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皇后への手紙


「リンネに頼みたいことがある」


 そう切り出したのは千香士だ。


「頼み?」

「ああ。御裳捧持者のお前にしか頼めないことだ」

「どういうことなの」

「その前に俺のことを少しばかり話そうか」


 千香士は並んで座るリンネとヘンリーの顔を至極冷静な顔で見比べ、言葉を続けた。


「俺の名は伊呂波千香士。伊呂波家の長男で年の離れた弟と妹がいる。そして単刀直入に言うが、我が伊呂波家は菊香院にふさわしい家柄じゃないということは伝えておく」

「どういうこと?」

「散々汚い手を使って今の地位を手に入れた成金だからだ。建前はどうあれ、華族と財閥の子弟が集まる菊香院にはそぐわない」

「ふぅむ……ナリキン……ニューリッチってやつだね」

「ああそうだ。元は京都の小物問屋だったが、ご一新後に生糸でボロ儲けして財を成した。さらにここ十年は金のない華族の屋敷を格安で買い叩いたり、先祖伝来の宝を質草にとって売りさばくことを繰り返している。また同時に父、伊呂波小二郎は朝鮮に虎狩りに行ったり、貸切の列車に芸妓を何十人も乗せて東京から京都に繰り出したり、往来で芸者たちに裸踊りをさせたり、ありとあらゆる奇行の限りを尽くして目立とうとしているから、やんごとなき方々には死ぬほど嫌われている始末だ」

「はっ、裸踊り!?」


 我が耳を疑い、慌てて口を押さえたが伊呂波は特に気にしていない様子だった。むしろ不思議そうに首を傾げる。


「知らなかったのか?」


「うん、知らなかった……」


(だけどこれで有馬さまから彼が毛嫌いされている理由がわかったわ)


 複雑な思いにかられる。


「自分で言うのもなんだが、うちはしょっちゅう新聞沙汰になってるぞ」

「そうなんだ……。でもわたし新聞読まないんだよね。兄さまたちは読んでるかもしれないけど」


 母国からまとめて送られてくる英字新聞は見たことはあるが、言われてみれば日本の新聞には縁がなかった。


(にしても自分の父親がしょっちゅう新聞沙汰になってるってそんなことありえる? いやでも確かにそんな親を持っていたら千香士みたいに図太くなるのかも……って図太いなんて言っては失礼ね。鈍感にならざるをえないっていうことなのかもしれないし)


 リンネらしく真面目に考えている様子を見て、ヘンリーはふっと優しげに表情を緩め、リンネに問いかける。


「新聞沙汰になるくらいの有名人をリンネはずっと知らなかったの?」

「ああ、そうだったわ。千香士はいつから菊香院に通っているの? 先輩でもあらかたお顔くらいは知っていると思ってたんだけど」

「この春からだ」

「そうだったの……」


 そういえば春先、三年に一人転校生が来るとか来ないとか聞いた覚えがあったが、しょせん上級生だとそのまま忘れていたことを思い出した。


「そんな強烈な有名人の息子でよく菊香院に入れたね」


 と、ヘンリー。むしろ感心した様子である。確かに菊香院は官営の学校であるため、私立学校のように融通はきかないはずだった。


「伊呂波が金に物を言わせたに決まっているだろう。実際伊藤翁には相当貸しがあるとも言っていたしな」

「伊藤……ってまさか内閣総理大臣の?」


 無言でうなずく千香士に、ヘンリーとリンネは顔を見合わせた。

 伊藤博文は現在の内閣総理大臣である。過去二度総理大臣を経験し、現在三度めで政界の重鎮ともいえる存在ではあるが、陛下に咎められるほどの芸者好きでも有名だった。千香士の父、小二郎が伊藤翁と昵懇であるというのならその繋がりなのかもしれない。

 だがメイジの時代になり、かなり早い段階で女子教育の重要性を訴え、菊香院設立にも大きく関わっていることから、やはり只者ではないしまたリンネも無関係とも言えないのである。


「別の私学に通っていたのを上流階級に顔を売れとねじ込まれたんだ」

「でも実際は違う意味で顔は売れてるみたいだね」

「ハル」


 からかうような響きが気になりとっさに咎めてしまったリンネだが、ヘンリーは軽やかに声をあげて笑う。


「千香士は気にしてないでしょ」

「ああ。ハルの言う通りだ。むしろ有馬とやりあうくらいじゃどうにもならんということがわかったがな……」

「どういうこと?」


 千香士は組んでいた足を下ろし神妙な表情を作った。


「本題に戻ろう。それでリンネへの頼み事だ」


 美形だけれど傲岸不遜である彼から初めて感じる真摯な空気に、」リンネの背筋が伸びる。


「この手紙を皇后陛下に渡して欲しい」

「……はい?」


 差し出されたのは一通の手紙。当然封はされていて中身を知ることはできない。


「皇后さまへお手紙を渡すって……いくらなんでも無理に決まってるじゃない」

「だがリンネはメイジ宮殿に出入りしてるだろう」

「いや、するけど、してるけどね、皇后さまがわたしたちの前にお姿を現すことなんてほとんどないわよ。普段は侍従詰所がある御学問所の奥の、陛下の居住区からさらに奥のお内儀にいらっしゃるんだもの」


 陛下のプライベートスペースであるお内儀は、陛下の居住区と皇后の居住区に分かれ廊下で繋がっている。寝室を中心とした寝殿造りだ。そしてリンネが出仕する御学問所は、そのご内儀とメイジ宮殿の間にある二階建ての小さな建物で、やはり渡り廊下で繋がっていた。

 ちなみに御学問所の一階の南向きの部屋がメイジ帝の執務室である、表御座所おもてござしょでもあった。


「同じ建物にいらっしゃるはずの陛下ですらお顔を見たことがないのに、皇后さまなんてそれこそなにか儀式でもない限り……」


 無言で自分を見つめる千香士の重い眼差しに一瞬言葉に詰まる。


 まさか……。


「最悪儀式当日にって渡せってこと!?」

「そうだ」


 これは想定した問いなのだろう、はっきりと答えられてしまった。


「そんな……」


(そんなこと出来るの?)


 しばらく無言で見つめ合うリンネと千香士だったが、


「とりあえずこれは預かるよ」


 ヘンリーが千香士の手紙を受け取った。


 ヘンリーの手の中にある一通の手紙。いったい何がしたためられているのだろうか。菊香院に相応しくない成金だと自嘲する千香士が、皇后にいったい何を伝えたいというのか。

 激しく問い詰めたい衝動に駆られたが、頼み事のおおごとさに何を言っていいかもわからなくなっていた。


「無理は承知だ。だがどうしても皇后陛下に読んでいただきたいのだ。手段は問わない……」


 千香士は椅子から立ち上がり、頭をさげる。さらさらの黒髪が肩からこぼれ落ちた。


「勝手だとは思うが、頼む」

「千香士……」


 生まれてこのかた人に頭を下げたことがなさそうな千香士にこう下手に出られると戸惑ってしまう。


 それほどの覚悟なのか……。

 千香士は車を出すというのを断り、一人アシュレイ邸を後にした。


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