人形の家1
部屋の中に一歩足を踏み入れると、何十体もの人形が、四方八方から私を見ていた。
それは壮観だった。
今までに一度も、それだけ多くの人形を見たことはなかった。
金髪に青い目の人形も混じっていたけれど、ほとんどが、肩まで髪の毛を垂らした日本人形だった。
多分、市松人形と呼ばれている人形だ。
それぞれが、美しい生地の着物を着て、帯を締めている。
「これ、全部、私の?」という可愛い声が聞こえてきた。
声の方角を見れば、お人形さんと見違えるような可愛い女の子が、ジッと私を見ていた。
髪の毛は市松人形のように肩で切り揃えられ、目がクリクリとして利発そうだ。
「そうや。今日から、これは全部、春子ちゃんのもんや」と夢の中の私は言った。
そうか。この子が、春子ちゃんなのか、と私は、改めて少女を見た。
「春子ちゃん、一体、どこに行ってしまったの?」
夢の中の私は、そのキョトンとして、私を見ている女の子をギュッと抱き締めた。
私の両方の目からは、涙がスルスルと流れていた。
ハッと気がつくと、私は女の子をではなく、黒い猫を抱き締めており、猫を撫でている私の手には、老婆のようなシワができていた。
嘘! と私は思い、そのショックで飛び起きた。
「シワが……シワが……」と叫ぶ私の耳に、クスクス笑う声が聞こえてきた。
「もう、絵美ったら……座りなさいよ」と隣の席の佐藤由香が、私の制服のスカートを引っ張っていた。私は、ドシンと椅子に座った。
「坂口、シワの心配は、試験が終わってからにしろ」と担任が言い、クラス中がドッとわいた。
事態が飲み込めてくると、全身が真っ赤になるほど恥ずかしくなった。
ああ、何ということだ。
授業中に爆睡したあげく、わけのわからないことを叫んで、立ち上がってしまったのだ。
「あんたって、マジで、恥ずいヤツ」と由香が、放課後、女子トイレで髪をとかしながら言った。
「寝言言うまで、爆睡すんなや」
「そやかって、超リアルな夢見たんやもん」
「どんな夢?」
「どんな夢って言うたら……」
あれ? もうどんな夢を見たのか、ハッキリ覚えていない。
「どーせ、今朝のジョギングの君の夢でも見てたんと違うの」
そう言われて、私は、奇妙な気分になった。
そう。夢には、小さな女の子が出てきた。
その子には、どこか、今朝見たばかりのジョギングの君を思い起こさせる雰囲気があったような気がする。
「それはやね、ジョギングの君への気持ちが屈折して、夢の中には小さな女の子として登場したわけで、それは、絵美がまだ、女として彼を受け入れる準備ができていないということやね」と由香にしては珍しく、難しいことを言う。
「そうかなー」
「絶対、そうやわ」と断言されてしまうと、何となく、そんな気がしないでもない。
彼氏いない歴十七年。今月誕生日が来れば、十八年。
男の子なんて、得体の知れない、薄気味悪い、不気味な生物としか思えなかった。
高校から編入してきた由香と違って、私の場合は、中学からの生粋の女子校育ち。
クラブは帰宅部だし、たまに出会う男と言えば、学校の先生か、電車の中の痴漢ぐらいだった。
「しっかし、絵美にも、ようやく春が訪れようとしているわけやなあ」と由香が詠歎調で言った。
「けど、今頃焦らんかて、大学入ったら、イヤになるほど、男が寄ってくるって」
「由香は、そうやろうけど」
「何、言うてんの」
由香は、私の後ろから、グイッと私の顔を両手で挟んで、鏡の中の私の目を見た。
「絵美って、マジ、美人やで」
「由香の方が可愛いって」
「そうや。私は可愛い」と由香は自信を持って言う。
「けど、あんたは、綺麗で美しいの」
私は、鏡の中で、身の置き所がなくなって、一人で真っ赤になっていた。
「そんなこと、言われたことないから、どうしたらいいのかわからへんわ」
「そっか。誰も言うてくれへんのや。私なんか、父親からも母親からも、兄貴達からも、顔会わす度に、可愛い可愛いて言われて育ったからなあ。まかり間違って、『ブス』なんて言われても、『目の悪い可哀相な人』て思えるもんなあ」
「いいなあ」と私は言った。
我が家は、母子家庭の上、母親は、仕事でいつも不在。
私は、勉強と家事にしか趣味のない、根の暗い人間だった。
「よし」と由香が言った。
「今日は、うちで勉強しよ」
「え!」と私は、困惑した。
私は、小学校の頃から、家と学校を往復するだけの人間で、まともに友達ができたこともなく、家に友達を呼んだことも、まして、友達の家に遊びに行ったこともなかった。
「良かったら、泊まっていきいや。前から兄貴達が、うるさいんやで。絵美ちゃん、可愛い、可愛い、連れて来い、連れて来い、て言うて。私、一頃、ムカッと嫉妬したわ」
