誰にでも秘密はある
自宅に戻ったのは日付が変わる直前だった。
リンネが車から降りると同時に玄関から母が飛び出して来た。どうやら子供たちの帰宅を今か今かと待っていたらしい。
「リンネッ!」
「うわっ!」
「母上、リンネが吹っ飛びますよ」
後ろに倒れそうになったリンネを母親ごとイツキが支える。
「だって、ハルのことびっくりして、もうっ、心臓が止まりそうだったわ! リンネに何かしたらどこにだって大砲ぶち込んでやるわ!」
実家は日本橋で両替商を営んでいる、豪商の娘である。父をして「男に生まれてくれればうちの店は天下を取れた」と嘆かせた豪胆な娘であった。
「大砲って母上……」
五十歳を直前に控えた母の言動に頭を抱えたくなるイツキであるが、父はこういう母を気に入っているのだから、おそらく死ぬまでこうなのだろう。黙ってさえいれば洋装の似合う、豪奢な花のごとき美貌ではあるのだが……。
そんなイツキの苦悩をよそに、リンネは母の手をぎゅっと握りしめた。
「わたしはいいけど、ハルが……」
「ええ、聞いてるわ。アンセルは勿論だけど、わたしもあちこちに手を回してるから、きっと大丈夫よ」
「うん」
「とりあえず今日はいろいろあったのだから、早くベッドに入ったほうがいいわ。そうだ、ブランデー入りの紅茶を淹れてあげる」
慌ただしく母はリンネを屋敷の中に入れる。母に怪我はないのかと全身をなでさすられながら、リンネは目を閉じる。
確かにいろんなことが起こった一日だった。体はものすごく疲れている。とても重い……。
だが同時に、目は冴えて眠れそうにない夜だった。
(もしかしたらまだ、何も解決していないのかもしれない……)
結局その晩は数時間しか眠れなかったリンネだが、学生の本分は勉学である。学校には行かねばならない。いつものように身支度を整え食卓についた。父と話せればと思ったが姿はない。イトに尋ねると昨晩は結局帰らなかったという。
仕方なく一人での朝食になったが何も食べる気がしない。とりあえず心配するイトの手前フルーツを口に運ぶことしかできない。
ハルがいつも座る左隣は空席だ。
昨晩起こったことも彼の不在も、現実なのだと思い知らされる。
(もうわたしには何もできないのかしら……)
強くあろうと決めてもふとした瞬間に涙腺が緩んでしまうリンネだったが、
「おはよー」
食堂に響くのんびりした声に慌てて目尻の涙をぬぐい振り返った。
「花緒李兄さま、お早うございます」
「やぁ、マイシスターは今朝も美人さんだねぇ」
「何言ってるの……」
兄の軽口に思わず笑ってしまう。
「いやいやほんと。僕の級友たちも噂の美貌の妹に会いたいってうるさいのなんの。まぁ、自慢したいのを我慢して断っちゃってるけど〜」
「どうして?」
「だって見初められたら困るもん。僕はまだリンネをお嫁にやる気ないし」
「お嫁、ねぇ。わたしもピンとこないけど」
ふと紅子姫の顔が脳裏をよぎる。
(そういえばあれから紅子姫の想い人の話、聞いてないわね。きっと島津様だと思うのだけど、どうなったのかしら……)
「イトちゃん、僕は飲み物だけでいいよ」
「かしこまりました」
「あー、疲れた!」
リンネの右隣に腰を下ろし、椅子の上で仰け反りながら両腕を天井に伸ばす。
カオリの、洗いざらしでゆるく波打つ髪が肩からさらさらと滑り落ちる。
中性的で上品な顔立ちは母によく似て貴公子然としていたが、中身はかなり軟派で適当である。いつでもどこでもこうなので、しょっちゅうイツキに怒られているが本人はどこ吹く風。アシュレイ家の三男坊は万事がこの調子であった。
「リンネ、肩揉んで〜。バリッバリなんだ」
「仕方ないなぁ……」
紅茶を飲み終えたリンネは、カオリの背後に回り彼のすらりとした首から肩を揉んであげることにした。
「ここ?」
「うん、そこらへん。もっとぎゅうぎゅうやって」
「ほんとにカチカチなんだけど……いったい何してるの? いつもの発明?」
「うん、そうだよ。今作ってるのはね、秘密のトランク。ボタンを押すと火が出るんだ」
「火!?」
一瞬揉み手が止まった。
(まさかそれもわたしにプレゼントする気じゃないでしょうね? いやそもそもなんに使うのよ、それ)
やけに自信満々なカオリに開いた口がふさがらないリンネである。
「さすがに火が出るのは危ないと思うわ」
先日貰ったような、書いた文字が見えなくなる万年筆など、役に立つとは到底思えないものばかり作る兄ではあるが、彼の頭脳を疑っているわけではない。ただおかしなことに巻き込まれやしないか心配だった。
「大事なものはここに入れておいて、いざとなったら燃やして証拠隠滅できるんだよ」
「何のために大事なものを燃やしちゃうの?」
ウキウキしているカオリの表情からして不安この上ないが、やはり突拍子もなさすぎてリンネには時々理解不能である。
「そうだねぇ……僕はこれからは情報がモノを言う時代だと思うんだよ」
「情報?」
「そう。情報は武器なんだ」
カオリは優雅な手つきで、目の前のカップを手の甲で蓋をした。
