ハル、捕縛される
リンネは息を切らし一直線に走った。
鶏の杉戸から御内儀を区切る鶯の杉戸まで約二百メートル。それほど長くないはずなのに、この暗闇が永遠に続くかのように錯覚するのは、その不思議な佇まいのせいだろう。
蝋燭に照らされた廊下は太陽に照らされた昼間の粗を隠し、メイジ宮殿をより一層神秘的に見せる。実に幻想的な景色が広がっていたが楽しむ余裕はなかった。
鶯の杉戸の前に侍従職出仕詰所があるのだが騒ぎのせいか人はいない。リンネを止めるものはいないということだ。
思い切って扉を開け周囲を見渡した。
御内儀の廊下は全て畳敷きで絨毯が敷いてある。一般的な廊下よりもかなり広く、あいだあいだの空間を、自立するドアや御簾で仕切っている。権典侍などの女官が陛下のお世話のために待機する詰所的空間なのだ。
(やっぱりここは帝の居住スペースのすぐ側なんだ。)
緊張で息が苦しくなる。
「ハル! どこにいるの!?」
とりあえず叫んでみたが返事はない。
「もうっ、どこにいるのよっ! ハルのバカッ!」
八つ当たりで叫んでみたがもちろん返事はない。だが離れにある湯殿は案外すぐに見つかった。
古式ゆかしい和装姿の女官たちがかたまりになって騒いでいたからだ。
「ああ、なんてこと……!」
「こんなことが起こるなんて!」
彼女たちのほとんどが和装だった。実際気を失っているのか、うずくまっている女性も複数人いる。
(この奥だ!)
「すみません、通ります!」
ぐいぐいと、強引に彼女たちを掻き分ける。誰かに止められるかもと危惧したが、この状況で誰もリンネのことまで構っていられないようだ。目的の場所にすんなり入ることができた。
御内儀の離れにある御湯殿は、八畳敷の脱衣スペースとほぼ同じ大きさのお風呂のスペースの二つに分かれていた。
(これがお風呂? 蛇口もないわ。想像してたのと全然違う。家にあるような普通のお風呂ではないのね)
珍しさも手伝いしっかりと観察してしまう。
脱衣スペースの真ん中の二畳だけ一段高くなっているのは、帝がその上に御立ちになるためだろう。お風呂のスペースには檜でできた円形の湯船だけが置かれている。
(あれがお風呂? あの中に浸かるのかしら……。)
ふと、湯船の中にちらりと人影が見えた。
(まさか、しっ、死体!?)
恐ろしくなってとっさに目をそらす。
そしてその向こう側に、兄と、腰を抜かしたように座り込んでいる白袖の着物に袴姿の男性が見えた。兄と一緒に御内儀へ向かった侍従長の姿はない。帝のところに向かったのかもしれない。
「兄さまっ……」
難しい表情で立っている兄に声をかけると、彼はリンネを見て信じられないと言わんばかりに目を見開き、凛々しい眉根を釣り上げた。
「なぜ来た!」
「ごめんなさい、ハルがいないの、だからもしかして何かに巻き込まれたんじゃないかって心配になって」
「ハルが?」
「そう、さっきまでおすそもちのリハーサルを見てたのよ、でも急に姿が見えなくなったの」
「勝手気ままなハルのことだ、ぶらついておるのだろう。それよりもこんなものを見てはいけない。すぐに戻るのだ!」
兄の言うことは至極真っ当だが、とにかくハルの顔を見るまでは引き下がるわけにはいかなかった。
「でも、向こうも誰もいないのよ。一人でいる方が怖いわ、わたしは男じゃないし、緊急事態でしょう? ここにいさせて、兄さま。お願い……!」
「うむ……」
表情が、軍人と兄の間で揺れ動いている。そもそも現場の責任者である判断を仰ごうにも侍従長の姿もないのだ。
結局、仕方なく「自分のそばから離れぬように」と、また湯船の中に厳しい視線を戻した。
「ありがとう」
礼を言い、兄の足元で手桶を抱えて震えている男性の横に立つ。格好からして、おそらく湯殿を管理する仕人の一人だろう。
リンネはそう判断し、改めて目の前の死体に目をやった。
事前に知らされていたとはいえ、湯船の中で倒れている女性の姿はあまりに衝撃的だ。現実味がまるでない。だが息があればこのままにしておくはずがない。
(本当に亡くなってるんだ……!)
