諦めない
リンネが身を絞るようにして出した、細い声だった。
けれどその悲痛な声は確かに兄と侍従長に届き二人をひどく驚かせた。
「何を言っているんだ、リンネ……」
「これは遊びではないのですよ」
「遊びじゃないなんて、わたしだってわかってます!」
何を言うのかと呆れる大人二人に、リンネはその燃えるように煌めく眼差しを向けた。
「近衛師団はハルを連行したのでしょう。確かに御内儀に侵入したハルは厳重に注意されて然るべきかもしれないけど、彼は許可を得てメイジ宮殿にわたしと一緒に通っていたんです。本来なら逮捕されるほどのことではないですよね?」
「ううむ、まぁ、そうですね……」
「死因も明らかではない。確かに近衛師団の強権とも言えるか」
「近衛師団はハルを犯人にしたいんだわ。それが簡単だからよ。すんなりハルを解放するとは思えない。だからわたしがハルの無実を証明してみせます」
二度目の宣言は、ずっと大きな声が出た。
ああ、でもいったい自分に何ができるというのだろう。自分がただの女学生にしか過ぎないことは重々承知している。何もできないかもしれないし、むしろ悪い方向に転がるかもしれない。
けれどやらねばならないのだ。他ならぬ幼馴染のために、彼の無実を晴らさなければならない。
「リンネ、お前……」
確固たる鉄の意志を感じさせるリンネの言葉にイツキは息を飲む。
だが、もちろんハルのことは気がかりだが、兄として妹をそんな面倒ごとに関わらせるつもりはない。彼にはリンネを守る義務がある。
「ハルは英国人であるのだから、父を通して根気よく交渉を続ければいずれ解放されるはずだ」
「もちろんお父様にお願いはするつもりよ。だけど軍隊がそう簡単に開放してくれる? いくらお父様から外務省を通したところで、陸軍に命令なんてできないわ。せいぜい勧告か要望でしょう。そんなことしてる間にハルが拷問でもされたらどうするの」
「うむ……」
先ほどの動揺はいまのリンネに微塵も見えなかった。
「兄さま、わたしを子供扱いしないで。誤魔化さないで。軍人の兄さまならハルがどんな扱いを受けるか想像つくはずよ」
リンネはくるりと踵を返し、遺体へとつかつかと近づいていく。そして湯船に両手をかけ、ぐっと身を乗り出すようにして侍女の姿を上から覗き込んだ。
リンネには、この部屋に入った時から違和感があったのだ。
それは『湯殿に死体がある』という事実だけでなく、『この状況にハルが関係していると考えるのは理屈としておかしい』と感じるはずの何かである。
けれどそれがはっきりとわからない。喉の途中に何かひっかかっているのに出てこい。そんなもどかしさすら覚える。
(考えるんだ。観察するんだ。それがわかればきっと解決の糸口になる……!)
侍女の顔にハンカチをかけたせいもあるだろうが、リンネの頭からは死体の恐ろしさなど吹っ飛んでいた。
リンネの瞳がさらに強く輝き始める。
ぴったりと体に張り付いた白の丸袖に緋袴。細い首はまるで紙のように白い。対称的に水に濡れて黒々とした髪は解け、首のあたりに張り付いていた。
(うん……?)
