消えた銀時計
いったいどこの誰なの、紅子姫の意中の人って……。
紅子姫のある意味衝撃の告白から数日後、アシュレイ邸には紅子に頼まれて招待した、菊香院の制服姿の男女合わせて二十人くらいの生徒が溢れかえっていた。
近いうちにお茶会でもと思っていたが、まさかこんな形になろうとは……。
突然だったのでばあやにはしこたま小言を言われたが、なだめすかして準備をしてもらった。
銀のトレイを持って歩き回るイトたちメイドと連携しつつ、ティーサロンの中をお菓子が足らなくなっていないか、お茶が冷めていないか、不備がないか確認する。同時に、今回の目的である紅子姫のお相手を探していた。
話によると紅子姫の意中の君は、同じ菊香院のひとつ上の三年生らしい。けれど恥ずかしがって名前までは教えてくれなかった。
ただ同じ場で過ごせたら、一度でいい、万が一お言葉を交わせたらもう思い残すことはないと、涙ながらに語られて、リンネはこのお茶会の場を設けることを引き受けたのだ。
そして当の紅子姫は同級生の女子たち四、五人に囲まれて談笑している。
(もうっ、紅子姫ったら奥ゆかしいんだから……。同じ空気が吸えるだけじゃあ菊香院とそう変わらないわ。せめてお話するくらいお手伝いしたい)
おせっかいついでだ。
彼女の視線の先を探してはみたが、これといってピンとくる相手がいない。自分に迫る勢いでかの君のことを語った紅子姫は、今は仮面をかぶっているということだろう。
(いったい誰なの?)
紺の詰襟姿の男子生徒を一人一人確認する。
先輩の、しかも男子生徒となると顔と名前が一致する程度なので、しっかりと観察する必要があった。
(あちらの輪の中心にいらっしゃるのは三年の有馬さま、こっちで盛り上がっていらっしゃるのは同じく三年の島津さま……。この場でリーダーシップをとられているのはあのお二人だ。頭が良くて飛び抜けて会話の楽しい有馬さまに、精悍でそれでいて人好きのする島津さま。それぞれが輪の中心になっている。紅子姫ほどの女性が憧れる人だもの。きっとどちらかに違いない)
通常の手順であればきちんと招待状を作ってリンネが手渡しして回るのだが、今回は紅子姫がその役目を買って出た。大急ぎで招待状を作らせ「アシュレイ邸の冬の薔薇を見ましょう」と誘ったらしい。
そしてアシュレイ邸の薔薇は温室からサロンにいくつも置いてある陶磁器の花瓶にたっぷりといけられ、その美しさで生徒たちに話題を提供していた。
(花瓶の薔薇も悪くないけど、私個人としては温室でそのままの姿を見てもらいたかったけど……って、それどころじゃないわ。紅子姫のかの君を探さなきゃ……!)
だがリンネの焦りをよそに時間は瞬く間に過ぎ去っていく。
(うーん。結局誰だかわからなかったけど、紅子姫、話せたのかな?)
