。
「しょうがないから、行ってやるか」
私は、たった一人きりの、細々とした自分の食事を思った。
全てが初めての体験だった。
他人の家にいること。そこに泊まること。
そして、何よりも、そこの家族と食事をすること。
私は、必要以上に神経質になって、かなりギクシャクして階段を下りて行った。
「……華さん?」という声が、耳に飛び込んできた。
また、『華さん』だ。
声の行方を見れば、多分、由香のお祖父さんだろう。
小さな顔をした老人が、階段の途中で、ジッと私の顔を見ていた。
お爺さんは、泣いているような、笑っているような、奇妙な表情をしている。
顔をクシャクシャにして、私を見ている。
「……華さん……本当に戻ってきてくれたんやな……」
ポタポタと階段に落ちていくのは、汗のようでもあったけれど、よく見れば、お爺さんの涙だった。
「華さん……華さん……」
どうしよう、と思いながら、私は、握られている自分の手を、無理に振り払うことはできなかった。
「わしやで、華さん……」
お爺さんが、私に何か訴えたいのはわかったが、私にはどうしようもなかった。
私は、一人、場違いに感じていた。
こんなに大勢の人と食事をするという機会もなければ、そういう思い出もなく、ただただ、目立たないように、ヒッソリと片隅に身を沈めていた。
「絵美ちゃん、これ、うまいよ」とお兄さんの一人に言われると、ニッコリ笑わなくては、と思いながら、ビクッと身体が強張った。
見知らぬ食堂に迷いこんで、何を注文していいのかわからない客みたいに、私は、愚かな微笑みを顔に浮かべたまま、硬直していた。
「ああ、これはうまいなあ。母さんの牛蒡の煮物は最高だ」と言っているのは、由香のお父さん。
こんなことを思っては悪いけれども、とても顔が大きい。
そう思って見ていると、由香はお父さん似だ。
「母さん、もう、食べられるだけ作ってよ」とブツブツ文句を言っているのは、由香の上のお兄さんの圭吾さん。
「ああ、オレ、野菜ばっかりの料理は飽きたわ」と言っているのは、下のお兄さんの仁さん。
上と下に分けては悪いぐらいに、顔も背も双子のように似ていて、この二人はお母さん似だ。
もう少し言えば、お爺ちゃん似だ。
お爺ちゃんも、お母さんに似ている。
「絵美ちゃん、野菜ばっかりでイヤかもしれへんけど、もっと食べたら?」
私が硬直しているのは、何も大勢で食べているせいばかりではなく、どういうわけか、ジョギングの君とそのお母さんらしい人も、一緒に、ごはんを食べているせいだった。
箸がうまく使えない。
口に押し込んだものが、喉の奥になかなか行ってくれない。
ゴックンという飲み込む音が聞こえたらどうしよう……
私は、食事を楽しむなんていう心境には程遠く、そういう些細なことに神経を擦り減らしていた。
それに、何よりも神経を使ったのは、由香のお母さんが、私の方を全然見ないくせに、私に全神経を集中しているように思えることだった。
きっと、内心、迷惑に思っているに違いない、と私は確信していた。
そして、ジョギングの君。
彼は、時折、ジッと私に視線を向けている。
その視線は、瞬間、私を貫き通すほど強かった。
唯一の救いは、お爺ちゃんだった。
私の隣に座って、何かブツブツ言いながら、「華さん、これ、おいしいよ」「華さん、これ食べたらどうや」と話しかけてくれている。
多分、こういう状況でなく、普段だったら、すっごく迷惑なお爺さん、と思ったかもしれないけれど、この時だけは、そのお蔭で、随分救われていた。
「なあ、春行」とお爺さんは、ジョギングの君にも話しかけた。
その瞬間、私は、全身が耳になる。
そうか。『春行さん』ていうんだ。
「……それで、華さんが、あれを全部、春子ちゃんにやったんやったなあ。それで、あれは、全部、春子ちゃんのものになったんや」
「うん、うん」とジョギングの君、今では『春行さん』が答えている。
春行さんは、おいしそうに牛蒡の煮物を食べていた。
私の煮物は、もっと砂糖が少なくて健康的よ、と内心思う。
でも、牛蒡は、今まで扱ったことはなかった。
今度、挑戦してみよう。
「なあ、春子ちゃん、そうやったなあ」
お爺さんの視線の先を追うと、春行さんのお母さんらしい人に行き当たった。
私も、夢に出てきた春子ちゃんには興味があったけれど、視線の先には、夢の中に出てきた可愛らしくて愛くるしい少女はいなくて、うちの母よりももっと年上に見える、中年のおばさんしかいなかった。
ハッキリ言って、春子ちゃんの面影すらなかった。
春行さんは、きっと、お父さん似だ。
『春子ちゃん』と呼ばれたおばさんは、由香のお母さんのついだビールを飲んで、ウハハ、ウハハと笑っている。
スッカリ酔っているみたいだ。
「なあ、春子ちゃん、そうやったなあ」とお爺さんは、しつこかった。
「もう、爺ちゃんは、お酒飲まへんのやから」と言って、春子おばさんは、また、ウハハハハ、と笑った。
「春子ちゃん……」とお爺さんは、悲しそうに言った。