足元がグラグラする。だがこんな場所で女官たち同様に倒れているわけにはいかない。
自分はハルを探さなければいけないのだ。そのためにここにきたのだ。
(怖い……けど怖くない! 怖くないったら怖くないっ!)
自分に言い聞かせ、唇を噛み締める。今度は目をそらさなかった。
年の頃は四十代後半くらいだろうか。丸袖の単衣に緋の袴は湯に濡れ、全身にべったりと張り付いている。これは人形ではない、人なのだと思い知らされる。生々しい。
先ほど、ちらりと見たときは表情までわからなかったが、その目はカッと見開かれ、口は大きく開けられている。明らかに苦悶の表情だ。
それほど大きくない湯船の中で膝を曲げ座っている。
「兄さま、この方はどなたなの?」
「高等女官の世話をする侍女の一人だ」
「侍女……」
帝に直接仕える高等女官は公家の娘たちに限られる。時代によって差はあれども、その数は約十人程度だ。そしてその女官たち一人一人にさらにまた十人程度の侍女がつく。
この哀れな女性はそのうちの一人らしい。
「だから、ほっ、本来ならこっちには入れない身分なんだよ」
「どういうことなんですか?」
口を挟んできたのは仕人だ。
「御内儀でも申の口を境にして、身分によって入れる場所とそうでない場所があるんだよ。ここは陛下の御湯殿で、入れる女官は命婦や権命婦までで、女官に仕える侍女は本来入れないんだ」
「じゃあどうして彼女はここで死んでるんです?」
「俺だってわからないよ。でも、ああ、まさか陛下の御湯殿でこんなことが起こるなんて信じられない……」
そして仕人はまた頭を抱えてしまった。まだあれこれ聞きたいことはあったのだが、「あー」とか「うー」と唸るばかりで詳しく話が聞ける状態ではなさそうだ。
「兄さま、申の口ってどこにあるの?」
「うむ……。この辺りである」
イツキは胸元から小さな手帳を取り出すと、ペラペラとめくって指差す。
手帳を覗き込むと、几帳面な兄らしく手書きでメイジ宮殿や御内儀の、簡単な見取り図と名称が書いてあった。
北に皇后居住区があり、南に天皇居住区がある。その間にあるのが申の口だ。そこには命婦詰所があり、おそらく関所のような役目をしているのだろう。
「陛下の居住区は、申の口で皇后さまの居住区と、鶯の杉戸で表と区切られているのね。そしてここの御湯殿は中庭を挟んだ東にある」
「うむ」
(じゃあ、ハルがいるとしたらやっぱり申の口よりこっちなのかしら?)
そしてリンネの思考回路が今まさに回転しようとしたその矢先、湯殿の外が騒がしくなった。
「上條、そこにいますか」
「はい」
侍従長の声だ。
イツキは一瞬、隣のリンネに視線をやったが、大丈夫という意味を込めてうなずくと、そのまま湯殿を出て行く。
「まっ、待ってください!」
座り込んでいた仕人も、這うようにしてイツキの後を追った。
(もしかしてわたしも出たほうがよかったかしら……)
ぽつんと残されてようやく死体と二人きりということに気づいたが、死体とは言え、彼女をほったらかしていくのに気が引けた。
おそらく長く勤めていたのだろう。侍女としてその生涯をまさに宮中に捧げたとも言える。
(可哀想に……)
ポケットからハンカチを取り出す。ひざまずいて、広げたハンカチをそっと顔に乗せる。胸の前でそっと十字を切って立ち上がった瞬間、
「リンネ!」
出て行ったはずの兄が血相を変えて飛び込んできた。
「どうしたの?」
「……ハルが」
「え?」
「ハルが、捕縛された」
何を言われたのかわからなかった。
「えっ、ハルが、なに……どうしたの」
「近衛師団に捕縛されたのだ」
「このえ、しだん……?」
近衛師団くらいもちろんリンネも知っている。帝とメイジ宮殿をお守りする、帝国陸軍師団のひとつだ。メイジ宮殿の北西にあり、全国から有能な若者が集められ結成されたエリート集団でもある。
