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信じてみよう


 なんとなく誰かに聞かれてはまずいという気分になってしまった二人は、リンネの自室に移動した。


「実際どうなの?」


 読書机の椅子にまたがり、背もたれに両腕を乗せるヘンリー。


「お手紙を渡せるかってこと? うーん……」


 自分はベッドに腰掛け、話しながら思考を整理してみることにした。


「皇后さまが御学問所にお姿を表す確率なんてまったく想像つかないし、それに賭けるのはギャンブルだと思うのよね。だけど新年祝賀の儀式の間、皇后さまや妃殿下のマント・ド・クールの長い裾を捧げ持つのがわたしたち『おすそもち』の仕事だから、皇后さまにも近づけると思う。お言葉くらいかわせるかも。でも……実際は誰が誰のお裾を持つのかもわからないのよ」

「だとすると、儀式の最中にお手紙を直接渡すことだって難しいかもしれないんだね」

「そうなの。だって、もし他の妃殿下の担当になったら、自分の仕事をほっぽり出す必要が出てくるじゃない。そんなの無理よ。一緒に組む人に迷惑かけちゃうもの」


 事前に侍従に知らされた内容によると、皇后のマントを持つのは四人、妃殿下のマントを持つのは二人と決まっているらしいのだ。参加者は二十人強だから、そのうちの四人になることは確率的には決して低くないが、もちろん絶対ということもないだろう。


「なるほど。なかなかの難問だなあ」


 ヘンリーは猫のように背筋を伸ばしながら天井を見上げた。


「……っていうか、そもそもこれ、どんなことが書かれているんだろうね?」


 千香士から預かった封筒をひらひらさせる。


「普通手紙って知り合いに出す近況報告だろう?」

「そうね。わたしだって白雪兄さまに送るし、ハルだって世界中から送ってくれるわよね。送りかえそうにも住所が書いてないことが多いけど」

「滞在期間が短いからね」


 クスリと笑うヘンリー。


「たまには返事を書きたいわ」

「検討しておくよ」


 リンネは手紙が好きだった。お気に入りの文具屋で便箋と封筒を買うのが趣味と言ってもいい。

 どんな内容でも自分のために時間と手間を割いてくれた、その気持ちがたまらなく嬉しくなるし、逆に誰かのことを思いながら書くのも好きだった。


「もしかして二人が知り合いとは考えられないかな」

「千香士と皇后さまが? 千香士の話を聞いた限りではそれはないと思うわ。皇后外美子とみこさまは公家出身で左大臣の二のにのひめ。病弱な一の姫に代わって外国との社交の場にもお立ちになって、当時から日本一の佳人とさえ言われていたの。それにご結婚されて十、四、五年になるんじゃないかしら。千香士と知り合う機会なんてさすがにないわよ」


 ちなみにこの程度の知識なら、華族でなくても誰でも知っている。

 なぜならメイジ帝にお輿入れする前の時代、外美子さまの夜会服姿のブロマイドや華族のお嬢様が載った雑誌の表紙などが飛ぶように売れていたのである。皇后さまは今も昔も日本の女性の憧れの存在なのだ。


「ふぅん……」


 ヘンリーはそれを聞いて長い睫毛に囲まれた瞳を意味ありげに細める。


「だったら何だろうな。面識がない相手に手紙を書くとしたら、しかもその相手が圧倒的に身分の高い方だとしたら……」

「陳情とか……? 何かのお願い事とか」

「だとしたら、中身によっちゃリンネがまずいことになるんじゃない?」

「まずいことってなに」

「たとえば不敬罪とか」

「はぁ!?」


 想像もしていなかった物騒な単語に心臓が跳ね上がる。


「国家の存亡に関わるようなこと書いてたら、千香士はもちろんの事リンネだって罪に問われるんじゃないかな」

「そ、そうなの……?」


 手紙の内容についてそんな形ではまったく疑っていなかったリンネだが、確かにヘンリーの言うとおりかもしれない。


(ど、ど、ど、どうしよう!)


 急に心臓がバクバクして息苦しくなる。


「もーっ、どうして受け取っちゃったのよ、ハルッ!」


 泣きたい気分になって叫んだのだが、後の祭りとはまさにこのことだろう。


「ははっ、ごめんごめん。面白そうでつい」

「面白そうじゃないわよー!」

「そうだ。いっそ中身見ちゃう?」

「そんな名案ひらめいたみたいな顔しないでっ! 人の書いた手紙を盗み見るなんてダメに決まってるでしょっ!」

「だよね。ごめん冗談だよ」

「もうっ……」


 謝罪を口にしつつも全く悪びれていないヘンリーにクラクラ眩暈を覚えながら、リンネは深くため息をつきベッドの上で膝を抱えた。


(どうしよう……。やっぱり千香士に手紙返しちゃう? そもそも皇后さまに手紙を渡すなんて無理な話だし。わたしに出来るはずないわ。無理よ、無理! だから断ったって……いいよね。断ったからってわたし別に悪くない、よね……?)