「華さんが帰って来て、嬉しくないんかいな」
私には、なぜか、お爺さんの気持ちがよくわかった。
多分 お爺さんは、何か間違った気持ちを抱いている。
でも、その気持ちは、お爺さんが生きていくには、大切なものなのだ。
「うん、ほんと。華さんに似てるよね、範子ちゃん」と春行さんが、お爺さんを救うように言ったのは、いいのだけれど、私は、急に注目を浴びて、ようやく食べようとした牛蒡をポロリと落としてしまった。
わあ、大変。
由香のお母さんは、初めて正面から、私の顔を見た。
その視線は大変に強くて、私の身体から全ての水分が蒸発してしまいそうだった。
「どこがですか?」
そのとたん、私は、ここにはいない人間になったような気がした。
お母さんが私を見たのは一瞬だ。
しかし、その瞬間に私の全てが裁かれてしまったような気がした。
お母さんの声はとんがっていて、どこかしら、憎しみのようなものすら感じられた。
私は、いたたまれない気持ちになった。
この瞬間に、どこかに消えてしまいたかった。
自分の大好きな友達のお母さんに、初対面でこれだけ嫌われるのは、どこか自分に原因があるような気がした。
それは、理屈抜きで、悲しいことだった。
「じゃ、ご馳走さま」と由香が、ガタンという音を立てて、席を立った。
「今日は、絵美と勉強するから。絵美は、今日泊まるから」と由香は言った。
「絵美の家には話してあるし、後で布団を取りに来るから」
そう言って、由香は、自分のお母さんを睨んでいた。
「さ、絵美、行こう。勉強せんと」
「あ、うん」と私は言って、「ご馳走さまでした」とお母さんに頭を下げた。
「あ、オレも勉強があるし」
「オレは、ちょっと、やることあるし」
由香の二人のお兄さんも、私達と同時に席を立った。
お母さんに気付かれなければいいけれど、二人共、私と由香の方を見て、ニッと笑っていた。
「おでれーたな」と由香の部屋に腰を落ち着けたとたん、お兄さんの圭吾さんが言った。
「驚いたな」と言っているらしい。
「マジで、ビックリッす」と弟の仁さんも言った。
「あれ、ほんまに、お母さんなん?」と由香が言う。
私には、三人が何を言っているのかわからない。
「なーんか、全体に変よね」と由香が言った。
「あの……私、帰った方がいいんじゃないか、と……」などという私の声は、誰の耳にも聞こえていない。
「オフクロ、マジで若返ったよな」
「ほんま、ほんま。夏帰った時と、別人」
「アイツのせいやわ」と由香が、何となく、私の方に気を使いながら言った。
「ここ1ヵ月で、段々と変になっていったんやから。
若返ったなんてもん、ちゃうで。
アレは、化けもんの世界やわ。
まず、こってり化粧するようになって、真っ赤な口紅をつけるようになって、髪をメッシュにするようになって、最終的に、今日、髪の毛にソバージュかけたんや」
「けど、似合ってるやん」と兄の圭吾さんが言った。
「うん。オレも若いオフクロ、嫌いやないな」と仁さんが言う。
「けど、あれは若返ったんやなくて、完璧な若造りやわ」
そう言った後、由香は、しばらく黙っていたが、最終的に吐き捨てるように言った。
「あんな変な女、絶対に、お母さんと違うわ」
うーん、と二人のお兄さんは、しばらく唸っていた。
「そやけど、夏休みのまんまやったら、完璧ババア路線やったで」とようやく、圭吾さんの方が言った。
その時、コッコッコとドアをノックする音が聞こえて、部屋にいた全員が、ビクッと飛び上がった。
「誰?」と由香が尋ねると、「わし」という、お爺さんの声が聞こえてきた。
「あー、ビックリした。噂をすればのお袋かと思った」と兄弟は口を揃えて言った。
「お祖父ちゃん、私達勉強してるから、また今度ね」とドアを半分開けて、由香が宣言していた。
「これ、華さんに」と言う、お爺さんの声が聞こえていた。
「もう、お祖父ちゃん。この人は、私の友達で、坂口絵美さんなんよ。
お祖父ちゃんの知ってる華さんとは違うんよ……」と言って、由香は何か思案していた。
「お祖父ちゃん、ちょっと入って来て」
「由香、どないするんや、祖父ちゃんなんか呼んで」と兄さん二人はブーイングだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんよ」
お爺さんは、ニコニコしながら部屋の中に入ってきて、私の近くまでくると、ポケットからハンカチを取り出した。
「これ」と言って、私に渡そうとする。
「私にくれるの?」
「何言うてんねんな。華さんのやないか」
華さんのやないか、と言われても、私にはわからない。
ヨレヨレの布切れのようなハンカチには、あちこちにシミがついている。
もらって嬉しいプレゼントではなかった。
「ねえ、お祖父ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんやけど。華さんて、誰?」
お爺さんは、キョトンとした顔をして、私の方を見た。
「華さん」と私を由香に紹介した。
「もう違うでしょう!
