救いの手
「あ、あなたは……」
さすがのイツキも驚いて、思わず立ち止まる。担ぎ上げられたリンネも目を見張った。
「葉桜の典侍!」
顔をレースの扇で隠してはいるが、清冽で清々しい凛とした佇まいは数時間前に見知ったものだ。
そう、衣擦れの音も優雅に姿を現したのはお后女官である葉桜の典侍だった。
しかしなぜ彼女がここにいるのか。一応彼女の背後に女官が二人控えていたが、明らかに怯えた様子で、葉桜の典侍よりも先に倒れてしまいそうな様子である。
それも当然だろう。ここは死体がある場所なのだ。
(どうして、お后女官がこんなところに……?)
「葉桜の典侍! 近づいてはなりませぬ!」
声を聞きつけたらしい侍従長が慌てたように飛び出してきて、彼女を押しとどめようと両手を突き出した。
帝のお側に侍る后はケガレに触れてはいけない。
彼が焦るのも当然だった。
「お上は外美子さまのところへ行かれました。とりあえず当分の間あちらで御過ごしになるおつもりのご様子。その間のお世話は皇后さまの女官がいたします。わたくしは必要ありません」
「それはそうかもしれませんが、しかしっ!」
「御黙りなさい。わたくしにはわたくしのルールがあるのです。それでもわたくしを止めたいのならお上に奏上なさい」
「くっ……ではそうさせていだだきましょう! いくらお后さまでもご無体がすぎる!」
侍従長は怒りに顔を歪ませながら、ドスドスと奥へと向かっていく。
(いったいどういうことなの?)
わけがわからない。
そこで葉桜の典侍は扇を下ろし、イツキに担がれたままのリンネを見上げた。
「リンネと申しましたね」
「は、はい……」
「さきほどそなたが言っていたこと、わたくしに説明できますか?」
「えっ……?」
「このままでは、侍女が報われぬと言っていたことです」
なんということだろう。
お后女官である葉桜の典侍が、侍女の死因について聞きたいと言っているのだ。
いったいなんの理由があって知りたいのかわからないが、これはまさに天の助けではないか。
「はい、できます!」
「では参りましょう。上條、彼女を下ろしなさい」
「っ……はい……」
一方イツキは混乱していた。
あと数分彼女がやってくるのが遅ければ、リンネを自宅に返すことができていたはずである。なんと間の悪いことか。
そして我が妹を危険なことに近づける、葉桜の典侍という一風変わった女性を内心御恨み申し上げたが、彼はまた同時に帝国軍人でもある。侍従武官として命令は絶対であった。
仕方なくリンネをそっと廊下に降ろす。それでもリンネの肩にはイツキの手がのっていたが、それもやがて外された。
(ごめんなさい、兄さま……)
帰宅したら兄の肩でも揉んであげよう。
そんなことを考えながら、改めて葉桜の典侍に向き合った。
「さぁ、参りましょう。そしてわたくしに説明してちょうだい」
「はいっ!」
侍女をその場に残し、葉桜の典侍はリンネと二人で湯殿へと足を踏み入れた。
そこに所在なさげに立っていた御典医は、戻ってきたリンネと葉桜の典侍を見て飛び上がらんほど驚いたが、恭しく一礼しただけだった。
(でも、いくら肝が据わっている方といっても、元は公家の姫様のはずよね。倒れたりしないかしら? そうなる前になんとか分かってもらわなきゃ)
「葉桜の典侍。明らかにおかしい点があるのです」
リンネは侍女の遺体の背後に立った。
「どこがおかしいのです?」
「湯の量です」
「湯の量……どういうこと?」
「少なすぎるんです」
そしてリンネは、侍女を見下ろした。
「彼女の全身を見ると着物から髪の芯までぐっしょり濡れている。でも湯船には数センチしかお湯が溜まっていない。頭から慎重に水を被ったとしてもあきらかに釣り合わない」
「あ……」
葉桜の典侍が目をみはる。
「なにより湯船の内側がまったく濡れてないんです。だから栓が緩んでお湯が抜けたわけではないと思います。なのに彼女はなぜ全身濡れているのか……そこがこの事件の鍵なんです」
そしてリンネは葉桜の典侍を通じて、湯を運んでいた八瀬童子を呼び戻してもらった。
「彼女の遺体に気づいたのはいつですか?」
「お湯を脱衣所に運んんでいた時だよ……」
「あなたたちが直接湯船に注ぐのではないのですか?」
「ああ。そもそも俺たちはあっちのお湯殿に入れない決まりになっているんだよ。隣の脱衣所まで運ぶだけさ」
そこで、リンネと八瀬童子の会話を聞いていた葉桜の典侍が助け舟を出す。
「八瀬童子が運んできたお湯は女官の手で湯船に運ぶのですよ。そうやって、清と次を区別するのです」
「なるほど……」
次は不浄を意味するらしい。ようやくここで『つぎ』の意味がわかった。宮中では日常のあらゆる場面で清浄と不浄は分けられると聞いてはいたが、お湯を運ぶ人まで区別されるとは驚きだった。
八畳間に、蛇口もない、湯沸かしもない、檜の湯船だけがぽつんとあるのはなんとなく寂しく見えるが、やんごとなき方にプライベートなどないのだろう。
(きっとお風呂もゆっくりできないんだろうなぁ……)
あまりにも遠い存在であるメイジ帝だが、お風呂大好きなリンネとしてはさすがに同情申し上げたいところだった。