「けど、そんなん、私、恥ずかしいし……」
「大丈夫、大丈夫。兄貴達は、寮に入ってて、滅多に家に帰って来いへんし。たとえ、いたかて、別に、兄貴となんか話す必要ないから。私の部屋で、おやつでも食べて、一緒に勉強しよ」
「あの……河野君は、かまへんの?」と私は、おそるおそる尋ねた。
私と違って、由香にはボーイフレンドがいて、「デート、デート」と言うことも多かったからだ。
「河野君? ああ、良平?」
由香は、ちょっと遠くを見るような目をした。
「あんなん、無視、無視」
いーのかなあ、とちょっと淋しそうな由香の横顔を見た。
いーのかなあ……と思いながら、心が踊らないでもなかった。
自慢じゃないけど、友達の家に遊びに行くなんていうのは、生まれて初めて。
食事も大抵一人で作って食べていたし、一人で勉強して、一人で本を読んで、一人で掃除や洗濯をする、という生活に慣れ過ぎていて、別段、不自由にも不満にも感じていなかった、というのが、私のこれまでの人生だった。
暗い過去と言えば、言える。
由香とは、高三で初めて同じクラスになって、積極的に私に話しかけてくれた初めての友達で、へえ、そうか、友達というのは、こういう感じなんだ、と思い始めていた。
私達の学校は、電車で五十分、そこから徒歩で二十分はかかる、山の上にあった。
母親に言われた通りに受験した女子校で、同じ小学校からは誰も通っていなかった。
だから、由香と毎朝、電車で顔を合わせるようになり、一緒に帰るようになって、小学校は違うけれど、同じ駅から通っている、というのがわかるようになった。
私と違って、由香には友達が多く、よその高校に通っている男子の友達も多かった。
河野君というのは、そのうちの一人なんだと思う。
駅を挟んで、由香の家と私の家は、ちょうど、反対側にあった。
私が住んでいるのは、マンションが立ち並ぶ新興住宅街だ。
コンビニやラブホが林立している一角にあるマンション。
今日は、由香と一緒に駅の反対側の道を通って歩いて行くと、ええ、こんなところに、古い住宅が並んでいる一角があるんだ、と思える通りに出た。
高層マンションもなければ、ラブホテルもない。
大きな家ばかりが、ずっと並んでいる。
「へえ、同じ区内に、こんなとこがあったんや」と私は、驚いていた。
「昔から、なーんも無いとこや。カラオケも映画館も、茶店もないし。ようやくコンビニができてきたとこかな。町内会が古いらしくて、何でも反対の地域で、いやんなるわ」
「わあ、大きな家ばっかり」
「うん。この家も、うちのもんらしいんやけど、今は、誰か知らん人が住んでるみたい」と由香は、大きな鉄の門のある家を指差した。
「ええ、すごい大きい家やん」と私は、この通りに、他に門も入口もないのに、驚いていた。
「けど、この家、何か、わけありやったみたいやで。私は、よく知らんけど」
その瞬間、門が突然開いて、中から大勢の男の人達が走って出て来た。
全員、上気した顔をして、トレーニング・ウエアのようなものを着ていた。
そのお揃いの、トレーニング・ウエアには、見覚えがあった。
私の心臓は、勝手にドキドキし始めていた。
今朝、いつもよりも早く家を出て、駅に向かって歩いていた時、これと同じトレーニング・ウエアを着た青年を見た。
少年と言ってもいいかもしれない。
青年と少年の中間地帯にいる、若くてカッコイイ男性が、一人で走っているのを見た。
優雅で美しい走り方だった。
一瞬で横顔が通り過ぎ、その後を、汗の粒が、美しい真珠のように、四方に飛び散っていた。
足が美しい、と思った。
細いけれども強靱な脚が、トレーニング・ウエアから、透けて見えるようだった。
私は、彼が通り過ぎてしまった後を、茫然として見送っていた。
薄気味の悪い、得体の知れない、不気味な生物ではない男性を、私は、生まれて初めて見たように思った。
それが、由香の言う『ジョギングの君』だった。
私は、心臓を喉から押し出すような気分で、門を見つめていた。
「絵美ったらあ」と由香が、不機嫌な声をあげた。
ズキンという音を、突然、心臓が立てた。
おなかの辺りがズキズキする。
その大きな鉄の門から、今、一人の青年が走り出してくるところだった。
彼、だ。
私は、ボウッとしたまま、彼を見ていた。
「もう、絵美ったらあ」と言いながら、由香も彼の方を見た。
うう、ああ、というような、曖昧な声が、由香の喉から出た。
走り出そうとした姿勢のまま、彼も、私達の方を見た。
その瞬間、周囲の全てが、色と音を失ったように思えた。
景色全体が、奇妙に歪んで見えた。
全てが、静止してしまったようだった。