お祖父ちゃん、絵美に会ったの、今日が初めてやないの。
その絵美が何で、お祖父ちゃんの知り合いの華さんなん?
もう、その人の写真かなんかないの?」
お爺さんは、しばらくボウッとしていたが、ズボンのポケットをガサガサと探り始めた。
部屋にいる全員が、お爺さんに注目している。
お爺さんは、ポケットの中から、いつのものかわからない、くずれたお饅頭を出した。
丸めたティッシュと小さな鉛筆も現れた。
てのひらサイズの鏡を出すと、しげしげと自分の顔を見た。
「もう! お祖父ちゃん、写真!」と由香がイライラして叫んだ。
お線香とろうそくとマッチの後に、手帳が出てきた。
お爺さんは、手帳を丁寧に開くと、中から一枚の色あせた写真を取り出した。
由香が受け取ろうとすると、お爺さんは、素早く写真を隠した。
「もう、見せてくれてもいいでしょう。絶対、取ったりしないから」
お爺さんが、固く握って写真を離そうとしないので、全員がお爺さんの後ろから写真を見る羽目になった。
「華さん」とお爺さんは言った。
「うわ、嘘ー」
「うわ、ほんま、目茶クリソツ」
お兄さん達が騒いでいる。
セピア色になってしまったモノクロの写真には、髪に昔風のパーマをかけた女性が写っていた。
緊張しているのか、顔は怒っているみたいだ。
大きな白い襟のついたワンピースを来て椅子に座っている。
年令はわからないが、二十才ぐらいだろうか。
女性の膝には、黒い猫が座っていて、猫はカメラを睨んでいるようだ。
目に光が入って、白く光っている。
「ウワッ」と思わず、私は叫んだ。
「どうしたの、絵美?」と由香が尋ねる。
背景は薄暗くて、最初はよくわからなかったけれど、薄暗がりの中に、点々と小さな光が見える。
見ているうちに、ボウッとした人形の姿が浮かび上がってきた。
「人形が、いっぱい……」と私は呟いた。
「ええ? どこどこ? 何にも見えへんけど」と由香が言った。
「華さんの人形や」とお爺さんが、満足そうに言った。
「今では、春子ちゃんと隆のもんや」
「ええ! 隆って、あの変な伯父さん?」と由香が言った。
「ここの隣に一人で住んでる?」
「あそこは、華さんが住んでた家や。康子さんが死んでからな」
「康子さんて、誰?」
「春子ちゃんのお母さんやがな」
そう言って、お爺さんは、ジッと由香の顔を見ていた。
「あんた、康子さんか?」
「もう、祖父ちゃん、シッカリしてよ。
孫の由香。忘れてしまわないでよ」
「祖父ちゃん、オレ、誰?」と圭吾さんが尋ねた。
「あんたは、誰やったかなあ」
「うわ、オレ、ショック。圭吾やんか、お祖父ちゃん」
「オレは? オレは?」と仁さんも悪ノリする。
お爺さんは、ジッと目を細めて、仁さんを見ている。
「範子によく似てる」とお爺さんは言った。
「ガビーン」と言って、仁さんは床に倒れた。
「お袋に似てるのは、親子やからやろ、祖父ちゃん。
ええ、オレラのこと、忘れてしまってるんか?」
由香が、アメリカ人みたいに、肩をすくめて見せた。
「じゃあ、この写真の家が、華さんの家?」と私は尋ねた。
「もう覚えてないんかいな、華さん」とお爺さんは、今までの仕返しをするように言った。
「春子ちゃんと春行が戻ってきて、次は絶対に、華さんが戻ってくると思ってたんやで、わしは。
ずっと待ってたんやで、華さん」
そう言って、お爺さんは、ポタポタと涙をこぼしたので、由香が慌てて、ティッシュの箱をお爺さんの前に置いた。
お爺さんは、ティッシュで涙を拭くと、それをポケットに丸めて入れた。
出して来た順番通りに、ポケットの中に色々な物を仕舞い始めた。
「どらえもんのポケットみたいやな」と仁さんが言った。
「春子ちゃんと春行っと華っさん」とお爺さんは、歌うように言った。
「春子ちゃんと春行っと華っさん」と歌いながら、お爺さんは、由香の部屋から出て行った。
「祖父ちゃん、完璧にイッてんなあ」と圭吾さんが言った。
「けど、お祖父ちゃんが間違うん、無理ないわ。
めっちゃ似てたやんか、絵美ちゃんに」と仁さんが言う。
「ああ、私、もう頭が痛くなってきた」と由香が言った。
「もう再起不能。勉強のできる身体じゃなくなってしもた」
「元々やろ」と仁さんが言って、由香がドンとお兄さんの背中を叩いた。