「この中に何が入っているか、イトは知っているけれどリンネはわかるかい?」
「たしかいつものって言ったわよね……。コーヒーかしら」
「半分正解だね。これはコーヒーとトマトジュースのハーフアンドハーフ。唐辛子スパイス入り」
「なにそれ!」
「ふふっ。僕は外泊した翌朝はいつもこれを飲むんだ。バッチリ目がさめる。イトは給仕をするからそれを知っている」
「確かに目は覚めそうだけど……それで情報って?」
「外泊した翌朝にしか飲まないとわかっていれば、僕を毒殺できる。コーヒーにトマトジュース、唐辛子スパイスなんてカクテルだったら、少々毒を仕込んでも気づかない」
「ええっ!?」
「坊っちゃま、あたしそんなことしません!」
「わかってるって〜。例え話だよ」
「それにしても酷いですっ!」
イトはプリプリと頬を膨らませ、不満げに唇をへの字にする。
「ふふっ、悪かったよ。今度三越でお菓子を買ってきてあげるから」
それほど悪いと思ってなさそうなカオリではあるが、こういうところは如才ない。
「まぁっ、本当ですか! みんなの分もよろしくお願いしますね」
「はいはい。ちゃっかりしてるなぁ」
そしてカオリは改めてリンネに微笑みかける。
「まぁ、それ以外にも僕のプライベートに関してたくさんのことが推測できるんだよ。リンネは何かわかるかな?」
「うーん……」
発明と実験というカオリの趣味はもはや度を越したもので、彼のライフワークとも言える。たまに帰ってきても昼までは泥のように眠るのが常である。
「わかったわ。カオリ兄さまは今日どうしても目を覚ましておかないといけない。大学に行かなくちゃいけないのね」
「正解。実は教授のご機嫌を伺っておかないと進級の危機なんだ」
彼はくすりと笑い強烈なコーヒーを口に運ぶ。
「そんな事実が他人にばれたら結構な弱みになると思わないかい」
「確かにわたしが悪い女なら、兄さまを追い詰めるために色々思いつくわ」
「怖いなぁ。でもリンネみたいな魅力的な女の子なら悪巧みに乗っかってもいいけど」
カオリは背後のリンネの手を取り椅子に座らせた。
「いっそ全てを開けっぴろげにして、秘密なんて持たなければいいんだけど、なかなかそれも難しい。どんな人だって秘密を抱えているものだからね」
「そう、ね……」
一瞬自分にはないと言いかけたけれど、確かにないこともない。
自分勝手でドロドロした感情を抱えることもある。
(でも、ハルにはそんなドロドロしたものを感じたことはない……。それってわたしが彼をよく知らないからなんだろうか)
開けっぴろげで人懐っこいハルの顔がチラついて、大丈夫とわかっていても、やはり少し苦しくなった。
(いつまでこんなに不安な気持ちでいなきゃいけないんだろう……。ハルの、馬鹿)
それから、カオリが大学に行く途中、菊香院まで送ってもらうことになった。
あれこれと話しながらの道行きは楽しく、実験の失敗談など聞いて笑いが止まらない。気がつけば自然と落ち込んでいた気持ちが浮上していた。
(もしかしてカオリ兄さまもわたしを気遣ってくれたのかな……)
門の前で遠くなっていく兄の背中を見送っていると、目の前に停車した車から女の子が降りてきた。誰かと思えば紅子姫である。
「リンネさまごきげんよう」
「ごきげんよう、紅子姫」
「こんなところでどうなさったの?」
「ええ、兄を見送って……」
そこで背後からさらに声をかけられる。
「リンネ」
涼やかな声に振り返れば千香士であった。
「千香士。おはよう」
「おはよう」
「なにかあったの? 今聞く?」
紅子姫がいるのでそう尋ねたのだが、千香士はさらりと首を振った。
「いや、友と一緒なら後でいい」
「じゃあまた後でね」
「ああ」
千香士はこくりとうなずき、校門をくぐってあっという間に見えなくなった。彼の人形めいた美貌も相まって、存在感があるようなないような、不思議な雰囲気を持っている人だとリンネは思う。まるで霞でも食べて生きているような……。
(そうだ、手紙)
彼の顔を見て唐突に、葉桜の典侍がお后女官になる前は、皇后さまにお仕えしていたことを思い出した。
(もしかしたら葉桜の典侍に頼めるかもしれない。一応千香士に相談してみよう)
「リンネさま」
どこか不安そうな様子で紅子姫が視線をさまよわせている。つい自分の世界に入っていたことを反省した。
「ごめんなさい、教室に行きましょう」
「……ええ」
そして歩き始める紅子姫とリンネだが、姫の様子がなんだかいつもと様子が違う。明らかに気落ちした様子なのだ。
「紅子姫、何かあったんですか?」
「あ……いいえ。何も」
「そうなんですか? なんだか元気がないように見えたから」
「気のせいですわ」
優雅な微笑みで紅子姫はリンネの問いかけを否定する。
(これって……誤魔化されてる?)
作り物めいた微笑みに胸の奥が一瞬ざわつく。
今朝カオリと話したせいなのかもしれない。他人行儀な微笑みの奥にある紅子姫の真意を知りたくなったが、何をどう言っていいかわからない。結局何も問えないまま教室に来てしまった。
(あー、私の意気地なし……!)