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手紙


 ここは帝都の端にある、伊呂波の息がかかっている病院である。彼らによって病院に担ぎ込まれたハルは、緊急手術を驚異的な生命力で乗り越えることができた。だがその後三日間眠り続けており未だ予断は許さない状況が続いている。そして当然のごとくその枕元には常に不眠不休のリンネがいた。


「リンネ」


 軍服姿のイツキが姿を現し、持っていたカゴからリンゴを一つ取り出して枕元のリンネの膝に乗せる。


「少しくらい眠らないとハルが目を覚ます前にお前が倒れるぞ」

「うん……わかってるけど……」


 膝の上のリンゴを手に取り、手持ち無沙汰に両手で撫でる。


「横になっても、眠れないの……。いろんなことを考えて……ハルのこともだけど、千香士のこととか……なんでこんなことになったんだろうって……」


 家族は入れ替わり立ち替わりハルとリンネの様子を見に病院にやってきた。久しぶりに会う父は、手術中の病院に顔を出しリンネの無事を確かめたあとは「また来る」とだけ告げ、後ろ髪引かれる様子で、大使館へと戻って行った。母は血だらけのリンネを見て卒倒しかけたが、持ち前の気性でなんとか立ち直り、ハルのために体にいいものを取り寄せると日本橋の実家に戻った。そして兄たちも試験や職務の合間を縫ってリンネとハルの様子を見に来てくれる。

 リンネにとって何よりありがたかったのは、誰一人リンネを無理に家に帰そうとしなかったことだった。だがそれも小二郎が病院の警護を厳重に取り計らってくれたおかげであると承知している。


(今度改めてお礼を言わなくちゃ……。千香士にも。ハルの命の恩人だもの)


 けれどあれから一度も伊呂波親子の顔を見ていない。おそらく千香士の問題であちこちを飛び回っているのだろう。


「……そのことだが、実はお前に話をしたいという方が来られている」


 イツキは周囲に軽く目を配ったあと、背後のドアノブを引いた。


「あっ……!」


 思わず椅子から立ち上がった。


「いきなり押しかけて申し訳ありません」


 なんと、廊下にほっそりとした体に深緑のドレスを着た葉桜の典侍が、供もつけず独りでそこに立っていたのだ。


「葉桜の典侍!」

「どうしても話さなければならないと思ったのです」


 しずしずと病室に入ってくる彼女を見てリンネは複雑な心境になる。


「……千香士のことですか?」


 今思えば、御内儀にいまでもお妃女官として勤めている彼女なら、まことしやかにささやかれる噂として、千香士のことを知っていてもおかしくない。それに普段はメイジ宮殿から出ることを許されない典侍がここにいること自体、帝の御意志に他ならないではないか。


「ええ」


 頷きながらも彼女の視線はベッドのハルへと向いていた。その眼差しは苦悩に満ちているがやはり素直に彼女の来訪を受け入れ難い。


「あの……千香士のことを知ってしまった以上、わたしも無関係ではないのかもしれませんけど……彼のことは誰にも言いませんからもう放っておいてくれませんか」


 失礼を承知の台詞だった。だが今のリンネにはハルほど気にかけなければならないことはないのだ。


「そなたや友人を巻き込んでの今の状況……申し訳なく思います。ですが帰るわけにはいきません。わたくしの知っているすべてを話します。いえ、話さなければならないのです」


 葉桜の典侍は悲しげに目を伏せ、それから小さく頭を下げた。


「……っ、や、やめてくださいっ!」


 リンネは慌てて葉桜の典侍に駆け寄る。そして彼女を自分が座っていた椅子に座らせた。


「……リンネ。これは聞かねばなるまい」


 たしなめるようにイツキは言い、新しい椅子を葉桜の典侍の向かいに置く。


「自分はこの部屋を護衛いたします。何かあればお声をお掛け下さい」

「感謝します、上條殿」


 そして兄はドアの向こうに行ってしまった。

 リンネは軽く唇を噛んだあと、しぶしぶ椅子に腰を下ろし胸元から一通の封筒を取り出した。


「これが全てのきっかけなのでしょうか」


 胸元に入れていたせいで封筒には血の跡が染み込んでいる。


「千香士はこれを皇后さまにお渡ししたかったそうです」


いったん千香士に返そうとしたのだが、あれから千香士に会えず渡しそびれていた。


「預かりましょう」


 葉桜の典侍はバッグから白いレースのハンカチを取り出し膝の上に乗せる。


「千香士はなぜそれを皇后さまに?」

「帝の子として生きるつもりはないという御意志なのでしょうね。皇子として生きるなら、必ず皇后さまの養子にならなければいけませんから」


 膝の上に手紙を置き、レースのグローブをつけた指で優しく封筒の縁をなぞる。懐かしむような、優しい表情で。


「あ、そうです。きっとそうです。千香士はいつも菊香院で嫌われるような振る舞いばかりしていました。養子にふさわしくない自分を演じていたのかもしれません……!」


 性格もあるだろうが、わざとあちこちで喧嘩を売っていたのは間違いない。それでもなんともならなくなりそうで、自分が帝の御子である証拠になりうる手紙を自分の手から離そうとしたのだろう。