だがどうしてもハルと、その近衛師団が結びつかない。
逮捕などまるで犯罪者扱いではないか。
「兄さま、なぜですか。ハルはただの迷子で、そんな、逮捕されるようなこと……してませんっ! 逮捕だなんて、そんな、おかしいです! そうだ、わっ、わたし、説明に行きます!」
「待て」
イツキが湯殿を飛び出しそうになるリンネの手をつかむと、リンネは激しく抵抗した。
「いやっ、離して!」
「リンネ、しっかりせよ、話を聞け!」
イツキはそのままリンネを自分の前に引き寄せる。
「ハルはもうメイジ宮殿にはおらん」
「じゃあどこにいるの?」
「近衛師団司令部に連行されたのだ」
「司令部……いま? もうここにはいないってことなのね」
「どうするつもりだ」
「司令部に行きます」
「駄目だ」
「どうして!」
「ただの女学生のお前には何もできん!」
「……っ!」
リンネの顔が強張るのに気づいて、兄は一瞬しまったという表情を浮かべたが、それでも一歩も引こうとはしなかった。
「ハルの容疑はおそらくこの騒ぎの元凶であろう。それ以外にはありえぬ」
「騒ぎって……」
リンネはこの一瞬忘れていた、湯船の中の女性のことを思い出す。
「まさかハルが関わってるっていうの!? 事故死じゃなくて、まさか殺したって思われてるの!? ハルがそんなことするわけないじゃないっ!」
強い怒りでリンネの瞳が赤く輝き始める。それはまるで夜の闇の中で煌々と輝く星のようにイツキの目に映った。
普段大人しくて優等生なリンネの怒りは、軍人であるイツキを怯ませる何かがあった。そして妹にこういう力があることを、兄は昔から知っていた。本人に自覚はなくとも……。
「わかっている、リンネ、頼むから落ち着いてくれ」
「これでどうやって落ち着けっていうの!」
そこにリンネの悲鳴に似た声を聞きつけたのか、侍従長が姿を現した。
「静かになさい。ここは御内儀ですよ」
「……申し訳ございません」
謝罪するイツキに黙り込むリンネ。侍従長は二人をともない、隣の脱衣所へと移動した。
「ヘンリーくんは御内儀で見つかりました」
「会えますか?」
一縷の望みをかけてリンネは尋ねたが、侍従長は苦々しい表情で首を横に振った。
「今は無理です」
「そんな……今はって、じゃあいつならっ……」
「わかりません。彼は御内儀で何をしていたのか。それを確かめるため捕縛されたのです」
「そんな……だからってハルが逮捕って……。違います、彼は無実です、すぐに保釈されますよね!?」
「わかりません。ですが彼は武器を持ち込んでいたということです。おそらく簡単には釈放されないでしょう」
「武器?」
隣で話を聞いていた、怪訝そうな兄にリンネは泣きそうになりながら訴える。
「きっとハルが護身用に持って来ていたS&Wだわ……!」
「あやつめ……」
重いため息を吐き出しいよいよイツキの眉間のシワが深くなった。
事態は悪くなる一方である。
リンネの我慢はすでに限界だった。気を緩めたら大声で泣きそうだ。
(ううん、泣いちゃ駄目! ハルはただの迷子よ。事故であれ何であれ、ここで侍女が死んでいることにハルが関係してるはずがない。でもわたしがいくらそれを訴えたところで近衛師団がハルを解放するかはわからない……。むしろずっと拘束されるかもしれない。どうしたらいい……?)
リンネはきりりと唇を噛み、肩越しに湯船の遺体を振り返る。
もはや物言わぬ彼女はなぜ御湯殿で死んでしまったのか、説明してくれたらいいのに……。
事故か、そうでないのか。
どうしてこうなったのか……。
だがそんなことはかなわない。
彼女はもうなにも言えない……。
その一瞬、ひらめきのような衝撃がリンネを包んだ。
「……だったら……わたしが、ハルが関係ないことを証明してみせます……っ!」