そっと手を伸ばし指先で顎のあたりの髪を避ける。すると、赤い一本の細い線が首をぐるっと回る形で残っていた。
「首をつった?」
湯殿の天井を見上げたが、紐のようなものはぶら下がっている形跡はない。そもそも御湯殿の天井には梁などむき出しになっていないのだ。さらに湯船の中も確認したが、ひも状のものは発見できなかった。
「リンネ、何をしているっ!」
「ああ、兄さま。見て、首に赤い跡があるの。でもどこで首を吊ったのかしら。天井は無理だし……この中、普通の湯船に見えるけどどこかに引っ掛けるような出っ張りがあるのかしら」
いたって真面目な表情で、リンネは湯船の中に手を入れて内側を撫で回したが、ヒノキ造りの湯船は、玉体を傷つけぬよう磨き上げられている。
「そんな出っ張りはなさそうだわ」
残念そうにつぶやくリンネを見て、兄は今にも卒倒しそうな表情で妹の説得を試みる。
「もう直ぐ医師が来る、検分はその者に任せよ。お前がそのようなことをする必要はないのだ」
「……兄さま、邪魔するならもうあっちに行ってください」
声を荒げるでもなく、リンネは静かに言い返し、今度は侍女の正面に回った。
彼女は膝を軽く曲げ、俯き加減で弛緩したように座っている。湯は彼女の足首ほどしか溜まっていない。そしてすっかり冷めていた。
「兄さま、帝はもうお風呂は終わられていたの?」
「いや、まだこれからのことだったらしい……」
最愛の妹にあっちに行けと言われたイツキは苦虫を噛み潰したようなまま答える。
「八瀬童子と呼ばれる彼が御湯をここに運びに来て侍女を発見したのだ」
「御湯を運びに来て?」
八瀬童子というのはあの白い上下の仕人のことだろう。手桶を抱え腰を抜かしていた姿を思い出す。
それからリンネは自分の手のひらに視線を落とした。
(御湯を運びに来て……)
「お二人ともそこから離れてください」
そこへ、侍従長が白衣を着た男性連れて湯殿に入ってきた。イツキの言っていた医者だろう。仕方なくリンネは無言で立ち上がり、湯桶から一歩離れた。
「御内儀でこんなことがあるとはな」
丸眼鏡をかけた医者は何度もメガネを押し上げながら、イラついたように侍女を見下ろした。
「なんだこれは」
指先でリンネがかけたハンカチを持ち上げる。
「わたしがかけました。かわいそうだったので」
「ふんっ……こんなところで死ぬなんて迷惑極まりない女だ。そんな奴に情けなどかける必要はない」
ハンカチを床に捨て、雑な手つきでペンライトで瞳孔を確認し、脈をとる。そして口を強引に開けさせて口の中を照らし、首のアザを確認した。
「うむ……」
「あの、死因はなんなのでしょうか」
難しい顔をした医者にいてもたってもいられなくなり尋ねる。
「胃を調べねばわからんが、水を飲んだ様子はない。おそらく縊死だろうな」
「縊死……首を絞められて殺されたということですか?」
「いえ。これは病死で、事故死です」
医者よりも早く、そう答えたのは侍従長だった。
「え?」
自分の聞いた言葉の意味がわからず、何度も目をパチパチさせるリンネ。
「今、縊死だって……」
「それでいいですね、御典医殿」
「はい、それでよろしいかと」
雑な態度を一変させ、うやうやしく頭を下げる御典医に開いた口がふさがらない。
(うそ! いま、縊死って言ったのはなに!? あなたそれでいいの、典医としての誇りはないのっ!? なんなのよこれ、明らかに色々変なところあるのに、なんだかんだで病死ってことにしちゃうってこと!? おかしいわよそんなの、まるで茶番じゃないっ!)
怒りと混乱で頭にカーッと血が昇る。何か言ってやろうと口を開きかけた瞬間、隣に立っていたイツキが、軽くリンネの背中に触れていた。
顔を上げると、なんとも言い難い眼差しである。兄の瞳にもこの理不尽な状況を納得していない光が見て取れた。
「兄さま……」
そう、理不尽で、茶番なのだ。兄はそれを理解している。そして宮中では起こりうる事態なのだ。
だが、やんごとなき場所で起こった不測の事態というものは、こうやって丸く収められてきたものなのかもしれない。
だったらと、気持ちを切り替えリンネは尋ねた。
「では……ハルは、直ぐに釈放されるんですよね?」
それが筋というものだろう。そうであればリンネもいろいろなことを飲み込むことができる。
「それとこれとは話が別です」
「えっ!?」
「御内儀で殺人などありえませんが、だとしても侍女が錯乱状態になり自死したことに無関係かどうかわからない」
「そんな……」
まさか、そんなことがあるだろうか。事故死だと言いながらその責任を外国人のハルに押し付けているように聞こえる。
「侍従長。恐れ入りますがお尋ねします。それはどういうことなのでしょうか」
言葉の出ないリンネの代わりにイツキが問いかける。侍従長は無表情で体の前で腕を組んだ。
「この侍女は二十年御内儀で働いていたのですが、最近は気落ちした様子だったと、同じ局の者が申しておりました。長く勤める間に帝に御仕えする気力を失っていたのでしょう。だが、だからと言ってこのような不敬な真似をするほど軽率でもなかったはず。としかしたら、外国の思想にでもかぶれていたのかもしれませんね」
(もしかしてハルが怪しげな思想を振りまいたせいってことになりかけてる? はぁ!? なんでそんなことになるの!?)
想像すらしていなかった侍従長の発言に頭がぐらぐらした。
無茶苦茶だ。荒唐無稽だ!
