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帝の血脈


「親父殿はいるか!」


 かつてエド城の南端にあった虎ノ門跡地側に伊呂波邸はある。敷地総面積二千坪の大邸宅で、建物は洋館二つに日本家屋一つの計三つ、使用人は百人を超え、広大な庭の一角には当主の趣味である馬のために厩舎も完備している。これほどの家屋敷は大名華族でも維持はできまいと、世間のもっぱらの噂である。

 幼い頃からここに住む千香士でも広すぎて全てを把握できないのだが、彼の父である伊呂波の趣味が存分に活かされた屋敷だった。


「若様お帰りなさい。お父様でしたらこちらのお母さまのお部屋にいらっしゃいましたよ」


 母屋を血相を変え叫びながら歩き回る千香士を発見した使用人の一人が、二階を指差す。


「すまんな」


 礼を言い階段を登った。


 母……千香士の亡き母の部屋は公家屋敷を改装した伊呂波邸の二階にあった。最高の調度品に囲まれた部屋ではあったが、病弱だった母が窓から見る景色を好んだ。季節ごとに作り変えられる庭を一望できる。今は誰も使っていないが、おそらく今後も誰にも使わせないのだろうと千香士は思う。


「千香士、見ろよ。いい眺めだぜ」


 肘掛窓に腰を下ろした伊呂波小二郎が窓の外の夕焼けを眺めている。仕事帰りなのだろう。三揃いのスーツを着てはいるが、シャツの首元のボタンは外しゆったりと寛いでいる。


「それどころじゃない」


 千香士はずかずかと座敷に上がり、父親の背後に立った。


「リンネがかどわかされた」

「リンネ?」

「しらばっくれるな。親父殿が知らないはずがない」

「……リンネ・アシュレイ。ああ、知ってるぜ。英国大使の娘でたいした別嬪さんだな。今は薔薇の蕾ってとこだが将来が楽しみだ。うむ……。妹もそうだが、あそこの兄弟はどれも面白いぜ。男三人の誰かにはなを嫁としてねじ込みたいところだが」

「はなはまだ二歳だ。無茶を言うな」


 父の愛人たちが産んだ幼い弟妹たちを、千香士はことのほか可愛がっていた。


「無茶でもないだろ。そもそも俺の娘なんだから引く手数多に決まってる」


 どこからその自信は来るのだと千香士は呆れたが、小二郎は長い足を組み膝の上に退屈そうに頬杖をついた。


「で、そのリンネ嬢がかどわかされた?」

「菊香院でな」


 千香士が紅子姫との遣り取りを含めて概要を説明すると、小二郎は精悍な眉を寄せて思案顔になる。


「お前じゃなくてか?」

「……ああ」

「恐れ多くも、帝の血を引く唯一の男子であるお前を誘拐するならまだしも、大使の娘をか?」

「親父殿!」


 背筋が凍る。


 慌てて周囲を見回す千香士だが、小二郎はまるで世間話でもするようなノリである。


「ははっ、目くじら立てるんじゃねぇよ。本当のことじゃねぇか」

「……っ……だから、俺は、そのつもりはない」

「そのつもりもへったくれもあるか。俺だってな、普段は血の繋がりに価値があるなんて思っちゃいねぇよ。だけどな、オメェは特別だ。帝を頂点にしたこの国家で、帝の血を引いた男子は今んとこオメェだけなんだよ。値千金の価値があるんだよ」

「今更利用されるのはごめんだ」

「それは帝にか? それとも俺に対してか」

「……両方だ」

「ふん……だったら自力でなんとかするんだな。俺は俺で楽しませてもらうぜ」


 一輪の花のような千香士と違い、五十を間近にしても肉食獣そのものである。一代でお大尽と呼ばれるところまで上り詰めた小二郎にとって、金はもはや目的ではないのだ。

 だが彼に取ってもリンネのことは寝耳に水だったようだ。


「リンネ嬢をさらったのは元軍人だろうな」

「元?」

「むしろ、菊香院だから誘拐できたんだろ」

「意味がわからない。どういうことだ」

「まぁ俺も確証があるわけじゃねぇがな。お前、菊香院なら安全だと思い込んでたんじゃねぇか?」

「……思っていた」

「正規の軍人が恐れ多くも菊香院内で誘拐なんかできるかよ。あそこには菊の御紋が掲げられてるんだぜ。軍隊は帝を穢すことは絶対にしない。逆に、仮に軍隊なら罪状はなんとでもでっち上げて、菊香院を一歩出たそばから真っ当に逮捕する」

「確かに……そうだな」

「ということは金で雇われた元軍人崩れだな。そうか……あちらさん、お前が無理だから親しいリンネ嬢を狙ったのかも知れねぇな」

「は?」


 千香士は小二郎の言葉に目を丸くする。


「菊香院で友人一人作らずに面倒ばっかり起こしてたくせに、急に女と親しくなりやがって。あからさまに怪しいだろ。俺だって千香士もとうとう女に興味持ったのかよって驚いたからな」

「なんだそれは……いや、違う。リンネととのことを知っていたのか」

「護衛つけてんだよ」

「誰に?」

「お前以外に誰がいる」

「なっ……」


 どうやら自分は始終小二郎の目の届くところにいたらしい。全く気がつかなかった自分に猛烈に腹が立った千香士だが、小二郎は当然だろうと目を細めた。


「俺にどんだけ敵が多いと思ってんだ」

「だったらリンネが襲われたのは俺のせいか」


 守ると決めた自分の判断が結果リンネを危ない目に合わせた。リンネに何かあったら彼女にどう償えばいいのか。己の引き起こしたことに千香士はひどく打ちのめされていた。


「いや……それにしても……」


 一方小二郎は何かが腑に落ちないのか無精髭を撫で回した後、いきなりすっくと立ち上がり部屋を飛び出してしまった。


「親父殿!?」


 打ちひしがれていた千香士も慌てて後を追う。

 落ち込むのも謝罪するのもリンネを助け出してからだと気づいたのだ。



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