 燃やしても良かったと思うが、大事にしなくてはいけないという千香士の気持ちなのかもしれない。元来優しい少年なのだ。


「これはまだ皇太子であらせられた頃の帝が、千香士さまの母上である伊都子さまに送った恋文なのです」

「えっ……? こい、恋文!?」


 誠に勝手ではあるが、千香士が帝の実子であるという証拠の何かだと思い込んでいたリンネは、思わぬ真実に面食らう。


「都出でて草の枕の旅寝にも恋しき人をおもふなりけり……。帝はわたくしに教えてくれました。『昔、伊都子が忘れられないあまり、実家に帰したあと和歌を詠んでこっそり送ったのだ』と。皇太子の身でありながら、心の病を得て実家に返された娘に歌を送るなど前代未聞……。前例がないことを帝は嫌っておいでだったけれど、そうせずにはいられなかった。それほど伊都子さまを愛おしく思っていらっしゃったと」

「その手紙が、それ、なのですか」

「そうです。その後伊都子さまは養生のために返されたはずのご実家で幽閉されたのち、厄介払いで嫁に出されてしまったと聞いて大変後悔なされたそうです」

「幽閉……」


 ふと、自分が閉じ込められていたあの座敷牢のことを思い出した。もしかしてあそこに千香士のお母さまは閉じ込められていたのだろうか。自分はほんの数時間のことではあったがその恐怖は想像できる。つくづく千香士の祖父に怒りを覚える。


(最低な御隠居さまだわ……)


「そしてご結婚後、伊都子さまは男子の御子さまをお産みになった。時期的にご自分の御子でしかありえない。当然帝は伊都子さまと千香士さまを引き取ろうと考えました。けれど伊都子さまはもう他人の妻です。しかも相手は伊呂波。結婚自体「華族令嬢が売り物に!」と面白おかしく取り沙汰されたのです。国の規範であるべき皇太子がどうして他人の妻を奪うことができようか……。それに帝はとてもお若くていらっしゃった。確かに男子の御子は惜しいが、今後いくらでも子はできるだろうと、今は亡き皇太后さまの反対もあってその話は立ち消えになりました」

「そして今、千香士を引き取る話が出たんですか」

「そうです。まだ帝、皇后さま、侍従長、そしてわたくししか知らぬことです。帝はずっと千香士さまの様子を秘密裏に調べさせていて……わたくしも千香士さまのお写真を拝見して本当に驚きました。伊都子さまに瓜二つでいらっしゃるのに、それでいて強い覇気をお持ちで……帝と面影が重なるのですよ」


 ほんの少し興奮したように早口になる葉桜の典侍を、リンネは少し冷めた目で見る。

 所詮メイジ宮殿に住む人たちは人の気持ちなど考えられない雲の上の存在なのだ。住む世界が違う。


「それにしたって今更すぎます。病気療養とかなんとか言って追い出したくせに……世嗣ぎがいない今、昔捨てた千香士が無事に育ったから戻ってきて欲しいなんて……虫が良すぎます。勝手です!」

「リンネ……」

「それに伊呂波さんはどうなるんですか。千香士の口ぶりだとそんな仲良し親子って感じではなかったですけど……それでも千香士を十五年育ててきた人じゃないですか。勝手に奪うんですか!?」

「……妻が産んだ子が自分の子でないと伊呂波は当然知っていたでしょうが、彼は立派に千香士さまをお育てになりました。今更千香士さまをよこせと言われて伊呂波がどう答えるかはわかりませんが、今の千香士さまがあるのはあの方のおかげでしょう。それを忘れて……恥ずかしいわ。申し訳ありません」


 葉桜の典侍はリンネの指摘を否定しなかった。そして謝ってみせた。だが葉桜の典侍は帝の妃だ。そして過去、我が子を喪った女性だ。どちらかといえば伊都子さまの側の人間である。


「ごめんなさい……」


 それに気づくと途端にイラついた自分が情けなくなった。


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