「でね、何度か行き来をして……ふと、湯船の中に人が座ってるって気づいたんだよ。恐れ多くも陛下のお入りになる湯船だ。こりゃあ、侍従職出仕のいたずらかと思って後ろ姿に声をかけたけど動かなくて……それで注意しようと、中に入って……」
「遺体に気づいたんですね?」
「そうだよ」
「ではこの遺体はあなたがここにお湯を運んでくる前からあったと考えていいのでしょうか」
「そうだねぇ。お湯だって一人で運ぶわけじゃないからね。今日は二人で運んでいたから、二人の目を盗んで忍び込むってのは無理があると思うよ」
「ちなみに昨日はお風呂に入られたのですか?」
「いや、冬は滅多にお入りにならないよ。そもそも一日に何度も体をお清めになっているし、この風呂は庶民と違って体を温めるものじゃないからね。今日は久しぶりだったよ」
「そうですか……。ありがとうございます」
リンネは八瀬童子に礼を言い、そして葉桜の典侍に向き合った。
やはりそうなのだ。
髪までぐっしょりと濡れていること、それがリンネの感じた違和感の正体だったのだ。
湯船の中の水は彼らが用意したものではない。
「彼女の死因は御典医の見立てだと縊死だそうです」
部屋の隅に控えていた御典医に目を向けると、彼は葉桜の典侍に向かって黙ってうなずいた。
侍従長が事故として処理すると言った以上、それ以上言及するのは難しいのだろうが、リンネとしてはそれで十分である。
「この湯船の中で溺死したわけではないのですね?」
葉桜の典侍はそこで白魚のような手を湯船にかけた。その眼差しは苦悶の表情を浮かべた侍女に注がれている。
「はい。幼い子供なら水深十センチで溺れることはあるそうですが、大人ですし、この水量ではどうやっても無理です」
「ではここで……その、絞殺されたということなのですか」
「ここではない、どこかでです。彼女はここでないどこかで絞殺され、理由があってここに運ばれたんです」
「リンネ。そなたはそれがなぜかわかっているのですね」
「はい、葉桜の典侍。彼女がずぶ濡れになっていた理由……話を聞いて確信しました」
「なんなの、教えてちょうだい」
すこし焦れたように葉桜の典侍がリンネに詰め寄る。
リンネは緊張しながら、先ほど御典医に落とされたハンカチを拾い上げた。
「彼女は……水垢離をしていたんだと思います」
「えっ?」
「水垢離です。頭から水を浴びて、神仏に祈りを捧げる、水垢離です」
そしてもう一度、ハンカチを侍女の顔に乗せる。
「この侍女はもしかしたら葉桜の典侍と同じご身分の方にお仕えしていませんか?」
「ええ。わたくしと同じお后女官の一人に……。ああ、だからそなたは水垢離だと……!」
葉桜の典侍はハッとしたようにレースの扇子で顔を覆った。その瞬間、彼女には全てが理解できたのだ。
「かわいそうに……」
沈痛な声に、リンネもどう答えていいかわからず黙り込む。するとそれまでひたすら沈黙を守っていた御典医がおそるおそるリンネに問いかけた。
「……全く話が見えないんだが、どういうことなのかね」
「えっと……」
どういったものかと一瞬決断しかねたリンネだが、相手は御典医である。いずれ耳に入るだろうし、なにより全くの無関係でもない。話しておくことにした。
「彼女は、自分がお仕えするお后女官様のご懐妊を、神仏にお祈りしていたのではないでしょうか」
「なにっ!?」
このメイジ宮殿で、真冬にもかかわらず侍女が水垢離までして叶えたい願いといえば、自ずと答えは絞られてくる。
「帝は過去数回お子様がお生まれになりましたが、いずれも姫様で、しかも幼くしてみな亡くなっています。不敬ながら帝がまだ三十代でお若いとはいえ、お世継ぎはやはり急務ですよね。お后に近い侍女ならやはり、神仏にすがることもあるのでは?」
「ううむ……」
御典医は分厚い眼鏡の奥の目を険しくした。
「確かにお后様からご相談は受けたことがある……。そうか、そう言われてみればこの侍女は見覚えがあるな。おそらく姫のお輿入れに本家から共に参った生え抜きの侍女だろう」
「あと、おそらく彼女は深夜未明行方不明だったんじゃないでしょうか。水垢離を日中やる意味ないですし」
「だとしたら、そこですでに隠蔽されていた可能性がありますね」
青ざめた葉桜の典侍はきつく己の指を握りしめる。白い指がさらに白くなり、彼女の動揺が手に取るように伝わってきた。
御典医は「面倒なことになったな……」と深いため息をつく。
メイジ帝に男子のお世継ぎがいないことが原因で、どこよりも清らかであるべき御内儀が穢れる。しかもお后女官となれば堂上公家、つまり昇殿を許される身分の高い公家の姫である。結局始末は秘密裏に行われるだろう。
「とりあえず侍従長に報告しよう」
「はい」
腹をくくったらしい御典医は、しっかりとした足取りで御湯殿を出て行った。
残された二人は、なんとなく顔を見合わせる。
葉桜の典侍。彼女もまたお后女官の一人である。
(もしかしたらこの美しい人だって、悩んでいらっしゃるかもしれないわ)
「すっかり体が冷えたわね。わたくしの局に来てちょうだい。お茶をご馳走するわ」
リンネの視線の意味を読み取ったのか、それともわざと気づかないふりをしているのか。くすりと葉桜の典侍は笑い、パチンと扇子を閉じた。