千香士の謎めいた行動
昼休みを知らせるチャイムが鳴る。英語の教科書を机の中にしまっていると机の横に人影が立つ。見上げれば制服のポケットに手を入れた千香士だった。
まっすぐで、絹糸のようにさらさらした黒髪が肩のあたりで綺麗に切り揃えられているのが美しい。
傲岸不遜を絵に描いたような少年だが、黙ってさえいればやはり名画であると言わざるをえない。
「行くぞ」
「お昼は?」
リンネはお弁当を手に千香士を見上げる。彼は手ぶらだ。
「いつも食べてない」
「ええっ!? それで平気なの?」
「慣れてる」
「わたし毎日お昼楽しみにしてるのに……お腹すくの辛いわ」
「別にお前の腹が減るわけじゃないだろう……。そんな捨てられた子犬のような顔をするな」
千香士はふっと微笑みを浮かべ、リンネの眉間に指を乗せた。
「この辺りに哀愁が漂っているぞ。なるほど腹を空かせるというのは悲しいことに違いないな。実に哀れだ」
「なにそれ酷い……!」
「なんだ、こんなことで怒るなよ」
「千香士が失礼なこと言うからでしょ!」
哀れな子犬扱いされて憤慨するリンネだが、千香士はそんな様子を見て楽しげに肩を揺らし笑っている。
(あれ……笑うとなんだか印象が違うかも。普通の男の子みたい。いや、彼だって特別綺麗なだけで普通の男の子なんだろうけど……綺麗すぎるのも考えものね)
そこでふと教室が静かなのに気づき、何気なく周囲を見回す。
すると級友たちの大半が、お弁当を食べるでもなく、解散するでなく、男女問わずキラキラした瞳で二人を見つめていた。
(なんだか注目されてる?)
そこで一人の女子生徒が大はしゃぎで身悶えした。
「リンネさま……大胆っ!」
(えっ!?)
「最近転校してきた上級生って、まさかの伏兵じゃないかっ! くそっ!」
(はい!? 千香士って有名人?)
なぜか頭を抱える男子生徒までいる。
「……出るぞ」
「うん」
お弁当を持ったまま手首を掴まれて教室を出たが、二人が教室から出てもなお盛り上がっているようだった。
「あれ、なんだったのかしら」
廊下を歩きながら不思議そうに首をひねるリンネに、千香士は怪訝そうに振り返る。
「お前それ本気で言ってるのか。お前と俺の仲を勘違いされたんだろ」
「ええっ!?」
慌てて掴まれていた手首を引いた。
(勘違いされたって、その、恋仲だと思われたってこと、よね? わたしと、千香士が……。きゃーっ!)
ありえないこととは言え、頬が熱を持ちはじめてとうぶん引きそうにもない。
「勘も鋭くて類い稀な観察眼があるくせに、自分のことにはからっきしなんだな」
呆れた様子の千香士であるが、リンネは恥ずかしくてたまらなかった。
(今までそんなこと意識したことなかったから……いや、だって、いや、うん、そうね……。一番わからないのは自分だっていうのは否定しないけど……)
二人はそのままリンネが鍵を持つ薔薇園へと入る。そして以前紅子姫と座った時のように椅子に並んで腰を下ろした。
「あ、そうだ。手紙なんだけどまだ渡せてないの。でも渡せそうなツテが出来たからその確認をしておこうかと思って」
「ツテ?」
「えっとね……葉桜の典侍さま」
「葉桜の典侍……お后女官の?」
「そう。とてもよくしてくださったの。信頼できるお方だと思う」
「ああ……そうだな。確か皇后さまにお仕えしていて、それからお后女官に抜擢されたんだったか。皇后さまの信頼も厚いと聞く。確かに信頼できる人選だ」
「あら、よく知ってるわね」
昨日聞いたばかりだから驚いてしまう。だが千香士は長い足を組み替えて頭の後ろで手を組んだ。
「このくらい常識だろ。おそらく菊香院で知らないのはお前だけだ」
「そんなに?」
「そんなに」
「うーん……」
これではものを知らないと言われているようなものだ。微妙に落ち込むリンネである。
「まぁ、ご両親が世俗に関係ないところでのびのびお前を育てているということだろうな」
千香士は励ますつもりなのかなんなのか、一人納得したようにうむ、とうなずいたが、リンネは内心複雑な気持ちだった。
(確かに、次世代を担う若者を育てることを名目にした菊香院に通ってるくせに、わたしって色々無知だったかも……。宮中の派閥云々だって知識として知っていてもおかしくない話だし、父さまと母さまに聞いてみようかしら)
そしてなんとなしに膝の上に置いたお弁当箱を開けて、ハッとした。
「あっ、うさぎりんご!」
「なに?」
「りんご、ほら、うさぎにしてくれてる!」
りんごの皮を一部残してうさぎに見立てたりんごは、リンネの幼い頃からの大好物である。おそらく落ち込んでいるに違いないリンネを気遣ったイトの思いやりであろう。
楊枝でさしてあるりんごをつまみ上げ、そのまま千香士に差し出した。
「はい」
「ん?」
「おすそ分け」
「一つしかないだろう。それが好きなんじゃないのか」
「うん、だからおすそ分け」
「好きなものを他人にくれてやるのか……まったく意味がわからんな」
「わからなくてもいいよ。なにも食べないって言っても果物くらい食べられるでしょ?」
「まぁ、な」
千香士は組んでいた足を下ろし、りんごを受け取り端にかじりついた。
小春日和の今日、太陽の光が燦々と注ぎ込む温室の中は暖かく、緑が映える。サクサクとりんごを咀嚼する姿はまるで絵本の中のお姫様のようだ。
(そんなこと言ったら怒られちゃうだろうけど、ほんと千香士って綺麗だなぁ……)
リンネもお弁当の中身をゆっくりと口に運ぶ。
「ねぇ、千香士」
「ん?」
りんごを食べ終えた千香士は目を閉じ完全に昼寝体制だった。
「なにか用事があったんじゃないの」
「……別にない」
「そっか」
昨日の今日で、一時のこととはいえ学園内で、こんなに心落ち着く時間が持てるとは思わなかったリンネだった。
「放課後迎えに来る」
なにを話すでもなく食事を終え、二人はリンネの教室まで戻ったのだが、千香士はいきなりそんなことを言い捨てると、目を丸くするリンネを置いて立ち去ってしまった。
なぜ?
頭の中は疑問点でいっぱいである。
だが千香士に話す気があれば温室で話していただろう。要するに彼はリンネの追求を避けるために言い逃げしたようなものだ。
千香士は可憐な見た目とは裏腹な複雑な少年だ。本人に言う気がないものを追求するのも難しい。
実際放課後リンネを迎えに来た千香士はどこ吹く風でリンネを教室から連れ出し、またどこに寄る訳でもなくまっすぐアシュレイ邸まで送るとスタスタと帰ってしまった。
しかも千香士の謎の行動はその日だけで終わらなかったのだ。