素直になれない朝
翌朝身支度を整え食堂に向かうと、イツキが一人楕円形のテーブルで煎茶を飲んでいた。そばでメイドが食器を片付けている。食事が終わったところらしい。いつまでも食卓にダラダラしているような兄ではないので、一人の食事になるかと一瞬寂しく思ったが、イツキはリンネの姿を見てメイドに煎茶をもう一杯と合図を送る。
どうやらお茶一杯の時間、リンネの朝食に付き合ってくれるようだ。
(兄さま、優しさがわかりにくいんだから)
一糸乱れぬ軍服姿を眩しく見つめながら、リンネはきちんと挨拶をする。
「おはようございます、兄さま」
「うむ。おはようリンネ」
「父さまと母さまは?」
忙しい両親に会えるのは朝くらいだ。両親もそれをわかっていて朝食の時間は食堂に集まるようになっている。
「深夜、伯爵から使いが来た。どうにも貴族たちは父上母上に頼りすぎであるな」
真面目な兄はさらに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
聞けば両親は昨晩は井上伯爵邸での晩餐会だったらしい。どうしてもと頼まれて、そのまま宿泊の運びになったようだ。
エド幕府からメイジ帝の世になり、日本は開かれた国を目指し奮闘している。
だがどうしても圧倒的に経験値が足りず、外交でも他の先進国に遅れを取っている。そんな時頼りにされるのがエド末期から国交のある英国であり、日本人を妻にした大使なのだ。だからこれもまた大使夫妻の大事な仕事だとわかってはいるが、両親とゆっくり話をすることもできないこの状況は少し寂しくもあった。
「リンネ」
黙り込んだ妹を気遣うようにイツキが名前を呼ぶ。その声にリンネはハッとして笑顔を作った。
(でもわたしには兄さまたちがいるし。ハルもいるもの。寂しくなんかない)
そこでふと昨晩の不思議な美少女のことを思い出した。
あの時は兄さまの心配のしすぎだと思いはしたが、あれはメイジ宮殿の近くに出没した不審者だったと思えば、報告した方が良いのかもしれないのではないか。
(でもどうしよう。でも下手に報告して、結果やんごとない姫君の名誉を傷つけるようなことになったら、かえって兄さまに迷惑をかけてしまうかも……)
侍従武官という立場は難しい。何がどう転んでメイジ帝の覚えが悪くなるかわからない。結局何一つはっきりしたことは言えないのだ。リンネは話すのをやめることにした。
「ところで花緒李兄さまは?」
メイドにいつものブレックファーストを頼み、帝大に通う三兄の名を出すと、
「カオリ……あのバカにつける薬はないな」
次兄の深い眉の間のシワが渓谷のように深くなる。
「なにかあったの?」
「いつもの夜遊びだ。昨晩から帰っておらん。こんな時くらい毎日家にいるべきであるがな」
現在二十歳になる三兄のカオリは帝大の分科大学である医科大学に通う学生なのだが『発明』という名の怪しげな趣味に没頭しており、不在がちだった。
ちなみに彼の『発明』はたいてい的はずれなもので、例えばリンネが幼い頃などは『突然歌いだす目覚まし市松人形』を作成、クリスマスプレゼントとして内緒で枕元に置き、目覚めたリンネを大泣きさせ、同時に兄を激怒させた。
万事が万事この調子で、本人的には妹を喜ばせようと至って真面目に作成した贈り物のはずなのだが、たいていが空回りなのである。
(まぁ、確かに全然家に帰ってこないし見た目もチャラチャラふにゃふにゃしてるけど……。それでもわたしはカオリ兄さまの『発明』好きだわ)
母親によく似た、人形のように優しげで美しい兄の顔を思い浮かべる。
身なりさえきちんとしていれば誰の目にも明らかな貴公子に違いないのに、着るものにも構わずいつも着古したシャツと袴姿で、同好の士とつるんでばかりだ。
ちなみに最近発明した品だとプレゼントされたのは書いた文字が消えるという万年筆で、見えなくなるものを書き残す意味はあるのかと謎は残ったが、得意満面でプレゼントされたので受け取ったばかりであった。
次兄のイツキがしつけが行き届いた大型犬なら、三兄のカオリは室内でワガママ放題、自由な愛玩犬かもしれない。ちなみに留学中の長男は犬ではなく百獣の王ライオンであろう。
アシュレイ邸は旧旗本邸を改装した和洋折衷で、よく使う食堂や私室は全て洋風であり、一階が生活に関した階で二階が私室になっている。
庭は以前の日本庭園を維持してはいるが、母の趣味で一部薔薇園も作っている。アシュレイ邸の薔薇といえばそれなりに有名で、時折見物客もあるほどだ。
そして広い敷地内には使用人たちのための別棟がある。使用人は通いのものを含めて十五人程度。百人の使用人をもつ加賀の前田家には足元も及ばないが、英国貴族にふさわしい落ち着いた雰囲気はここ日本でも変わらない。
(そういえば級友たちにお茶会に呼んで貰いたいと言われてたっけ……。いつものお茶会ではつまらないわよね。なにかテーマを持たせるべき?)