「ちょ、ちょっと待ってください! いくらなんでも話が飛びすぎてませんか? ハルがここに来たのは今日で二回目ですよ!?」
反論するリンネを侍従長は見据える。
「そうでしょうか。少年をメイジ宮殿の近くで何度か見たことがあると言う者が複数人おります」
「そっ、それは……わたしの屋敷からここまでそう離れておりません、外国人だし、目立つかもしれません、だけど彼がこのあたりを歩いていたからってどうやってそんな突拍子もない話になるんですか!」
「それを調べるのは近衛師団の役割です。これでこの件は終わりです」
「そんな……」
決して大きな声ではなかったが、メイジ宮殿のすべての実務の責任者であり、もっとも帝に近く、絶大な信頼を得ている侍従長である。さすがの迫力にリンネも気圧されてそれ以上言葉が出ない。
(変だわ……。おかしい。何もかもが急よ。まるで侍従長と近衛師団で、ハルを拘束する理由をこじつけて作ったみたい……)
だがそんなことが起こりうるだろうか。
父親は英国でも指折りの貿易商、母親はインドのマハラジャの姫ではあるが、ハル自身はごく普通の英国人だ。政治的に利用される立場ではないし、つい先ほども外務省と軍隊は全く相いれないとしたばかりである。
彼らが協力してハルを拘束する意味がわからない。
(いったいなにがどうなってるのっ!)
地団駄を踏みたいくらいである。
けれど侍従長は冷酷に言い放つ。
「上條、今日の宿直はもう宜しい。妹御を連れて帰宅しなさい」
丁寧ではあるが程の良い厄介払いであった。
「……はっ。失礼いたします」
命令を受けイツキは折り目正しく一礼し、リンネの手首を電光石火の速度でつかむ。
「ちょっと、兄さまっ?」
「駄目だ」
即答だった。
たとえ妹に嫌われようとも守ることを優先すると決めたようだ。イツキとてハルのことは気になるが、やはり父に相談するしか手はないのである。
「さぁ、自分と一緒にすぐに帰るのだ」
イツキは散歩から帰らないと駄々をこねる子犬のように、全身で抵抗するリンネの腕を引く。
「や、やだっ、待ってよ、気になることがあるのよ、何かがおかしいのよ! 今ここで帰ったらそれが証明できなくなっちゃう!」
そんなリンネの悲痛な叫びも虚しく、イツキは問答無用で胴の下に軽く身をかがめ、彼女をそのまま担ぎ上げてしまった。
「兄さまっ?」
グンと体が持ち上がり、天井が近くなってようやく自分の状況が理解できた。
「降ろして〜!」
両手で兄の背中を打つが、イツキにはダメージはまるでない。むしろ彼は「さっさとこうすればよかったのだ」とほっとした様子である。
その瞬間、リンネの目に俯瞰した湯船が目に入った。
湯船の中の侍女。
転がった手桶。
「兄さま、変だわ!」
瞳が赤みを帯びた黄金に輝き、思考がフル回転し始める。今ようやく小さな違和感が繋がり、一つの結果を導き出したのだ。
だが兄に妹の話を聞くつもりはない。湯殿から脱衣所、廊下へと出て行ってしまう。
「もうっ、兄さま、お願いだから話を聞いて! あの侍女はここで死んだんじゃないんだわ、ここに理由があって運び込まれたのよ!」
「む……?」
リンネの発言に一瞬耳を傾けたイツキだが、ここでまた話を聞いては同じことの繰り返しとわかっているようで、むしろしっかりとリンネを抱きかかえ直した。
「屋敷で聞く」
「だめっ、ここじゃないと駄目なの、わかってよ! 今確認しとかないとあとで偉い人たちに誤魔化されちゃうかもしれないの、そしたらハルは解放されないし、なによりそんなんじゃあの侍女だって報われないわよ! 大変な宮仕えを頑張っていたのにこんな風に死ぬなんて、兄さまは可哀想だって思わないのっ!?」
御内儀ということを忘れて叫ぶリンネ。だがイツキは「何も聞こえぬ」とあからさまにとぼけている。
(もうダメなの? このままおとなしく帰らなきゃいけないの!? せっかく何かを掴みかけたところなのに、そんなの納得できない!)
悔しさのあまりうっすらと目に涙が浮かぶ。
そこに一人、一陣の風のように近づく影があった。
「今の話、わたくしに聞かせてちょうだい」