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君はひとりじゃない。


 冬が終わり春がきた。

 リンネは菊香院の三年生になり、二年の頃よりもさらに優等生としてその名を馳せていた。


「リンネ、帰るぞ」


 そして四年生に進学した千香士は、相変わらず伊呂波千香士として菊香院に通っている。長かった髪をさっぱりと切り美男子ぶりが増したと評判であるが、本人は相変わらず周囲の評価に無頓着である。


「うんっ」


 鞄を持ち、教室の入り口に立っている千香士の元へと向かう。そんな二人を見て、生徒たちは複雑そうなため息をつく。


「相変わらず仲がよろしくていらっしゃるのねぇ」

「本当に。美しい方々ね」


 級友たちの冷やかしもなんのその、あれから毎日千香士はリンネの送り迎えをしている。一日も欠かさずだ。どうもそれが当然と思っているふしがある。


(ハルは彼にも手紙を書いていたから、気にしてくれているのかもしれないな……)


「ねぇ、千香士」

「なんだ」


 校門を出てすぐ間に口を開く。今日こそ言わなければと思っていた。


「もう、いいよ?」

「何がだ」

「何がって……こうやって送り迎えするの……」

「迷惑なのか」

「えっ!?」

「それとも誰か他に歩きたい男がいるのか。どうしてもというなら仕方ないが、そいつは信用に足る人物なのか」


 千香士は立ち止まり、じっとリンネを見つめる。その眼差しは昼でも夜空に輝く星のようにきらめいている。彼の瞳に嘘はない。純粋な光だった。


「信用……って、いや、ちょっと待って、そもそもいないよ、そんな人っ!」

「なら俺でいいだろう」


 どこかホッとしたように千香士は眼を細める。


「えっ、そう、なのかな……?」

「そうだ。帰るぞ」

「あっ、待ってよ!」


 千香士の背中を慌てて追いかけた。春の風が爽やかに二人の間を通り抜けてゆく。



 ばあやがニコニコしながらアシュレイ邸の玄関で二人の帰りを待っていた。


「千香士さまいつもありがとうございます。今日はお庭にお茶の用意をしておりますよ」

「すまんな。世話になる」


 ばあやは千香士をかなり気に入ったらしく、千香士がいる時にはなるべく顔を出すようになっていた。それもそのはず、ばあやはその昔女学校で働いていて、女学生だった伊都子を見知っていたのであった。そして千香士もまたばあやから若かりし頃の母の話を聞くのを楽しみにしていた。


「母のことは親父殿から聞くだけだったからな。最初は蛇蝎のごとく嫌われていたが、最終的には俺に惚れてたとか、適当なことばかりで……」

「本当にそうなんじゃないの?」

「そんなわけあるか。親父殿は口から生まれた怪物だからな。詭弁の天才だ」


 そうは言っても、紅茶のカップを口元に運ぶ千香士は楽しそうに微笑んでいる。

 千香士は最近表情が柔らかくなった。リンネとの付き合いが彼を変えたのだと世間ではもっぱらの評判であるが、そのことをリンネは知らない。


(最近はお父さまとうまくいってるのかな?)


 庭は薔薇がちょうど満開だ。穏やかな時が流れてゆく。まるで何もかも夢の中のようだ。

 ばあやが新しいお茶を淹れに席を外したその時、

「なぁ、リンネ。お前どうするつもりだ」

 千香士がさりげなく尋ねる。


「あれ……ねぇ。うん。迷ってるけど多分受けるわ」

「そうか。侍従職出仕は名誉だが大変だぞ。いいのか?」

「うん」


 リンネはこっくりとうなずいた。


 侍従職出仕。御内儀で帝の世話をする子供たちの事である。なんとリンネはこの春侍従職出仕の打診を受けたのだ。華族の子息に限ったもので、少女では初の試みであった。

 ハルが消えたあの日。四方節の儀式ではやはり帝も皇后両陛下もうんと遠くの存在だった。ホッとしたと同時になぜか悔しくもなった。だが御内儀に出入りすれば皇后外美子さまに出会うこともあるだろう。


(その時が来たらわたしはどうするのかしら……)


 鹿鳴館の真珠姫。リンネの産みの母であり今はこの国で最も尊い女性である。

 打診を受けてから一人で考えてみたが結局答えは出せなかった。

 リンネが己の出生の秘密を知ったことは誰も知らない。いや、そもそも両親や兄たちが知っているかも確かめていないのだ。そして真珠姫が恋した相手のことも……。


「どうした」


 黙り込んだリンネの表情が気になったのか、千香士が問いかける。


「あ、ううん……なんでもない。そうそう。侍従職出仕の子から面白い話を聞いたのよ」

「なんだ」

「メイジ宮殿でね、ピアノが勝手に鳴るんですって」

「は?」

「だから、誰もいない部屋でピアノがなるの」

「怪談か?」

「そうかしら。でも違うかもしれないわ。メイジ宮殿にはたくさん不思議なことが起こるのよ。面白そうよね」

「その謎を解いてみせるか、リンネ」


 何か面白いことをやるのだなと、千香士にも伝わったようだ。


「ええ。解いてみたい」


 紅茶のカップを置いて、白薔薇を見つめる。


(誰もわたしのことを決めてはくれない。だから自分で決心するしかない。だからってわたしにいったい何が出来るかなんてわからないけれど……諦めたくないよ。ハル。わたしはあなたを諦めたくない。そしてハル、あなたもそうだって信じてる)


 ハルが消えた夜、リンネの部屋からもう一つ消えたものがあった。カオリがリンネのために作った書いた先から消えるペンだ。

 一ヶ月ほどほど泣いて暮らした後そのことに気づいたリンネは、自分宛の手紙にその痕跡を探し、それから文字を読む方法をカオリに教えてもらったのだ。


「はい、お茶のお代わりが入りましたよ」


 ばあやがいそいそとリンネと千香士のカップにお茶を注ぐ。


「ありがとう」


 リンネは礼を言いながら、いつも持ち歩いている手紙を胸元から取り出し、カップの上にかざした。


「なにしてるんだ?」

「おまじないよ」

「ふむ……不思議なまじないだな。英国式か」

「うん」


 熱い紅茶の湯気が水蒸気となって文字を温め、浮かび上がらせた。


《You'll Never Walk Alone.》


 君はひとりじゃない。




end

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