2.だって、しっぽは掴みたくなるよね
ドアを開けたら大きなリビング。
目前に飛び込む大窓の向こうは、ダークブラウンの木材でできた広いテラス。その向こうの木々にランタンが吊り下げられてて、優しい光を投げかけている。
もちろん木々が家の中を隠すようになっているから、カーテンを閉めなくても覗かれる心配はない。
なにより、隣家まで徒歩で十分はかかる。不審なものが居たらすぐさまわかる。
雪花は、リビングの続きのキッチンに目を向ける。
そこには立派な体躯に合わせた海外のキッチン用品店で買ったという紺色のエプロンをつけた長兄が、オーブンからローストビーフを出したところだった。
「燐斗兄ちゃん、ごめん!」
「蒼士と翔にしっかり叱られたか?」
うんって頷くと、彼は塊り肉をダイニングテーブルに載せて雪花の頭に手を置いた。
「もし次があったら、俺がどうするか、わかっているな」
優し気な手、穏やかな慈愛に満ちた長兄の表情。一番寛容さを見せてくれる長兄の燐斗だが一番怖い。
最後の手段、その段階まで行くと雪花に選択の余地はない。
大学のバス通学をやめて、必ず兄弟の誰かからの送迎付き登下校。
「う……」
「次はないぞ、雪花」
「はーい」
***
「ううん、もう。みんな過保護だよー」
私は、弟の翔の部屋でゴロンと転がって背中を丸めた。
ご飯も済んで、歯も磨いて、お風呂も入って、後は寝るだけ。パジャマの雪花を、ベッドに腰をかけた翔が見下ろしてくる。
「雪花ちゃんがいくら言っても、いう事聞かないからだよ」
「でもさ、こんなに過保護なのうちぐらいだよ」
「うちはうち、そとはそと。あんまり言うこときかないと、分かってるよね?」
「わかってる! わかってるから」
翔は、こんな外見なのに結構過激。しかも怒ると怖い、のではなく愛情表現が過剰というか、過激になるのだ。
「わかればよろしい」
そう言って翔は雪花を後ろから抱きしめてくる。
くんっと鼻の頭を雪花の項に、こすりつけてくる。
「もう寝る?」
そう尋ねる声に頷く、とたんに温かいもの――柔らかい毛並みに包まれる。
茶色の薄い毛並み、雪花が頬を寄せるとくすぐったげに揺れるお腹、しっぽがぽんと雪花のお腹を何か言いたげに叩く。
弟の翔は、――豹になっていた。
雪花は大きな体をよじのぼり、翔の顔に頬を擦り寄せて耳を口に含んで舐める。
途端に彼は、お返しとばかりに雪花の頬から耳へと一舐め。
生暖かい感触だけど、気持ちがいい。雪花が声を立てて笑うと、翔の喉もご機嫌に鳴る。
「雪花ちゃんは、無防備すぎるの!」
どうしてなのか、豹の姿でも彼は日本語を発声できるのだ。喉が鳴っているようには見えるが、その大きな口からは発せられているようには見えない。
「――私も免許取りたいな」
大きく波打つ腹に顔を寄せる。その毛並みを撫でる。気持ちよさそうに喉が鳴る。
ちなみに、弟だけじゃない。兄達も姿を変えられるのだ。
「僕が送り迎えしてあげるからいいじゃん」
「そういうわけにもいかないよ」
一足先に運転免許を取った弟に、ダメだよと雪花は告げた。
「どうして?」
翔が顔を起こす。雪花の顔をじっと見てくる。ネコ科の瞳だ。
けれど、確かに雪花と同じ人の姿を取り、人の言葉を話す弟なのだ。
「だって翔ちゃんも自由にならなきゃ。せっかくの大学生だよ」
彼は同じく大学一年生。だけど、雪花とは大学が違う。
高校の時から、同じ大学がいいから合わせると翔がごねていたけど、彼のほうがダントツに偏差値が上で、志望学科も理系。文系の雪花とは異なる。
合わせるなんてそんなのもったいないと雪花も反論し、家族会議が何回も開かれた。
そして、同じ大学でも学部が違ってしまえば、キャンパスも棟も異なるから四六時中見守るなんて不可能、と兄弟間で意見が一致した結果、雪花が行くことになったのは女子大。
女子大が許された理由は、たったひとつ。つまり男を寄せ付けないため。
