葉桜の典侍、登場
そして迎えた週末の夕方。授業を終え急ぎ足で帰宅し、ヘンリーとともにメイジ宮殿へと向かう。宮城前広場は、宮内省関係者か、仕事を終えて帰る大人たちで賑わっている。多少の緊張からかメイジ宮殿への道ゆきは先週より慎重になっていた。
石橋を渡り正門を抜け、メイジ宮殿へ入る。日が落ち始めていたので廊下はすでに薄暗くなっている。
侍従詰所がある御学問所はメイジ宮殿と廊下で繋がっているので、当然二人は宮殿の中を通っていくのだ。
ちなみに廊下は真紅の絨毯が敷き詰められていて歩く音はしない。多くの人が出入りする宮殿だが、静かに感じるのはそのせいかもしれない。
「前にも思ったけど、メイジパレスは中に入ったほうがステキだね」
辺りをキョロキョロしながらヘンリーが感心したようにつぶやく。
回廊は全部ガラス戸がはめこまれており、そこに間隔をあけて吊るしてあるランプの明かりが反射し不思議な様相である。
「そうなの!」
少し嬉しくなったリンネが声を弾ませた。
「メイジ宮殿の京都御所を模した和風の外観にシャンデリアのある内装は、一見西洋式に見せて実は和風なのよ。それがまたアラビアンナイトみたいで趣があるって、お父様も言っていたわ」
リンネの父は英国大使である。メイジ宮殿への出入りはかなり多かった。
「なるほど、扉はよく見れば漆塗りだし、床は寄木造りだ。ワヨウセッチュー。面白いね」
「ちなみに陛下や皇后さまの居住区であるお内儀の明かりはすべて蝋燭で明かりをとっているらしいわ。きっともっと綺麗よね」
女の子らしい発想で目を輝かせるリンネに、ヘンリーは不思議そうに首を傾げた。
「蝋燭? 電気を使わないのはどうしてだろう。見たところ設備は整ってるみたいだし、日々の手入れが大変だろうに何か意味があるのかな?」
「……そう言われればそうね。どうして使わないのかしら」
ヘンリーの何気ない疑問が気になり、思わず廊下の真ん中で立ち止まってしまった。
「オッケー、リンネ。推理してみよう」
ヘンリーは楽しげにパチンと指を鳴らした。
「推理?……うーん。そうねぇ……」
こんなところでと思わないでもなかったが、確かに気になる一件だ。
御学問所へと歩きながら、リンネは思考を巡らせた。
(とは言っても蝋燭を使うことにどんな理由が考えられるかしら……。金銭的なこと? それとも政治的な理由?)
「あ、わかった! きっとこれはマジックだよ」
悩むリンネよりも先に発言したのはヘンリーだ。
「マジック?」
「えーっと、オマジナイっていうのかな。以前本で読んだよ。宮殿には魔法使いが仕えててキングを守ってるんだって。この蝋燭もそうなんだよ、きっと。何かの意味があるけど素人にはわからないんだ。すごいね、かっこいいよ」
「なんだか色んなところがちょっとずつ突っ込みどころ満載ね、ハル」
きっとそうに違いないと感心した様子のヘンリーにため息をつく。
おそらくかつて京都を守った陰陽師のことを言っているのだろう。
いちいち指摘するのも馬鹿らしい子供じみた発想だった。
「違うかな? おかしいなぁ。いい線いってると思ったんだけど」
「はいはい……」
そしてリンネは、御内儀の、等間隔についているであろう蝋燭の灯りを、その蝋燭を女官たちが毎晩つけて回る姿を思い浮かべた。
廊下の端まで照らさない薄明かり。電気の明かりに比べて蝋燭の明かりはずいぶん心もとない。何をどう考えても不便に違いない。
だがここはそういう場所なのだ。
場所が違えどもここは京都時代からその精神は変わらないと聞く。父がたまに愚痴をこぼしていたが、陛下に拝謁を賜るのも大変らしい。
まず侍従に申し入れをし、侍従が今度は侍従職出仕に伝え、侍従職出仕が陛下にその旨お伝えする。伝言に伝言で、時間がかかって仕方ないのだ。