同じ輪の中にいた紅子姫に視線を向けると同時に、クラスメイトが無邪気に問いかけてきた。
「そういえば今日はヘンリーさまはいらっしゃらないの?」
「あ、うん。出かけてるみたい」
彼女はリンネ同様御裳捧持者に選ばれている。先週ヘンリーに会っているので名前を出したのだろう。
「残念。お話ししたかったわ。今度のリハーサルには来られるかしら」
「その予定よ」
一応リンネのボディーガードなのだから、ついて来て来るはずだ。
(多分……だけど)
「ヘンリーさまってどんな方?」
同じ輪の中にいた紅子姫が優雅にティーカップを口に運びながら尋ねる。
「父親同士が親友なの。ハルのお父様は貿易商で世界中を飛び回っているわ。ハルもそれについて回って、年に数回、日本にやってくるの。ちょっと変わったところもあるけど、好奇心が旺盛で、いつもわたしは振り回されて……。そんな、幼なじみで、兄妹みたいなもの、かな」
「あんな素敵な幼なじみがいるなんて羨ましい! わたくしも振り回されたいわ!」
「そんなに素敵なの?」
「素敵だったわよ。オリエンタルっていうのかしら? 巻き毛にサファイアをはめ込んだような美しい瞳をしていていらっしゃるの。褐色の肌に白いシャツが映えて……」
リンネの目の前で女生徒たちはきゃあきゃあと黄色い声をあげる。リンネは適当に相槌を打ちながら目を伏せる。
兄弟みたいなもの……か。
(わたしったら、ついこないだハルになんだかんだと決め付けられるのは嫌だなんて言ったくせに。こういうときはわたしがハルをこんな人間なんだって決め付けている。ずるいんだ)
窓の外に視線をやると、空は紺一色に染まりつつあった。
(結局紅子姫の想い人もわからないし。こんなときハルがいたらなぁ……ハルと話してると意外なことに気づいたりするのに。いったい毎日どこに遊びに行っているんだろう)
あの日から、ヘンリーはアシュレイ邸を留守がちになった。一応夜は戻ってくるのだが、どこに行っているのか話してもくれない。話してくれといえば話してくれるのかもしれないが、自分から歩み寄るのは恥ずかしいというか、情けないというか、ためらわれた。
(ハルのバカ……)
彼はなにも悪くないとわかっている、八つ当たりだ。
(いつまでもこんな風に拗ねてるのは精神衛生上よくないわ。わたしからちゃんと謝らなくっちゃ……。変にモヤモヤしてたけどやっぱり今まで通りハルと仲良くしたい。彼は大事な幼なじみなのだから)
そう決意すると胸がスッと軽くなった。
けれど次の瞬間、和やかな空気を破る、ガシャン、と大きな音がした。
「きゃあっ!」
音に驚いた女生徒たちが悲鳴をあげる。
「どうしたの?」
リンネは椅子から立ち上がり、ざわつく生徒たちをかき分け音のした方へと向かう。
するとそこには有馬と、さらに向き合う形で一人の少年が立っていた。少年の足元にはグラスのかけらが散らばっている。そして彼はらんらんと輝く瞳で有馬を睨みつけたまま、鋭く言い放った。
「謝れ」
「なっ……謝るのはそっちだろう! 水をかけるなんてあり得ないぞ!」
「えっ……!?」
リンネは息を飲む。なんと有馬の紺色の制服の色が変わっている。
目の前の少年が有馬にコップの水を浴びせた?
「なにがあったの?」
そばにいた女子生徒にこっそり囁くと、
「内容はわからないけど言い合いをしていたみたいなの。で、彼が有馬さまに水をかけた後、持っていたグラスを床に落として叩き割ったみたい……」
「ええ〜……」
思わず情けない声が出てしまった。
菊香院にそんな無礼を働く生徒がいるとは思わなかった。だがお茶会のホステス役であるリンネですら、その非礼をすぐに責めることができずにいた。少年の怒気はただならぬもので、見ているものを圧倒する何かがあったのだ。
透き通るほど白い顔。濃くて長いまつげに取り囲まれた切れ長の瞳。細く通った鼻梁。赤い唇。肩につくほどの黒髪はまっすぐて美しい。背筋はピンと伸びて威厳すらある。大層な美貌だが見知らぬ上級生だ。
恐ろしく目立つはずなのに今まで気がつかなかった。遅れてきたのだろうか。
でもあの彼、どこかで見たような……。
見た……えっ……。
「っ……」
悲鳴を上げかけて飲み込んだ。
まさかまさかまさか!!