子供たちにとってお茶会は外交の場だ。きちんともてなすのがリンネの役割であり他人にその仕事ぶりを判断される場でもある。その一点については面倒だと思わないでもないが、母親に似て案外もてなし好きなところがあるリンネは純粋にお茶会の準備は嫌いではなかった。
仕事に向かうイツキを見送り、食堂の窓から庭を眺め紅茶を飲んでいると、
「グッモーニン!」
バタンと食堂のドアが開き、ハルが姿を現した。
「おはよう、ハル」
「イツキは?」
「もう出たわよ」
「もう? いくらなんでも早すぎない?」
「確かに今日は少し早いわね」
時刻は七時。真面目な次兄は判で押したように日々の生活を送る。そのことを考えるといつもより一時間ほど早かった。
「イトさんおはよう。今朝も元気なイトさんに会えて嬉しいよ」
にこやかな微笑みを浮かべるヘンリー。
「パンはしっかり焼いたものを二枚。マーマレードはたっぷり欲しいな。あとね、オレンジジュースを貰えるかな」
ヘンリーの後から食堂にやってきたイトというのはメイドの一人で、リンネと同い年なのだが、おもにヘンリーやリンネの身の回りの世話を担当している、おさげの女の子だ。
「はい、ヘンリーさま。かしこまりました」
イトは軽く頬を染めオーダーを受けて廊下の奥の厨房へと小走りに駆けてゆく。
(ハルったらまた無駄にモテてるわね)
人たらしめ、と面白くないような気がするリンネをよそに、ハルはいそいそと隣に腰を下ろす。
「なにかあったのかな」
なぜか面白そうに唇の両端を持ち上げるハルにリンネは首をかしげる。
「なにかって?」
(兄さまのことだろうか)
「いや、僕気になっていたんだよ。昨日のこと」
昨日のことといえば、やはり幽霊と間違えた美少女のことに違いない。確かに綺麗な子だったけれど……。
ヘンリーはまた会いたいのだろうか。
「探してみようよ」
「えっ!」
「気になるじゃないか。謎の美女」
ニコニコしているヘンリーを見ていると、猛烈に腹が立ってきた。
「別にわたし気にならない」
気にならないと言い放つリンネに、
「嘘だね」
と、表情を変えないヘンリー。
「僕以上に好奇心の強い君が気にならないわけないよ」
「そんな」
「ほら、覚えてない? 九つの頃に町内で起こった子猫誘拐事件を解決したじゃないか。あれのキッカケは君の好奇心だったはずだよ。忘れたとは言わせない」
輝くサファイアの瞳は曇りなく、そう言い切る自信に満ち溢れていて、リンネは言葉を失った。
確かにいなくなった子猫を探した記憶はある。近所で生まれた子猫が突如いなくなり、リンネと当時来日していたハルとで子猫を探し当てたのだ。あれは九つの頃だったのか……。まさかハルがそんなことを覚えているとは思わなかった。
なんだか妙にソワソワする。恥ずかしい。
確かに自分は凝り性であり、なんでも突き詰めてキチンとしたい性格であるという自覚はある。けれどそれは子供の頃の話だ。
(ハルの中ではわたしは九つの頃から変わってないってこと?)
気にくわない。
(わたし、ハルに『お前はこうだろう』って言われるの嫌だ。兄さまたちならなんとも思わないけど……)
家族のように思うハルと実際の家族と何が違うのか、よくわからなかったが、とにかく嫌なものは嫌だ。
そう、いやなのだ。本当は兄に報告するか迷った程度には気になっていたのだが、それをハルに決められたくないのだ。
「嘘じゃないです。勝手にわたしの気持ち決めないでよ。それにわたし菊香院の子達をよんでお茶会をする予定で、とっっっても忙しいの」
明らかに嘘なのだが、嘘であるがゆえに無駄に強調してしまった。
「だから暇人なハルに付き合ってあげられないわ」
そしてその些細な嘘を誤魔化すためにまた言葉を重ねてしまう。悪循環。せめてもう少し言い方に気をつけなければと、頭の冷静な部分ではわかっているのだが、つるつると可愛げのない言葉が出て止まらない。
「そうか」
取り付くしまもないリンネの態度に諦めたのか、ヘンリーはオレンジジュースでトーストを流し込み立ち上がった。
「えっ、どこか行くの?」
一瞬怒らせたかとヒヤリとしたリンネだが、
「街に出てくるよ。カンコーカンコー」
あっけらかんとヘンリーは答え、本当にそのまま出て行ってしまった。
「ハル……」
食堂が急に静かになる。
観光だなんて言っていたけど本当だろうか。いや、仮に違ったとしてそれを問う権利が自分にあるはずがないではないか……。
謎の美少女を探すという彼の道楽に付き合わないという選択をしただけなのに、今度はとても薄情なことをした気がしてきた。
こんなことでハルはわたしを疎ましく思うような子じゃないとわかっているからこそ、自分の至らなさがもどかしい。後悔するくらいならあんなこと言わなきゃいいのに。
(わたしってほんとダメなんだ……)
深くため息をつき、テーブルにズルズルと突っ伏してしまった。