私の命を担保にします
「いやぁ、騙されましたよ」
流暢な日本語を話す、黒い背広にマントを羽織った外国人だった。焦げ茶色の髪に同じ色の瞳。鼻筋がしっかりとしていて美形に見えなくもないが、唇は薄く冷酷そうに見える。
「裏門で銃を撃ったのは君ですね、ヘンリー君。君の陽動のせいであちらは右往左往していますよ」
「勘がいいなぁ、ピエールさんは」
「私は君をただの子供だと侮ったことは一度もありませんでしたからね」
「それはどうもありがとう」
お互い気安い口調であるが、片方は銃を持ち、片方はその銃に撃たれた者である。
威嚇だったのか、本気だったのか。威嚇だとしたら足を正確に狙う射撃能力は、先ほどまで屋敷にいた男たちなど相手にならないだろう。指はいつでも引き金を引ける位置にあり、銃口はまっすぐにリンネとハルに向けられていた。
そして残念ながらハルのS&Wは数メートル先に転がっている。あれを取りに行ったとしても、手が届く前にハルは間違いなく銃弾に倒れるに違いない。
(何をするにしても時間を稼がなきゃ……)
ハルの背中に腕を回しながら問いかける。
「あなたが、千香士のお祖父さんに近づいたフランス人?」
「さすがに勘が鋭いお方だ」
ピエールと呼ばれた彼はくすりと笑う。
「お父様によく似ていらっしゃる」
「っ……父を知ってるの!?」
「ええ。知っているも何も……彼には何度も……そう、煮え湯を飲まされた。宿敵とでも申しましょうか」
父さまとこの男が知り合い?
ということは英国とフランスの外交上でのイザコザが関係している?
長い歴史の中で英国とフランスは敵対関係にあることくらいリンネも知っている。父絡みであれば外交問題に違いなかった。
「というわけで我々にはあなたの身柄が必要だ。リンネ様。こちらに来ていただきましょうか」
そしてピエールは立ちすくむリンネに向かって手を伸ばしてきた。
「い、いやよっ!」
なぜ自分があんな得体の知れない男についていかねばならないのか。いかにも紳士然としていて底の見えないフランス人に恐怖しか覚えない。全身でそれを拒絶せずにはいられなかった。
「困りましたね。賢いあなたなら言われなくてもわかると思いますが……」
カチリと撃鉄の音が響く。そして銃口はリンネではなくハルの頭に向けてあからさまに動いた。ねらっているぞというアピールだ。とっさにハルを抱く腕に力を込めたが、ピエールは穏やかな微笑みを浮かべただけだった。
「どうしますか?」
「そんな……」
「だめだ、リンネ。絶対に行っちゃいけない」
ハルはリンネの肩をさらに抱き寄せる。
「それでかばってるつもりかい? ヘンリー君。そんなことをしたって私は君だけを撃ち抜くことができる」
「そうだね。でも僕はリンネのナイトだから、こうしないわけにはいかないんだ」
ユーモアと優しさと、そして紳士であること。その声はリンネが知っているハルの声だった。嬉しさのあまり胸が熱くなる。
(ハルは私を裏切ったりなんかしていない。言えないことはあったのかもしれないけど、ハルの心はちゃんとわたしを見てくれている! だから考えるんだ、どうやったら傷ついたハルを守れるか……。冷静になって、今わたしに何ができるか考えるんだ!)
リンネは深呼吸を繰り返し、それからピエールをまっすぐに見据えた。
(あちらは銃を持っている。せめてこちらにも銃がなければ交渉できない……)
「ピエールさん、私がそっちに行ったらハルの安全をどう保証してくれるんですか? まさか楽に死なせてやるとかそんな馬鹿げたこといいませんよね」
「ふむ……実はそのつもりでした」
「やめてよ……わたしは絶対にハルを死なせない」
薄暗闇の中、リンネは話しながら間合いを図っていた。
「でも」
「でも、なんです?」
「でも……どうせ殺すっていうんなら、あなたには殺させないわ!」
言うが否や、ほんの一瞬の隙をついて地面に転がったハルのS&Wへと飛びつき、ピエールではなく自分のこめかみにその銃口を突き当てる。
「リッ、リンネ!」
誰よりも驚いたのはハルだった。だが最悪の状況でリンネの心は、魂は熱く燃えていた。ハルを守る、固い決意がリンネをさらに強くする。
(これで五分だ!)
「ふふっ、困ったお姫様だ。そんなことをして一体どうするおつもりなんです?」
「どうもこうも、どうやらあなたの目的が生きているわたしみたいだから、わたしの命を担保にする、それだけのことよ」
「そんな脅しが通じると思っているのですか」
「だったらわたしこそ尋ねるわ。わたしの死体に価値はあるの?」
リンネの瞳は煌々と輝き、その凛と響く声は聞くものを惹きつける不思議な魅力があった。
「……できるはずがない」
リンネの放つ覇気にたじろいだピエールは無理に唇の端を持ち上げてみせる。けれどそんな言葉はリンネを止める道具にはならなかった。こっちはまさに死ぬか生きるかの瀬戸際である。
「どうせ死ぬならせめてあんたの思い通りになんかならない」
ハルを助けるため、この駆け引きに命を賭ける。
リンネは大きな目を閉じてぎゅっと拳を握った。
ドクン、ドクン……。心臓がうるさい。全身の血が轟々と音を立てて流れていく。
「ハルを逃がさないのなら、今すぐ引き金を引く!」
その一瞬はリンネにとって真剣な一瞬だった。本当にハルを助けられるなら引いてもいいと思ったのだ。