ちなみに侍従職出仕というのは十歳から十五歳までの菊香院の生徒たちで、公家の子弟たちである。週の半分は当直する決まりがあり、かなり特殊な存在だ。
貴族の子弟たちが幼い頃から宮廷に出入りするのは宮廷教育のならいであるから、たとえ効率が悪くてもそのルールは変えられることはない。けれど侍従職出仕はいずれ侍従となり、貴族院議員となり宮中を支えていく存在になるのである。
今、この瞬間の、効率だけでは通らない不思議な世界。
だとしたら……。
「そうね……プライベート空間でのみ意図的に手間暇かかる蝋燭を使っているということがポイントだと思うわ」
「というと?」
「ずばり、陛下のご希望ね」
「えっ、ただの希望なの? なんかこう合理的ではっきりした理由があるんじゃないの?」
「ううん。たとえばハルの言う通り、蝋燭が何かを兼ねているのなら、その何かの代用品である蝋燭を電気の代わりにするのは合理的ではないわ。オマジナイはオマジナイ、明かりは明かりで分けたほうがいい」
「む、確かに……」
「だから合理的な理由なんてないの。陛下はきっと電気がお嫌いなんだわ」
陛下が電気嫌い。もちろんリンネが本気でそう考えたわけではない。ヘンリーとの会話はジョークの延長のようなものだからだ。
だからこの会話も遊びでしかなかったのだが……。
「ふふっ。なかなか面白い発想ですね」
凛とした大人の女性の声が廊下に響く。
「えっ? あっ、わたしたちいつの間に!」
驚いて声のした方を探して、また自分たちが立っている場所に驚いた。
おしゃべりに夢中になっていたせいか、とっくに侍従詰所を通り過ぎていた二人は、お内儀へと通じる鷺の杉戸近くの廊下まで来ていたのだ。
この奥はお内儀。侍従職出仕でもない自分たちが足を踏み入れていい場所ではない。
回れ右をして逃げ出したい気分に駆られたが、今更そんなことができるはずもない。そして廊下の奥から一人の女性がしずしずとやってきた。彼女がリンネに声をかけてきた人らしい。
長い裾を引く洋風のドレス。たっぷりのレースと深緑色の生地が美しい。ウエストは固く引きしぼられて、全身ぴったりと体に添う作りになっている。供をつけず一人ではあるが、宮中で洋装なのは身分が高い証である。いずれにしろ名のある女官に違いなかった。(身分の低い女官は今でも京都時代の和装を続けている)
「もっ、申し訳ありません!」
リンネは蒼白になりながら頭をさげた。隣に立っていたヘンリーも、意味はわからなながらもリンネに合わせて、けれど彼らしく優雅に一礼する。
(どうしよう、勝手にお内儀に入りかけてたし、それよりも陛下のことあれこれしゃべっちゃった!)
泣きたいほど動揺していたリンネだったが、
「ほほ……。そのように固くならなくてもよい。それよりも先ほどのお前たちの話、面白く聞きましたよ」
女官はしずしずと廊下を歩いてなお硬直するリンネのもとに近寄ると、持っていた扇子をパチンと鳴らした。
「なぜ、お内儀は電気を使わず蝋燭であるか、ですね。答えはお前の考えた通りです」
「どういうことですか?」
一瞬、恐れ多いのも忘れて顔を上げてしまった。
「明治維新で陛下が京都から東京にお移りになったとき、旧エド城西の丸御殿が皇居となりました。しかし、一八七三年の明治六年、下女の失火により西の丸御殿は焼失します。ですからメイジ宮殿に移られた後も、火事になる恐れがあると電気を嫌った陛下が蝋燭の使用を命じたのです。ですから御内儀、御学問所の表御座所はいまでも蝋燭なのですよ」
女官の言葉は大変わかりやすく、リンネにもヘンリーにも納得のいく答えだった。
「へぇ……。なるほど、当たってるね。リンネすごいじゃないか」
話をきいて機嫌よくニコニコと笑顔になるヘンリーだが、だからと言ってリンネの冷や汗が止まるわけでもない。
(なんでハルはそんなに余裕なのー!)
