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俺のことは千香士と呼べ


「随分長居してしまったな」


 島津は壁にかかっている時計に視線をやった。


「伊呂波、お前は」

「俺には構うな」

「わかったわかった」


 ピシャリと拒絶する伊呂波は取りつくしまもない。島津は苦笑し、それからソファーに座ったままの紅子姫に近づいた。


「白河嬢、ウチの車が待たせてもらっている。有馬と一緒に屋敷まで送ろう」

「でも……」


 紅子姫はなぜがリンネに目線を送る。何か言いたいことがあるのかもしれない。


「紅子姫?」

「……いえ、なんでも。ではお言葉に甘えますわ」


 三人を乗せた車が見えなくなるギリギリまで社交的な笑顔を浮かべていたリンネだが、ドアを閉めた次の瞬間、深いため息とともに壁にぴったりともたれかかっていた。一気に力が抜けて、まっすぐ立っていられなかったのだ。

 堂々と推理し見つけたような態度ではあったが、内心は最初から最後まで心臓が口から飛び出しそうでドキドキしていた。


 もし懐中時計が見つからなかったら、完全に伊呂波が犯人として扱われていたかもしれない。そしてこの場を設けた自分にもその責任の一端は降りかかってきたかもしれない。

 人は人を自分の見たいように見る。そんな人間だと決めつけられれば、なんの根拠がなくてもそう信じる人は一定数いる。いくら否定しても逃れられない。


 想像しただけでゾッとした。


(ほんと懐中時計が思うところにあってよかった……よかったーっ!)


 今更ながらしみじみと喜びをかみしめていると、お下げ髪を揺らしながらイトが駆け寄ってきた。


「残られているお客さまには何かつまめるものでもお出ししたほうがいいでしょうか」

「ううん、いらないわ。必要だったらまた呼ぶから」

「かしこまりました」


(そうだ。最大の難関が残ってるんだった……。)


 ぱちんと頬を叩きサロンへと戻ると、伊呂波が一人用のソファーに座り頰杖をついたまま暖炉の炎を眺めていた。


(きれい……)


 その様子があまりにも絵になるのでつい立ち止まってマジマジと観察してしまった。

 通った鼻梁にふっくらとした赤い唇。まばたきをするたびに頬に落ちる影が揺れる。額を彼の前に置けばどんな大邸宅でも飾れる素晴らしい絵になるだろう。口と態度は悪いが、その花の如きかんばせは比類なきもののように思われた。


(あと十年もすればまたはっとする美丈夫になりそう)


「伊呂波さま、あの……」

「俺を伊呂波と呼ぶな」


 炎を見つめる伊呂波の声は静かで凛とした響きがあった。


「えっ!?」


 いきなり名前を呼ぶなとはどういうことか。

 ばっさりと拒絶されてリンネは一瞬口ごもってしまったが、勇気を奮い起こして問いかける。


「そんな嫌われるようなこと、しましたか?」


 本人は全くそんなことを望んでいなかったのは百も承知だが、彼の濡れ衣を晴らしたのはリンネだ。確かに感謝するような人ではなさそうだとは思っていたが、まさか嫌われることは想定していなかった。

 両親や兄たちに愛されていても、言葉にできない、どこかぬぐいきれない不安を常に抱き続けているリンネからしたら、人から嫌われるということはとても恐ろしいことだった。

 恵まれた生活を送っているはずなのに、なんとなく収まりが悪いような、納得できないと思っていることを見透かされて、糾弾する人が出てくるのが怖かった。自分のせいとわかってきても向き合いたくなかった。たとえそれが親しい人でなくても。ただ同じ学園に通う生徒というだけでも嫌われたくない。嫌われるくらいならいっそ無視されたほうがマシだった。

 そんな緊張もあり、つい声がピンと張り詰める。

 そこでようやく伊呂波は顔を上げ、唇を引き締めるリンネを見上げた。


「なぜ泣きそうな顔をしている」

「べっ、別にっ……」


 指摘されて頬が熱を持った。慌てて視線を逸らしたが、


「ふぅん?」


 伊呂波は赤い唇を三日月のようにして微笑んだ。


「濡れると金色に光るんだな」

「え?」

「お前の目だ」


 すらりと、まるで舞でも舞うように腕を伸ばす伊呂波。白く細い指がリンネの頬の上を滑った。


「泣く女は鬱陶しくて嫌いだが、その瞳が見られるのなら悪くない」


『泣く女は鬱陶しくて嫌い』というのはわからないでもない。だが自分の涙に濡れた目なら見たいと言われるのは、ずいぶん馬鹿にされた気がした。


「わたしはおもちゃじゃないです! そんな、珍しいものみたいに言わないでくださいっ!」


(なんなの、この人特別意地悪だ!)


