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紅子姫の告白


 菊香院は帝が京都から東京にお移りになられたのち、良家の子息、令嬢たちを世界に通じる人材に育てることを目的にした、宮内省管轄の官立学校である。

 生徒の大半は皇族、華族、士族などの貴族であり、または莫大な富を持つ商人の子供たちである。初等部、中等部は同じ敷地内に、高等部、大学は青山にある。敷地は全て男女共学であるが、学び舎は分かれており、日本の早急な国際化を見込んで教師の半分は外国人だった。



「リンネさま、ごきげんよう」

「ごきげんよう、紅子姫……」


 教室に入ってくると同時に机に突っ伏してしまったリンネに声をかけてきたのは、白河紅子しらかわべにこ。徳川御三家、紀州藩に連なる世が世なら本物の姫君だ。去年同じクラスになってからリンネを好ましく思うようになったらしく、なにかとかまってくる。

 親しくなり始めた当初は、周囲の人間から姫が毛色の変わった人形を好んでいるのだろうと若干揶揄を含んだ陰口を叩かれもしたが、当人はどこ吹く風。堂々としたものであった。


「お顔の色が悪いわ。どうかして?」

「ちょっと、夢見が悪かったみたいで……」


 幼馴染のことでグダグダ気にしているとも言えず誤魔化すと、紅子姫は身をかがめ、ほっそりした白魚のような指先で、リンネの目の下に触れ、そしてすぐに離れる。


「それだけかしら。心配だわ。あなたの綺麗な瞳がくすんで見えるもの」

「き、きれいって、そんな……紅子姫のほうが何もかもずっと綺麗です」


 妙に恥ずかしかったが、心配してくれるクラスメイトの顔を見返す。

 紅子姫はリンネの理想の女の子像にぴったりなのだ。


(わたしだって紅子姫の十分の一でも綺麗に生まれたかったわ)


 白い顔に切れ長で黒目がちの大きな目。紅をさしたような小さな唇はひな人形のよう。たっぷりと豊かな黒髪を庇髪ひさしがみに結いあげ、今朝は水色の着物地のリボンをつけている。リンネが似合わないと思っている葡萄茶色えびちゃいろ行燈袴あんどんばかま姿も凛として美しい。菊香院の中等部でも一、二を争う美少女であり、生徒たちの憧れの存在だ。


「そんなこと」


 リンネの言葉を受けて紅子姫はくすりと微笑み、それから自然な様子で話題を変えた。


「あとでリンネさまに大事なお話があるの。聞いてくださる?」

「ええ、勿論」


 そもそも具合が悪そうに見えたのはただ落ち込んでいただけなので、リンネは素直にうなずいた。


(でも、大事なお話ってなんだろう。わたしが紅子姫以上にできることなんて思いもつかないのだけれど)


 お昼休み、紅子姫と連れ立って中庭に出る。二人とも手にはお弁当を包んだ風呂敷を持っている。

 外で食べるなんてはしたないと嫌がる子もいるけれど、休みの時間くらい外に出たいと思っているリンネは、ちょくちょく中庭でお弁当を食べている。

 小心者のくせにそういうところは大胆だとハルには笑われたが、そのことを知った紅子姫も、なぜか「わたくしも外で食べてみたいわ」と時折付いてくることがあった。少し変わったお姫様なのだ。


「紅子姫、温室に行きましょう」

「ええ」


 中等部の女子校舎からすぐそばにある円筒状の温室は薔薇を育てている。しかもほとんどがアシュレイ家から株分けされたものであるので、外注の庭師とはまた別に、リンネは温室の鍵を渡された唯一の生徒でもあった。要するにここはリンネのための贅沢な空間というわけだ。


「お座りください」


 ポケットからハンカチを取り出して温室の中のベンチの上に敷き、自分はその横に腰を下ろす。特別ベンチが汚れているわけではなかったが、兄たちはリンネを公園のベンチなどに座らせるときはいつもこうするのでそれに習っただけだ。


「ありがとう」


 紅子姫はニッコリと笑いレースの白いハンカチの上に腰を下ろす。衣擦れの音もしない優雅な所作に、さすがお姫様だなぁと感心していると、


「わたくしの結婚相手もこんなことしてくれるかしら……きっと無理ね」


 あまり感情を表に出さない姫の柳眉がかすかに震えたように見えた。


(紅子姫、悲しそう? いや、それ以前に、いま、結婚って!)