ちらりと横目でヘンリーに視線をやった瞬間、我が目を疑った。なんとヘンリーは女官の手を取り甲に口付けるところだった。
「ヘンリー・マスグレイヴと申します。どうぞハルとお呼びください、美しい人」
(ちょっ、ちょっ、ちょっとー!!!!)
中庭の鷺に銃を向けようとした時も驚いたが、今回はそれ以上だった。もはや文句も出てこない。頭が真っ白になる。
だが当の女官はころころと鈴を転がすように「いややわ。子供やと思ったら紳士どすなぁ」と、言葉遣いを変え親しげに笑い、それからリンネにその眼差しを向けた。
舶来香水の香りがふんわりと漂う。黒々とした髪を結い上げ、皺一つない、切れ長の瞳をもった彼女は二十代に見えたが、同時に年齢がよくわからない公家出身らしい不思議な作り物めいた雰囲気もあった。
彼女の黒い瞳が自分に注がれていることに気づいて、慌てて自己紹介をする。
「申し遅れました、リンネ・アシュレイと申します。菊香院の二年生です」
「アシュレイ……?」
リンネの名前を聞いて女官の表情が少し変わる。
「はい。父は英国全権大使を務めさせていただいております」
「いつから」
「え?」
「そなたは、いつから、日本に?」
「えっと、もう十四年になります。わたしが生まれてすぐ英国から日本に来たそうです。赤ちゃんだったので全然覚えてはいませんけど、母や兄が言うには大変な旅だったとか」
「そう……か」
女官は持っていた扇子をドレスのベルトに刺すと、なんと、その両手をリンネの頬に置いた。
「なっ、なんでしょうか??」
驚いて目をパチパチさせるリンネ。
(わたしの顔に何かついてる?)
食い入るように見つめられて、一旦落ち着きを取り戻したはずのリンネの心臓が早鐘を打ち始める。
まるでリンネの瞳の奥にお宝でも眠っていると言わんばかりだ。
(ちょっと助けてよ、ハルッ!)
必死に合図を送ったが、なぜかハルはハルでリンネよりも女官をじっと見つめている。
(もーっ、美人だからって見惚れすぎだからっ! バカ! バーカッ!)
仲直りしたばかりだというのに、腹が立つやらなんやらでクラクラしてきた。だがそこに真の意味で救世主がやってきたのだ。
「葉桜の典侍、如何しました」
軍人らしいキビキビとした声は左手から聞こえてきた。海軍の軍服姿はリンネに見慣れた姿だった。
「兄さま!」
その瞬間、葉桜の典侍と呼ばれた彼女は、パッとリンネから手を離す。
「なんや、上條はんか……。あんまりにもこの子が賢くてかあいらしかったから、お顔見せてもらってただけや」
やんわりと微笑み、彼女は風に吹かれる柳のようにリンネの兄の横を通り過ぎる。
「またそのように供もつけずに……お迎えに上がった侍従職出仕の坊城はどうしました」
彼女のそんな様子に厳しい兄の眉間にさらに皺が寄る。
本人にその気がなくてもかなりの威圧感である。
「お内儀で用事を頼まれてます。小さいとはいえ男手は貴重やからな」
「葉桜の典侍……」
「ほほ……頼んだのはこっちや。坊城を叱らんといておくれやす」
「畏まりました」
助かったとホッとしたのもつかの間、なんと兄が明らかに困っていた。
珍しいものを見た気持ちで、そのままふわり、ふわりと表御座所へと向かう彼女の背中を見送る。
完全に後ろ姿が見えなくなったところで、リンネはいぶかしむ兄に問いかけた。
「兄さま、今の方は?」
「葉桜の典侍とよばれる三人の権典侍の内のお一人である」
「権典侍……って、じゃあお后さまってこと!?」
権典侍といえば実質女官の位は上から二つ目という大変な身分である。しかもその役目は帝の側室だ。
「うむ」
(ええーっ、ウソでしょー!!)
いったい今日という日は何度驚けばいいのか……。
葉桜の典侍の残り香の中、リンネは自分の頬に置かれた白い指の感触を思い出していた。
(そっか……あの方がお后さまの一人……。驚いたけど、いやな感じは少しもしなかったわ……。)