私の心臓さえもが、脈打つことを止めたような、不思議な時が流れていた。
彼は、不思議そうな顔で、私を見ていた。
由香が突然、私の手をムンズとつかんだ。
私を引きずるようにして、彼に近づいて行った。
「あんた、この家の人?」と由香が尋ね、彼が微かにうなずくのがわかった。
「ここさあ、実は、私んちなんよね」
「ああ、そうなんですか」と彼が言い、突然、いつも通りの時が流れ始めた。
「母さん?」と彼が言った。
「はあ?」と由香が答えた。
「ああ、ごめんなさい。多分、人違いやね」
「はあ?」となおも、由香は言った。
彼は、もう由香を見てはいず、私を見ていた。
その視線は私を通り越して、私の後ろにある何かを見ているようだった。
「華さん?」と彼は言った。
私は、急に、吐き気がするような気がした。
「いいえ、違います」と私は、何かを意識するより先に答えていた。
「私は、坂口絵美です」
「坂口絵美さん?」と彼は、微笑んだ。
「は、はい」
「そうか」と彼は言い、その不思議な微笑を残したまま、軽やかな足取りで、先に行ったメンバーを追い掛けて行った。
私は、朝と同じように、その後ろ姿を、茫然と見送っていた。
「絵美、絵美ったらあ」という由香の声が、急に、耳に入ってきた。
「あんた、どこの世界をさまよってんの」
「え?」と私は、本当に、由香の言うように、どこか、ここではない世界をさまよっているようだった。
「はーん。あれが、例のジョギングの君か」と由香が言った。
私は、どう答えていいのかわからずに、カッと頭に血が昇った。
「ふーん、そうか。あれがね。でも、あれって……」と由香は、ことばを探しながら言った。
「顔はいいし、スタイルもいいし、確かに、いい男やけど、完璧に、あっちの世界に行ってる人やん」と言いながら、由香は、頭の横で指をクルクルと回していた。
「そう?」と私は、由香のことばを聞いていなかった。
身体の中心を、何らかのエネルギーが、らせん状にかけ昇っていくような気がした。
「まあ、今の絵美に、何を言うても無駄か……」と由香は、深い溜め息をついた。
私達は、黙ったまま、長く続く塀を通り越して、角を曲がり、彼が出てきた鉄の門と、ソックリ同じ門の前に立った。
ピンポーンというインタフォンの音が遠くで聞こえていた。
「はい」
「私」
門が開くまでに、しばらくの時間がかかった。
マンションとは、偉い違いだ。
「お母さん、私の友達の坂口さん。今日は、一緒に勉強して、泊まっていくから」と由香は、出てきたお母さんに言った。
「まあ、いらっしゃい。ゆっくりしていってくださいね」
私は、お母さんの物柔らかなことばと、お母さんの視線との落差を感じていた。
由香の言う『ジョギングの君』同様、お母さんも、私そのものを通り越して何か別のものを見ているようだった。
「おやつ、何?」と言いながら、由香は、玄関から中に入ると、ドカドカッという音を立てながら、二階に上がって行き、私は、慌てて、由香の後を追った。
階段を登りきったところで、男の人とぶつかりそうになった。
「小兄ちゃん」と由香は言った。
「わあ、坂口絵美さんでしょ」と由香の兄さんは言った。
「おお、ついに、我が家に来てくれはりましたか。
コーヒーがいいですか? それとも、コーラ?
紅茶? アイス? ホット? レモン? ミルク?
オレンジジュース? それとも、アイスクリームがいいですか?」
「小兄ちゃん、ちょっと、うるさい。絵美が怖がってるやないの」と美香が、お兄さんから、私を庇った。
「何でもいいから、持ってきてよ、おやつも」
「はいはい」とお兄さんは言った。
それを合図にしたように、ガチャッと正面のドアが開いて、もう一人、男の人が顔を出した。
「おー、坂口絵美さんでしょ」ともう一人と同じ反応をした。
「大兄ちゃんまでいてるんか……」と由香が言った。
「絵美さん、何か買ってきましょうか?
ピザ? 肉まん? ケーキ?
それとも、お酒なんかがいいかな?」
「もう、兄ちゃん達って、何で、今日に限って、家にいてるんよ」
「何言うてんねん。オレラは、受験生のお前と違って、大学生さまやぞ。
もう、冬休みに突入してるんや」
「あ、ほんま。けど、絵美は、私と勉強しに来てるんやから、絶対に、邪魔せんとってね」
「当たり前やんか。邪魔なんかするわけないやん」と言いながら、いつの間にか、由香の二人のお兄さんと私達は、一緒に、コーヒーとケーキをいただいていた。
「いやあ、美人と飲むコーヒーは、うまい。もう一杯いかがですか、絵美さん」
「駅前のケーキは、安物やけど、うまいですよ、絵美さん」とスッカリ友達気分になってしまっているようだ。