「結婚っ?」


 驚いて大きな声が出てしまった。慌てて口を押さえたが、紅子姫は咎めることもなく小さくうなずいた。


「再来年の春ですわ」

「おめでとうございます、紅子姫」


 級友の結婚話なのだからとお祝いを述べてみたが、その人形のような横顔に薄く張り付いた不穏な気配が気になった。


「……もしかして気が進まないんですか?」


 思い切って尋ねてみると、彼女の肩がぴくりと揺れた。どうやら図星らしい。けれど紅子姫はそうだと肯定しなかった。当然だろう。年頃の女にとって結婚は義務だ。まして紅子姫ほどの身分であればなおのこと。

 菊香院の同級生にも何人かお嫁入りを決めて学院を辞めていく子がいた。 十四、五歳で結婚を決めるなんて早すぎると思うのは、リンネの家庭が特別だからだ。何しろ三十を過ぎた長兄ですら独身なのだから。

 実際のところ両親がどう考えているのかはわからないが、リンネ自身は高等部まで進学したいと思っていたし、誰にも話したことはないけれど、いつか長兄のように英国に留学できたらと夢のようなことを考えている。


(女の身分で留学なんておかしいって思われるかもしれないけど……。白雪しらゆき兄さまならきっと面白がってくれそう)


 先週英国から届いた兄の手紙に『遊びに来るといい』と書きつけられていたことを思い出した。英国まで船で四十五日かかると思わせない気軽さだったから、リンネは笑ったものだ。


「……ごめんなさい。わたしから大事な話があると申し出ていながら、ぐずぐずしてしまって」

「紅子姫」


 リンネの沈黙を非難と取ったわけではなく、紅子姫は自分に苛立ちを覚えているようだ。


(紅子姫のこんな態度見たことがない。きっとよっぽどのことなんだろう)


「気にしないでください。ここは二人きりですから……それにわたしにできることがあるならぜひ話してください。力になりたいんです」


 その言葉を聞いて、紅子姫は一瞬ホッとしたように表情を緩め、そして背筋を伸ばした。リンネも息を殺して彼女の告白を待つ。


「お相手は清華家に連なる久我家の方。もう何年も前から打診されていたのだけれど、正式に宮内省から許可が降り決定いたしました。知らない相手ではないし、白河家の娘として、いつかこんな日が来るのだろうと理解していたつもりです。だけど……だけど」


 膝の上で握り締められた紅子姫の指先が赤くなっている。


「嫁ぐのが再来年と決まった今、どうしても一つだけ、後悔があるのです」

「後悔?」

「ええ」


 紅子姫はうなずき、それから隣のリンネにその花のような顔を近づけた。そしてその上品な手でリンネの手を握りしめた。


「こんなことあなたにしかお願いできないんですわ」


 熱っぽく輝く瞳はキラキラと光って美しい。その美しさは女同士であっても、息を飲むような情熱をはらみ、気を緩めたら即座に取り込まれそうだ。


「べっ、紅子姫……?」


(も……もしかして紅子姫、ま、まさかわたしのこと!! わたしに頼みたいことって! まさか! まさか、エスッ! しかも、ホンモノ!)


 仰け反りながら、それでも真剣な面持ちで迫ってくる彼女を正面から見つめ返す。

 菊香院の女生徒たちの間でエスと呼ばれる精神的絆の関係がある。同級生や上級生とsisterと呼ばれる擬似姉妹になるのだ。異性と出会う前の擬似恋愛とも言われていたけれど、たいていの生徒はごっこ遊びとして楽しんでいる。

 リンネはリンネで男兄弟しかいないため、お姉さまという存在に当然憧れもしたが、容姿だけは華やかなリンネに近づいてきて地味な中身に勝手にがっかりされることが多々あったので、そういったお遊びにはのらないことにしたのだが……。

 紅子姫は上級生にもたいそう人気があるので、とっくに他の誰かとそういう関係を持っていると思っていた。


(ていうか、わたしも紅子姫のことは好きだけど! だけどそういうんじゃないんだけど……。でも、でも、できる限りの事はしてあげたいって思うし! えーい、ままよ!)


「どうぞはっきり言ってください、紅子姫!」


 なんだって受け止めてみせると意気込んで力強く叫んだリンネに呼応するよう紅子姫も叫んでいた。


「どうぞ、紅子のクピードーになってくださいまし!」

「クピードー……?」


(エスじゃなくって?)


 紅子姫の言葉が理解できず首をかしげる。


 クピードー……クピードー……。


「えっ、クピードーって愛の天使の?」


 弓矢を持ち、背中に羽の生えた天使の姿がようやく頭に思い浮かんだ。


「一度だけでいいんですわ、かの君との思い出が欲しいんですわ。その機会をリンネさまに設けていただきたいたいの」

「えっ、えええーっ!!!」



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