薔薇の正体
「葉桜の典侍は当事者でないのに、責めるようなことを言ってしまいました」
「いえ、いいのです。それにわたくしも伊都子さまは他人とは思っていないのです」
「え?」
「わたくしはもともと皇后外美子さまに仕えていた女官だと話しましたね。本当によくしていただいて……年も近いせいか、わたくしは一番の友人でもあったのです。だからずっと昔から、外美子さまからお話は聞いていたのですよ」
「お話?」
「ええ。外美子さまと伊都子さまは姉妹のようにお育ちになった、従姉妹なのです」
「えっ!?」
「伊都子さまのお母さまは、外美子さまのお母さまの妹君。年は伊都子さまのほうが上でしたが、外美子さまのお姉さまである左大臣一の姫が病弱でいらっしゃったこともあって、遊び相手として幼い頃からずっと一緒に過ごされていました」
「姉妹のように……なのに、えっ、じゃあ、外美子さまはそれを知っていて帝の……!?」
「身分も申し分なく、美しく聡明である。当時皇后に一番ふさわしい姫君でした。けれどそれ以上に、帝は外美子さまに伊都子さまを重ねられていたと思います」
「そっ、そうかもしれないけどなんですかそれ! そんなのひどいです! 追い出しといて、やっぱり好きだって後悔して、死ぬ気で取り戻すんならまだしも代わりに似てる女性を皇后に迎えるなんて! しかもただ似てるだけじゃなくて身内じゃないですか! なんなの!? 外美子さまにも伊都子さまにも失礼ですっ!」
いくらなんでも男の勝手ではないか。帝とはいえ許せない!
本気で腹をたてるリンネだったが、そんなリンネを見て葉桜の典侍はやんわりと微笑む。
「いえ……外美子さまも帝もお互い了承の上でのご結婚でした。あれはあの時お互いにできる最大の譲歩であり、いわば同士のようなお二人なのです」
「同士……」
この国で最も身分の高い男女の関係が夫婦ではなく同士?
リンネにはなかなか想像しづらい話であった。
「ですがリンネは本当に優しい娘ですね。そんなに怒ってくれるなんて思いませんでした」
「そ、そんなことないですっ! 優しくなんかないですっ……わたし自分で言うのもなんですけど結構真面目に地味に生きてきたと思ってたんですけどっ……今回色々あって、このひと月でわたし、こんな人間だったっけ? って思うことたくさんあって、ヤキモチ焼きのくせして鈍感だし、小心者のくせに意外にこうだと思い込んだら猪突猛進型だしで迷惑かけるし……しっかり危ない目にも合うし……なんていうか……その、反省してばかりで……」
ベッドの上のハルの手の甲に、そっと自分の掌を重ねる。そのままギュッと握って唇を噛み締めた。
「わたしがもっとしっかりしていたら、ハルも何かを話してくれたかもって、考えてしまうんです」
ハルが近衛師団に拘束されたのは、やはり彼がフランスのスパイだと疑われていたから、らしい。これはイツキがハルのことを頼んでいた皇族からの情報で確かなものである。
実際ハルはピエールというあの男と一緒にいたのだから事実とも言える。だが彼らの目的がなんだったのか、ピエールが死に、ハルが眠り続けている今、リンネには想像もつかなかった。
「……リンネ。わたくしが帝からお聞きした内容はこれまでです」
「はい」
千香士の問題は、今後千香士が自分で解決していくはずだ。だが友人として、彼のために力になろうと決意するリンネである。
「そしてこれから、あなたに外美子さまの御子様の話をします」
「……え? なぜ、外美子さまの話をわたしに……?」
それに皇后陛下には御子様はいらっしゃらない。一度だってご懐妊されたなど聞いたことがない。
不思議そうに首をかしげるリンネに、葉桜の典侍は言い聞かせるように言葉を続ける。
「その昔、左大臣二の姫の外美子さまが、今は亡き一の姫に変わって鹿鳴館外交を一手に引き受けていたことはご存知ですか?」
「はい。知っています。絵本や物語にまでなっていますよね」
鹿鳴館に咲く白百合。メイジの真珠姫。国を開いたばかりの日本を三流国家と侮られまいと奮闘した外美子さまは、今でもこの国に住む全ての女性の憧れであった。
「当時外国の貴賓からは真珠姫と呼ばれておりました。真珠姫は語学も達者で、フランス語、ドイツ語、イタリア語、そして完璧なクイーンイングリッシュまで身につけておられた」
「天才だったのですよね」
「いいえ。お姉さまを守るため、家を守るため、そして国を守るため、まだ少女だった外美子さまはそれこそ血を吐くほどの努力をなさったのです」
「そうだったんですか……」
物語のお姫様は努力などしないと勝手に思っていた。だが逆にそれだけの努力をして結果を出された外美子さまはやはり尊敬に値する人物に違いない。
「外美子さまとて同じ人間なのですよ」
葉桜の典侍は優しく微笑み、驚いて目を丸くしているリンネを見つめた。
「そして外美子さまは……来日した某国の青年と恋に落ち、一年後ひっそりと御子をお産みになったのです」
「……え?」
(今、なんて?)
