4.あなたはだあれ?
温かいものが触れて、目が覚めた。
「おに……」
それとも、翔ちゃん?
雪花のジンジンと痛むわき腹や腕を何度も舐める舌、丁寧で優しい。兄弟に舐められているからわかる、癒そうとしているのだ。
少しずつ痛みが和らいでいく気がする。
目がうまく開けられない、それでも少し手が動く。
そして、水音に気が付く。でも身体は濡れていない、たたきつけるような雫はない。雨じゃない。どうやら川辺にいるらしい。大きな音ではない、優しい響きだ。ささやかな流れ。
薄闇に浮かんだ景色が映る。目が暗闇に慣れたのか。兄たちほどではないが、少しだけ雪花は闇の中でも目が利く。
――それは、黒い獣だった。
長い毛は少し硬めだ、けれど雪花の手の隙間をビロードのように流れる。兄たちではない、雪花ははっきりとわかっていた。
本物の獣、だろうか。
けれど、闇夜に浮かぶ顔は大きく、全貌がつかめない。
暗闇に溶け込むような姿。雪花が身じろぎをして半身を上に向けると、寝やすいように獣も動いてくれる。
夜空に月が浮かんでいる、黒紫の闇夜に灰色の雲が流れていく、隠れていた月が出てきたのだ。
雪花は顔を横に動かして、瞬間息をのんだ。
その顔は左の頬から耳にかけて傷があった。そして左耳は先端がちぎれていた。
雪花の動揺に気づいたのか、獣の顔がそむけられる。
長い鼻、左右対称に整った毛に覆われた顔、つり目の青く美しい瞳は炯々としている。
なによりも、月の光に照らされたその毛色は、銀色に輝いていた。
狼だ。その種族はわからない。ただとても大きい、雪花の胸に言葉が浮かぶ。
――まるで、王様みたい。
(……綺麗)
雪花は身を乗り出す。手が狼の腹を押さえつけてしまい、身じろぎする狼が雪花の顔を振り返る。その顔に手を伸ばして、雪花は傷ついた耳をなめる。
狼はじっとしていた。いや、驚いたかのように固まっていた。
獣たちは、舐めあうのが当たり前だ。
あいさつや親愛の情を示すとき。それから怪我をした時。
彼は雪花の傷を舐めてくれたのだから、雪花も舐め返すのが当たり前だった。
躊躇はない、兄弟で慣れていたのだ。
小さな舌で、慰めるようにちぎれた先端を舐める。傷は過去のものだろう、すでにそういう形になっていた。
いびつな耳は、愛しささえ覚えてくる。口に含んで舌先でくすぐる。
くすぐったそうに、狼が、顔をぶるっと左右にふる。
雪花は顔を離して、彼の頬の傷に指でなぞる。そこだけ毛が生えていない、ピンク色の地肌が覗いている。そこにも舌を這わせる。
彼は、最初はいやそうに顔をぶるっと背けたが、雪花は構わない。
舐められて嫌な獣はいない。本気で嫌ならば牙をむいて威嚇するだろう。
もう痛みはないだろう。けれど痛かったはず。きっと縄張りとか、何かを得るために戦ったのだろう。
彼には王者の気配を感じる。こうやって生き残っている以上、彼は勝ったのだろう。
だから名誉の傷だ。でも痛かったはず。記憶を慰めるように雪花は丁寧に舐め上げる。
不意に狼が顔を雪花の方に戻す、そして彼女を小突く。
コロンと転がり、彼の大きな腹に背を預けてしまう。彼はまた雪花の顔を舐める。
どうやらお返しをしてくれるらしい。大きな舌で顔を舐める。
大きな毛深いしっぽが、パタパタと雪花のお腹と地面を左右に叩いている。ご機嫌だ。
雪花は上下する温かい腹に頬を埋める。守られている。そう思う。きっと助かる。
そして意識がまた沈んでいった。