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辛い告白


 葉桜の典侍の局は天皇居住区から渡り廊下を通った西の区間にあった。

 部屋の中は完全に洋間だった。ベッドに小さなテーブルセット。そして飾り棚に本棚。衣装ダンスなどが品良く配置されている。

 確かに広くはあるが、リンネからしたら馴染みのある雰囲気で、なんとなく葉桜の典侍の人となりが伝わるようでホッとする。そして勧められるがまま椅子に座ったが、葉桜の典侍が侍女を下がらせ、手ずから紅茶を入れるのを見て仰天して立ち上がった。


「あの、お茶なら私が!」

「いいのよ、くつろいで。わたくしもこうやって気を落ち着けたいの」


 アシュレイ家もかなり多く紅茶を飲むので、メイドたちはみな母に教えてもらっているのだが、葉桜の典侍は元は公家の姫のはずである。


「ずいぶん紅茶を飲み慣れていらっしゃるんですね。とても慣れてらっしゃるというか……」


 きちんと茶葉が開いた、香り高いアールグレイが鼻をくすぐる。


「昔、とても大事な方に教えていただいたのよ」


 彼女はくすりと笑って薄い陶器のカップをリンネの前に置き、腰を下ろした。


「おそらく犯人はすぐに捕まります」

「そうなのですか?」


 リンネからしたら、まだ全てが想像の範囲の中ではあるのだが、御内儀に生きる典侍には、もう答えが見えているらしい。


「ええ。悲しいかな、この手の話は日常茶飯事だもの」

「えっ」

「数年前には生霊騒ぎもあったわ」

「いきりょうっ!?」

「お后女官たちの間で、呪っただの呪われただのね」

「……」


 神武天皇の御代から血統が力の源であるとされてきた宮中ではあるが、なんとも恐ろしい話に絶句するしかない。


「わたくしにもね、姫がいたのです。けれどすぐに手の届かないところにゆきました」

「葉桜の典侍……」

「わたくしは元々は皇后さま付きの権掌侍ごんのしょうじというお役目女官だったのよ。懐妊してお后女官に繰り上げられました。だから宮中では、帝の御子を授かることの重大さが誰よりもわかっているつもりです」


 雅やかで小さな手に包まれる紅茶のカップ。目線を落としているが、彼女が見ているものはおそらく紅茶の水面ではない。

 ふと、父が何かと自分を抱きしめて「お前は天使だよ」と頰ずりする感触を思い出す。夜、髪をとかしてくれる母が、時折無言で背中から抱きしめてくれる温かさも、よみがえる。


(わたしはまだ子どもだからわからないけれど、とてもお辛い思いをされたんだわ……)


 胸が苦しい。今日出会ったばかりだけれど、なんとか力づけてあげたいと思う。だがいったい自分に何ができるだろう?


(少しばかり知恵が回るからって、なによ。やっぱりわたしは何にもできないんだ……)


「リンネ」

「はい」

「お顔を見せてくれないかしら?」

「えっ?」


 驚き、うつむいていた顔を上げると、椅子から腰を上げた葉桜の典侍が、リンネの頬に手を伸ばしていた。


「ふしぎな、きれいな色をした目ね」

「はい」

「お顔立ちが……似て……」


 そこでまた葉桜の典侍の目が遠くなる。

 ここでない何かを見る、望郷のような目。


「えっと?」

「あ、ごめんなさい。なんでもないわ」


 取り繕ったように彼女は微笑み、伸ばした手をなぜかリンネの頭の上にやった。


「いい子いい子」

「はっ、葉桜の典侍さまっ!?」

「リンネは賢い子なのね」


 確かに身分の高い方ではあるが、ニコニコと微笑まれる葉桜の典侍は、まるで普通の母親のようである。


(親しみを覚えてくださるのは嬉しいけど、なんだかくすぐったいな……)


 その後もなんだかんだと引き留められて、結局兄と帰宅することになった。



 アシュレイ邸の迎えの車に乗り込みしばらくしてから、一緒に車に乗り込んだイツキに犯人が見つかったと聞かされた。

 やはり葉桜の典侍と同じ、お后女官の侍女らしい。


「藤宮の典侍と浅緋あさひの典侍のおふたりは、京都におられる頃から実家ぐるみで相当犬猿の仲でな。藤宮の典侍の侍女が、人目を盗んでお百度の水垢離をしていると知った浅緋の典侍の侍女が、それを止めようともみ合いになり、発作的に首を絞めてしまったらしい」

「そうなの……」


 たかがおまじないではないかと思うのは、英国人の父を持つからだろうか。だがそうだとしても、お内儀に足を一歩踏み入れてその独特な空気を知った今は、馬鹿馬鹿しいと笑うことはできなかった。