「華やかな外交の裏で日々積み重なる努力と疲労。そんな外美子さまを一人の青年が愛し、支えたのです。けれど青年には帰るべき国があり責務がありました。外美子さまの御子は間もなくして来日した大使の養子として引き取られ、外美子さまは入内……即日皇后に立てられました」
(大使一家……養子……?)
目の前が真っ白になる。
(まさか……まさかまさかまさか……。)
「リンネ」
「や……っ」
リンネが座っていた椅子が倒れ、ガタンと大きな音が病室に響いた。
家族の誰にも似ていない自分の容貌。ふとした拍子に感じていた、自分は何者なのかという違和感。生まれたばかりの自分を連れて英国から船旅をしたという家族の言葉。
本当はうんと小さい頃からずっとそこに思い至っていたのだ。けれど誰よりも聡いからこそリンネはそのことを絶対に確かめようとしなかった。
「どうした!」
物音を聞きつけたイツキが病室に飛び込んでくる。
「リンネ?」
イツキの目に映ったのは、今にも泣き出しそうなリンネと、そんなリンネを真摯な瞳で見上げる葉桜の典侍である。
「リンネ、どうした。兄に話してみよ」
「……兄さま……」
(わたしは兄さまの妹じゃないの!?)
叫びたい衝動に駆られる。
だがその瞬間、握ったままのハルの手がぴくりと動いた気がした。その温もりはリンネに理性を取り戻す。
(ハルが落ち着けって言ってる……)
改めて兄を見つめ返す。自分を心配そうに見つめる兄の眼差しはまっすぐで真摯だ。
(年の離れた兄さまたちがわたしが養子であることを知らないはずがない。けれど今まで一度だって不安にさせられたことがあった? ないわ、兄さまたちは、お父さまもお母さまも、たとえ血が繋がっていなくても、わたしを心から愛して気にかけてくれている……)
「……ごめんなさい。驚いただけなの」
リンネはなんとか微笑んでみせる。そして一瞬心を通り過ぎた激情は自分でも驚くほど簡単に通り過ぎて行った。
「しかし……」
「本当に大丈夫よ。ありがとう、兄さま」
「わかった」
イツキは渋々といった様子ではあるがまたドアを閉める。リンネは目の端にうっすらと浮かんだ涙を拭って椅子に座りなおした。
(泣きたくない。わたしはわたしだ。胸を張ってそう言える。わたしは愛されて育った……家族を信じてる!)
「わたしの実の両親が誰であれ、わたしはリンネ・アシュレイです。父と母の娘であり、兄たちの妹です」
「ええ……。外美子さまもお分かりです。ただ、今回の騒動の原因は、千香士さまのことだけでなく、あなたも関わり合いがあるかもしれないこと……身辺には気をつけるよう忠告したく今日は来たのです」
「わかりました。ご忠告痛み入ります」
葉桜の典侍はそれでもまだ何か言いたげだった。もしかしたら皇后へのお言葉を求められているのかもしれない。
けれど取り付く島もない平常心のリンネの態度から、あとはリンネ自身の問題であるといったんは納得したようだ。千香士の手紙をバッグに仕舞い病室を出て行く。
「息災で」
「あとでまた来る」
「はい……」
葉桜の典侍と兄を見送り、またこんこんと眠るハルの顔に目をやった。
「はぁ……なんか疲れちゃった。ハル。わたしどうしたらいいのかな……」
葉桜の典侍にああは言ったが、そう簡単に割り切れるものではない。
千香士のことでも驚いたのに、自分が当事者になるとは考えてもみなかったのだ。
(ということは、わたしと千香士って血が繋がってるってこと? いやその前に……そうだわ。ピエールがわたしを父親にそっくりだって言ったこと……どういうことなの? あれはお父さまのことじゃないってこと?)
自分の体温が下がっているのがわかる。葉桜の典侍には冷静に見えても、やはり自分は十四歳の普通の女の子なのだ。なにもかもが未熟で、守りたいと思ってもその術も力もない……。
悔しくて、思わずハルの手を握る手に力がこもる。そしてそのままベッドにうつ伏せに倒れこみ目を閉じる。
さすがのリンネの神経も、葉桜の典侍の訪れな擦り切れたようだ。
(さすがに、つかれた、かも……。)
暴力的な眠りが急に襲ってきた。




