31.”なーん”と鳴く、にゃこです
それにしても、少し歩いただけで。
(足が……痛い!)
夕月ちゃんからMサイズのものを借りたけど、鼻緒が指の間に食い込んですぐに森羅が気づいて、吹き出すように笑いだした。
「ひどい!」
「ごめん。痛がってる雪花も可愛いよ」
「それは、可愛くない!」
そんな姿も可愛いと言われると、もうその「可愛い」もありがたみがありません。
「じゃあ、こうしようか」
そう言って、救い上げるように、即座にだっこされてしまう。お姫様抱っこだ。
「森羅!」
周囲に人影はないけれど恥ずかしいという感情を込めて名を呼ぶけど、こういう時だけ首を傾げるように、わからないな、と言う顔をする。わざとだよね。
「誰も見ていないとは言わないけど。でも俺は雪花を抱き上げられて嬉しいしね」
「見てないって……見られてるの!?」
「俺たちは獣だから、そこら中には誰かがいるけど、誰も気にしない。それに雪花は嫌?」
綺麗な顔で微笑まれると、言葉を飲んでしまう。燐斗兄ちゃんの大人の笑み、蒼兄ちゃんの硬質な笑み、そして翔ちゃんの人懐こい笑みとは違う。
自分を見る目は嬉しくてたまらない、という顔。当たり前の親愛の情とは違う、愛しさを込めた笑みには黙らせられてしまう。
「痛い雪花には悪いけど。抱き上げられるなら、いつでも俺は大歓迎だけどね」
「……でも、いつも抱き上げられてるわけにはいかないよね」
「俺はいいよ?」
さらりと恥ずかしいことをいうけど。長なのにここまでのろけてていいの?
「惚れたメスに弱いのは、どのオスでも一緒だからね。目の前にいたら頭を垂れるし、取られそうになったら威嚇して噛みつく。そんなものだよ」
「お互い様ってこと?」
「そうだね、からかいはするけどね。邪魔はしないのが約束事かな」
そう言って森羅はさくさくと里の出口まで進んでいく。本当に揺らがない確かな足取り。腰と足に重心があって、けれど腕だけで支えている。
筋肉は、上のお兄ちゃんほどじゃないけど、しっかり身体についている感じ。燐斗兄ちゃんが獣に負けるとは想像もつかないけど、森羅とお兄ちゃんと戦ったら相打ちになりそうな予感。
「森羅、どこ行くの?」
「少し、外にでようか」
そう言って森羅が言うと、あっという間に景色が遠ざかる。すごい速さで木々の間を抜けていく。草を、岩を、水辺を越えて山を登っていく。
(すごく気持ちがいい)
この感覚は嫌じゃない、自分が走れない速さ。でもまるで自分が走っているかのよう。雪花の中の獣がわくわくして、もっと速く、もっと、と急かしていく。それを感じて森羅の喉が愉快そうに鳴ってさらに足が大地を強くける。そうして、森羅が足を止めたのは、崖の上だった。
山々を一望できる場所。濃い緑、薄い緑、重なる丘陵。土と緑の匂い、少しけぶった景色。大好きな緑の匂いを雪花は胸に吸い込む。
森羅の硬い筋肉質な首に手をまわして雪花は身を乗り出した。
「雪花、耳が立ってる」
「うん。すごく……匂いが、する」
雪花は、山に囲まれた田舎に暮らしているけれど、家猫だ。でも、木々の匂い、土の匂い、水を含んだ炭のような空気の匂いが好きだ。鼻をひくひくさせて髭を揺らしている自分がわかる。
森羅も満足そうに鼻を引くつかせて、銀色の目を細める。それは狼の目だった。
彼の喉が鳴る、そしてその口から遠吠えが響く。深くて長い響きが見下ろす谷へと落ちて、吸いこまれていく。わずかな間の後、同じような響きが四方から響いていく。それは木霊の様で違う。別の狼の、別の種の響きだ。狼、または違う獣。
あちこちで、森羅の呼び声に応えてくる声。自分はここにいると、長に知らせる親愛の響き。
雪花も喉をのけぞらせて、口を開く。お腹のほうから何かがせりあがる。声帯が震えて、今まで使わなかった何かが、押しあがってくる。
“ナーン”
情けない変な鳴き声だけど、不思議と深い響きで谷底へと響き渡る。すると、ほんのわずかな間をおいて、四方から獣たちの遠吠えが響いてくる。聞こえた、応えた、承知した、雪花の存在を認めたもの。
「雪花を認めたんだ。俺の伴侶として」
「……そうなの」
不思議と前のように、伴侶とされることへの怯えや驚きはなかった。そうなんだ、という気持ちが胸にしみわたる。それを感じたのか、森羅の顔も晴れやかで落ち着いていた。
「少し目をつぶって」
「うん?」
森羅の声音は普通だったから、雪花も素直に目を閉じた。途端に森羅が強く雪花を胸に引き寄せて、そして眼下に見える深い谷底へと、滑るように静かにダイブした。