何度も瞬きをして目をこらす。
「ふんっ、泥棒を泥棒と言ってなにが悪いっ……!」
有馬は手のひらで制服の水滴を払いながら少年に詰め寄った。
「まこと卑しい出自のくせに図々しい! 僕から盗んだ時計を置いてすぐにここから出ていけ。菊香院からもな!」
なんだか色々とややこしいことになっているようだ。
「有馬さまどういうことですか」
とりあえずリンネはこの場の女主人として二人の間に仲裁に入る。かなり物騒な言葉も出ているし、なにより謎の美少年のことが気になった。
間違いない。彼はあの「美少女」だ。先週のメイジ宮殿の帰りに通りで会ったあの美少女だ。あの時は闇に紛れてよくわからなかったが、本人を目の前にして間違えるはずがないし、まずあんな美しい人がほいほいいるはずもない。
(やっぱり菊香院の生徒だったんだ。まさか男だとは思わなかったけど……。いやいや、こうやって明るいところで見ても信じられないけど……。わたしの百倍は美人だわ)
「……リンネ君。君ともあろうものがこんな男に招待状を出すとはね」
「はぁ……」
「ったく……あ、ハンカチがないな……」
胸元に手を入れかけてやれやれとため息をつく有馬にハンカチを差し出した。
「どうぞ」
「すまない」
有馬はリンネが差し出したハンカチを受け取り、制服を拭う。
一方美少年は何らやましいことはないと堂々としたものだ。腕を組みきりっとした表情で顔を上げていた。
こんな男……と言われても、リストを作って招待状を送ったのは紅子姫だし、さらにあえて言うなら赤の他人を悪し様に罵る有馬の姿は残念で仕方ない。
(さっきまで素敵な人だと思ってたのになんだかがっかりだわ。紅子姫の想い人はこの人ではなさそう)
だが、こうなっては場を収めるのはリンネの役目だ。改めて問うた。
「時計がどうのって言われてましたけど」
「ああそうだよ。僕の懐中時計がこいつに盗まれたんだ。あれはね、スミスのスーパー・クウォリティーのクロノグラフ懐中時計なんだ。一級品だよ。銀無垢ケースを纏い内側は鏡ばりになっていて、ストップウォッチ機能を持つ懐中時計の高級品。ごく一部の、特別な、上流階級の特別な顧客にしか販売されない逸品なんだ」
スミスとはいったい誰のことなんだろう。それよりも特別だとか高級品だとか並べられると「持ち歩かずにしまっておいたほうがいいんじゃないの?」と思うリンネである。つい、「そんな貴重なものを持ち歩いたりしたらダメですよ……」と、ポロリ本音をこぼしていた。
「なっ……」
頬をかっと染める有馬と、
「ふっ……」
それを見て鼻で笑う美少年。
(しまった、つい本音が!)
リンネは慌てて話題を変えた。
「えーっと、盗られたと言うのなら返して貰えばいかがです?」
「だから俺は盗ってなどいないと言っている」
リンネの言葉を真っ向から否定したのは美少年だ。
(ううむ……なるほど。そういうことか……)
それまで和気藹々としていたはずのサロンは水を打ったように静まり返っている。それも当然だろう。みな菊香院の生徒で基本顔見知りだ。現状が好ましくないことは誰の目にも明らかだ。
「有馬、少し冷静になるべきじゃないか?」
だがそこですかさず会話に入ってきたのは島津だ。ツカツカと輪の中に入ってきて、例の人好きのする笑顔を浮かべる。
「ここはアシュレイ嬢の屋敷だろう。せっかく楽しくやってたんだ。客人同士で盗った盗られたなんて彼女に取っても不名誉なことだぜ。だからここは当事者だけ残ることにして、解散しないか」
島津の一言でサロンの空気が明るくなる。明らかにみなホッとした表情を浮かべている。
「確かにな……ここがどこか失念していた。お前の言う通りだ。頭に血が上っていたよ。リンネくん、この通り謝罪するよ、申し訳ない」
有馬は島津の言葉に納得したようにうなずき、それから真面目にリンネに頭を下げた。
「いえ、とんでもないです、有馬さま。どうぞ頭をあげてください」
(そしてありがとうございます、島津さま!)
いったん解散と、同じことを言っても簡単に有馬に受け入れられたかわからない。級友として、良きライバルでもある島津がリンネにかこつけて解散させることを提案してくれたおかげだろう。
思わず目がキラキラしてしまうのが自分でもわかった。駆け寄って手を取り感謝したいくらいだった。
(島津……確か薙久さまとおっしゃったはず。あっ、もしかして島津さまが紅子姫の想い人? 有馬さまに負けず劣らず、いやそれ以上にハンサムだし……。ありうるわ)
すらりと背が高く、姿勢が美しい。短く切りそろえてはいるが、ウェーブのかかった髪は栗色で、同じ色の切れ長で大きな瞳はシャンデリアの光を反射しキラキラと輝いている。精悍な顔立ちのなかにどこか甘さを含んだ、実に魅力的な風貌だ。自分に向けられた視線に気づくと、彼は軽く目を細めてうなずく。
(解散させろって合図だ!)
リンネは慌ててイトを呼び、お客様のお見送りの準備をさせることにした。