 公家の姫に仕え、お内儀に入り、結婚もせず、一生を捧げる。儀式としきたりで歴史を紡いできた宮中では祈りは全く意味合いが違うのであろう。

 せめて藤宮の典侍が忠義の侍女の菩提を慰めてくれれば良いと思うリンネである。


「ただな、髪を結っていた組紐で絞めたあとは、恐ろしくなってその場から逃げたと話している。お上の湯船になど運んでいないと言うのだ」

「じゃあ誰が運んだの?」

「わからぬ。そもそも皆、錯乱した侍女が己の罪を告白しただけで満足しておるからな。運んだことも忘れておるのだろうと納得しておる」

「そんなの変だわ。侍女が死んだのは女官たちの住む局なんでしょ? そこからお湯殿まで女性を運ぶのなんてものすごく大変でしょ? 女の手で、しかも人目を盗んで簡単にできることじゃないわ」


 言い募るリンネだが、イツキは眉間のシワも険しいまま首を横に振った。


「お上が二人のお后女官をお側から離すことをお決めになった。また新しくお后女官が公家の姫から選ばれる。宮中から穢れは祓われ、新しい風が吹き込む」

「だから終わりなの……?」


 殺人事件が起こり犯人が見つかった。喧嘩両成敗でお后さまたちは宮中から追放され、そしてまた姫が選ばれ、やってくる。

 リンネには、その姫たちがまたお世継ぎをめぐって争いを起こす絵が容易に想像出来た。


「同じことの繰り返しなのね」

「そうだな。せめてお世継ぎがいらっしゃれば良いのだがな」


 そして、イツキは珍しく後部座席のシートに背をもたれ目を閉じた。その表情は厳しい。


「リンネ」

「なに?」

「お前が一番気にしていることだが……。陸軍にいる友人にハルのことを頼んだ。ヘンリー・マスグレイヴは英国でも名の知れた貿易商の息子でもあり、大使の大事な友人でもあるから、決して怪我をさせたり、手荒な真似をしないと約束してもらった。彼は皇族だから近衛師団に抑止力が効くのだ」

「兄さま……」


 兄の言葉にじわっと胸が温かくなる。


「ありがとう」

「うむ。だが友人も、ハルが逮捕された理由はよくわからないと話していた」

「えっ?」

「近衛師団は皇族をお守りする軍隊だからな。秘密事項も多いのだが……」


 ため息とともに、眉間のしわがさらに深くなる。


(とりあえずハルのことは大丈夫かな……。それにしても兄さまかなりお疲れみたい。っていうか、もしかしてわたしのせいで処罰とかあるんじゃないかしら……)


 ハルのことで頭がいっぱいで、そのことを失念していた。

 後悔はしていないが、今更ではあるが兄に申し訳なく思う。


「兄さま、ごめんなさい」

「ん?」


 何事かと目を開けるイツキ。その少し疲れの見える切れ長の瞳を見上げて、リンネはゆっくり頭を下げた。


「わたし、ハルの無実を晴らさなきゃってそのことにばかり必死で、兄さまにすごく迷惑かけたわ」

「リンネ……」

「もし、兄さまがなんらかの処罰を受けるっていうんなら、わたしが変わって受けるわ。問題を起こしたのは兄さまじゃなくてわたしだもの。菊香院に相応しくないのなら、辞めてもいい。もちろんおすそもちだって辞退するつもり」

「馬鹿なことを。そんな必要はない」


 少し呆れ混じりの兄の言葉に、リンネは首を振る。


「冗談で言ってるんじゃない、これ以上兄さまに迷惑かけたくないの、だからっ、ちゃんと自分のことは自分で……!」


 その瞬間、大きな手でリンネの頬が挟まれる。


「リンネ、俺の話を聞け」


 そして涙目の妹の顔を覗き込む。

 落ち着いた声と、優しいトーン。軍人らしさを脱ぎ捨てた、誰よりも優しい次兄の声だった。


「お前に迷惑をかけられたなど一度も思ったことはない。なぜなら俺たちは家族で、助け合って当然だからだ。お前は俺の大事な妹だし誰がなんと言おうとこれからもそうだ。だからリンネ、兄を頼れ。一人でなんとかしようなどと思うな」


 そして、珍しく、本当に珍しく、イツキはきつい表情を緩めてリンネの額に唇を寄せた。


 普段軍人であることを何よりも大事にしている兄の気遣いに、さらに涙腺が緩んでしまう。

 そういえばリンネが今よりもずっと幼い頃、兄たちは形は違えどいつもこうやってリンネを抱きしめていた。両親だけではない。兄たちもまた全身全霊で、お前はここにいて良いとリンネを愛し、認め、慈しんでくれているのだ。

 愛されているとわかっているつもりだったが、結局自分の不安定なところばかり気にしていた自分が情けない。


(もう変なこと考えるのはやめよう)


 そして兄の腕の中に飛び込んだ。軍服の胸に頬を押し付けながら、リンネは涙をぬぐう。


「リンネ?」

「……なんでもない。なんでもないの」



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