 一歩下がってゴシゴシとまぶたをこするリンネ。伊呂波はそんな抗議など気にした様子もなく足を組み替え艶然と微笑んだ。


「俺のことは千香士ちかしと呼べ」

「はいっ!?」

「伊呂波と呼ぶな。いいな?」

「……はい」


 怒っていたのは自分のはずなのだが、まさに暖簾に腕押し。怒りが長続きしないのである。

 強く出られると断れない自分を呪うリンネだったが、千香士はしぶじぶ顔のリンネを見ても特に気にならないようで、優雅な手つきでティーカップを持ち上げた。


「それにしても先ほどの推理、なかなかだったな。有馬の悔しそうな顔は最高に面白かった」

「はぁ……」


 言葉につられてうなずいてはいるが、結構ひどいことを言っている。


(あの時どうでも良さそうな顔してたのになんなのこの人……すごく変。育ちというよりも生まれ持っての性格で偉そうだわ。白雪お兄様に通じるものがある気がする)


 アシュレイ家のライオンである長兄の端正な顔が自然と思い浮かぶが、千香士は白雪の半分の年でこうなのだから、相当傲岸不遜であろう。


(有馬さまが毛嫌いされているのはこういう難ありな性格のせいだわ、きっと)


 気を取り直し、リンネは千香士の正面のソファーに腰を下ろした。


「本題に入りましょう。わざわざ好きでもないお茶会に来て、こうやって、一人残られてる。わたし個人にお話があるんですよね。なんですか?」

「聡いな。話が早い」


 ふっと眼を細める千香士に、リンネは首を横に振った。


「あの夜のことなら誰にも言いませんよ。むしろ今日初めて千香士さんにお会いして、」

「千香士。あと敬語はやめろ。気持ち悪い」

「気持ち悪い?」

「そういうのは学院と家の中だけで腹いっぱいだ」


 ぎろりと睨まれてそれ以上なにも言えなくなる。目力が凄いのだ。とりあえず気を使うなということだろうと解釈することにした。


「あのね、今日、千香士に会って初めて、あの夜の女の子だってわかったくらいなの。だから口止めが何かわからないけど、正体がわかっても誰にもあなたのことは何にも言わない」

「……」

「そういうことじゃなくて?」

「そうだな」

「じゃあ、なんなの……」


 問いかけの答えがすぐに返ってこない。千香士の沈黙が怖い。


(というかろくなことにならない気がする!)


 そんなリンネの不安は、


「ただいまー!!」


 突然サロンに飛び込んできたヘンリーによって吹き飛ばされてしまった。


「ハル!」

「……っと、お客様でしたか。失礼しました」


 ヘンリーは被っていたハンチングをうやうやしい様子で取り、千香士に一礼する。けれど次の瞬間ハッとしたように顔を上げ、そのブルーの瞳を丸くした。


「君は……」


 まさに自分も同じ思いをしたばかりだから、彼の驚きが手に取るようにわかった。


(そうよね驚いちゃうよね。しかもあんなに綺麗なのに男の子なんだもんね!)


「そうなのよ、ハル……彼は、」


 少しばかり自慢げに千香士を紹介しようとしたところで、


「まさかここで会えるとはね」


 にっこりしながら右手を差し出すヘンリー。


(はい?)


 想像もしていなかった展開にリンネの大きな瞳がまん丸になる。


「改めて挨拶させてもらうよ。ヘンリー・マスグレイヴだ。ハルと呼んでほしい。で、僕は君を千香士と呼んでいいかな?」

「ああ。よろしくハル」


 千香士はソファーから立ち上がり、儀礼的ではあるが握手を交わす。リンネは思わず叫んでいた。


「なんでハルが千香士のこと知ってるの!?」

「まぁ、いろいろ」


 パチリとウインク。


「いろいろってなによー!」


 唖然とするリンネだが、やはりヘンリーは独自にあの美女について調べていたようだ。


「あとでね」


 耳元に優しくささやかれ一瞬ほだされそうになったが、協力しなかった自分のことは棚に上げなんとなく面白くない。


(本当に教えてくれるんでしょうね!)


 仕方なくヘンリーと同じように千香士に改めて向かい合う。


「で、リンネにどんな話をしたのかな」

「まだ何も。これからだ」

「だったら僕も同席するけどいいよね」

「嫌とは言わせないようだが」

「当たり前でしょ。僕はリンネのナイトだよ」


 いつもは穏やかなヘンリーの声に一瞬力がこもったように聞こえたのはなぜだろうか。

 不思議に思いヘンリーの横顔を見つめるがなにも読み取ることはできない。

 ハルのことなら大抵のことは知っている、理解していると思っていたのに、ここ最近少しずつずれているような気がする。


「それは勇ましいことだ」


 口調はあくまで穏やかながら、なぜかお互い目が笑っていないように見えるヘンリーと千香士。


(一体なんだろう……)


 リンネは首をかしげながらもイトを呼び、ヘンリーのために新しい紅茶を用意させた。



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