説明はなかったが、言わないというよりも当たり前だろうって雰囲気が家庭内にいつもあった。
「今更だし、雪花ちゃん以外に優先することはないよ」
翔は、笑みを含み、断言する。
彼だって同じ大学生だ。
もてるし、彼女が欲しいのじゃないかと思うけど、いつも先にそう言われてしまう。
翔とは半年しか年が離れていない、母が違うからだ。
弟と兄二人は同じ母親、雪花だけが母が違う。
「翔ちゃんにだってやりたいことあるでしょ」
「すでにやってる。そのうえで雪花ちゃんが一番」
弟の翔は、大学生だけどIT関係に強くてすでに起業している。自動車学校代は出世払いでと前借し、燐斗にすでに返している。
雪花の分も出してやる、と兄は言うが、返せるあてもないし、弟が自分で払っているのに姉の自分が出して貰いっぱなしでは、やっぱり情けない。
車がないと不便なこの地では、みんなが免許を持っているのが当たりまえ。大学の友人の大半は免許も車も持っているし、雪花もできれば取りたいが、今は困っていない。
そして、過保護な兄弟達も自分たちが送るからと、雪花に積極的に免許を勧めない。
「翔ちゃん。あんまり私を甘やかしたらだめだよ」
雪花が言うと、彼はぺろりと雪花の顔を舐めた。
「あのね。俺たちは、保護欲が超強いの。燐斗兄ちゃんから聞いてるでしょ?」
燐斗達の能力を雪花は知らない。
けれど、そういう種族らしい。
彼らは群れを作り、普通は集団で生活をする。けれど、父は雪花達を伴って、群れから離れた。
そして長兄の燐斗は、雪花達を養って家族だけで暮らしている。
「俺たちは群れのメスを、特に家族のメスをめっちゃ大事にするの。そういうもんなんだよ、わかるでしょ?」
他の見本がないからわからないけれど、この種族はそうなのだという。
Transfurまたは獣化、というのだろうか。
雪花にはよくわからない。
小説などの物語では、想像の産物として獣化というか、変身する種族がそう呼ばれていた。
弟は今、完全な豹かというと、そうでもない気もする。
人とは発声器官が異なるのに、人の言葉が話せる(ただし、喉や口からは聞こえてこない)。変身時に服がちぎれるわけでもないし、人間に戻ると姿を変える前と同じ服を着ている。
でも、食事は人間と同じようにできない。
箸ももてないし、大きな口ではコップも噛み砕いてしまう。
雪花は、自分の兄弟以外の人間は変身しないというのを知っている。それは物心ついたころに、最初に燐斗に教えられたからだ。絶対に家族以外に漏らしてはいけない、そうしたら家族でいられなくなると。
「私も変身できたらいいのに」
変身してやりたことはない、結構不便そうだと思う。
ただ小柄な翔ちゃんでさえ、大型のソファぐらいの大きさになるし、燐斗兄ちゃんに至ってはセミダブルのベッドぐらいにはなる。
(だから郊外の大きな家に住んでいるのだ)
きっと雪花も変身したら、それなりの大きな獣になれると思うのだ。
今のままじゃ、一人だけ弱くて、ずっと仲間になれない気がする。
「雪花ちゃんはそのままでいいの」
「でも……」
変身できないのは母親が違うせい?
「僕もよく知らないけど、変身できるメスは少ないって言うじゃん?」
兄いわく、この能力は殆どオスに引き継がれるもので、変身できるメスは群れの中でも殆どいないのだという。
というか、メスが生まれにくいのだとも聞いた。
いずれにしても、群れにいない自分たちにはわからない。
「雪花ちゃんは、雪花ちゃんのままでいいの」
長い尻尾がぽんと、雪花の腹をたたく。
それを掴むと、ビクッと翔の体が揺れる。毛がぞわっと逆立つ。
「雪花ちゃん、ソレ掴んじゃだめ!」
「蒼士兄ちゃんは平気なのに」
「敏感なの!」
雪花が声を立てて笑うと、翔が楽しげに喉を鳴らし腹の茶色い毛が波打つ。
そして、そのまま雪花は頭を毛並みに埋めた。
これが日常だった。