「……リンネ?」


 黙り込んだリンネの様子が気になったのか、椅子から立ち上がりベッドの隣に腰を下ろす。


「ごめんね、不敬罪だなんて言って脅かしすぎた」


 そしてうつむいたままのリンネの肩に腕を回し自分の体に引き寄せる。


「千香士の親がいくらニューリッチと言ったって、千香士個人で何ができる。何もできないよ。大丈夫」


 何度も大丈夫とささやきながら肩をなだめるようにさすられて、

「ハル?」

 いつになく優し過ぎる幼馴染の行動を不思議に感じ、顔を上げたリンネの頬に、もう一方の手が置かれた。


「どうしたの?」


 自分をまっすぐに見つめる幼馴染の眼差しの意味を図りかねて問いかける。


「うん」


 そして、ただうなずくヘンリー。


(ほんとどうしたんだろう。こういうの珍しいかも)


 けれど目が離せない。離してはいけない気がする。

 濃いサファイアに似た瞳は上品で、本当に宝石をはめ込んだかのようだ。インドの豪奢で華やかな気配と、英国人らしい鋭さが同居している彼の容貌は、なんともエキゾチックで美しかった。


「ハル、何か気にしてる?」

「僕がやってもいいよ」

「えっ?」

「千香士の頼み事。案外僕の方が自由に動けるんじゃないかな」


(ハルが? 確かに器用になんだってこなしてしまうハルなら、皇后さまにお手紙だって渡せるのかもしれない……けど)


 その一瞬、リンネの脳裏に蘇ったのは、沈痛な面持ちで頭をさげる千香士の顔と、肩からこぼれ落ちる彼の黒髪だった。


「いや……」

「なに?」

「わたし、やれるだけやってみようと思う」

「なっ……どうして?」


 リンネの言葉に心底驚いたヘンリーだが、リンネは口に出して宣言することによって気持ちが固まったようだ。

 身を寄せていたヘンリーから体を起こし、きゅっと唇を噛み締めた。


「千香士は、わたしが不敬罪になるような手紙を言づけない」

「……どうしてそう思うの?」

「千香士が本当に時計を盗むような人じゃなかったから」


 リンネは懐中時計の一連の騒動を思い起こしていた。


「時計ってどういうこと?」

「実はね……」


 そこでリンネは有馬の時計紛失事件の詳細を説明したのだった。




「……でも盗む盗まない以前に、成り行きで犯人じゃなかっただけじゃない? ただ疑われただけっていうか」

「ううん。たぶんあの時点で千香士はトイレで懐中時計を見つけてたんだと思う。有馬さまとはどうも犬猿の仲らしいし、どうもわざと嫌われようとしてるふりもあったし……。たまたま見つけた時計を嫌がらせで隠すくらいのことできたと思う。でもそれをしなかった」

「だけど発見したけど黙ってたってことなんだろう? そんなことする意味あるの?」


 ヘンリーの言うことももっともなのだが、リンネはおそらく意味があることだと考えていた。


「うん……。千香士は有馬さまに泥棒と疑われ侮辱されたとき、有馬さまの胸元に水をかけたの。懐中時計に水気は厳禁よね。なのにためらいなく水をかけた。いくら本人がないと騒いでも、資産価値が高い時計が入ってるかもしれないところに水をかけるなんて、普通の人は怖くてできないでしょう? だから千香士はすでに時計が手水にあることを知ってたんじゃないかって思ったの。だから堂々と水をかけた」

「えっと……だとしたら、疑われるのは良くて、時計を見つけてあげて感謝されるのは嫌だってこと? 理屈ではわからなくもないけど、それが本当ならなんだかめんどくさい男だね、千香士は。かなり屈折してるよ」


 ヘンリーは呆れたように肩をすくめた。

 世界中を飛び回り、誰とでもすぐに親しくなってしまうヘンリーからしたら、千香士のやることは意味不明に感じるのかもしれない。

 けれどリンネは千香士のそんな振る舞いを理解できるような気がした。


「うん。だから、千香士のそういうこと含めてちゃんと自分で確かめてみようと思うんだ。とりあえず一旦引き受けてしまったし……。結果なにもできないかもしれないけどやるだけやってみて、それから千香士と話してみる。なにも納得できないうちに、ハルに全部任せて自分は見て見ぬ振りするのはいやなの」

「リンネ……」


 部屋に一瞬だけ静寂が満ちる。

 静かに見つめる幼馴染の眼差しの奥にある気持ちを探りたくて、リンネもまた見つめ返す。


(ハル。あなたの目にわたしはどう映ってる? 変な子だって思われてるかな。そもそも謎の美女を調べようといったときは断ったんだもんね、変よね。まぁ、あれは謎云々よりもハルの態度が気になったからだけど……。いつもうじうじしてるくせに変なところで強情で、困ったやつだわ、わたしって。自分でもいやになるけど、どうしてたまに素直になれなくなるんだろう……。親しき中にも礼儀ありなのに)


「ハル、なんだかこないだから振り回してるよね」


 謝りたいと思っていたことも思い出して、身を正しヘンリーに向き合う。


「わたし、最近ちょっとひねくれてたわ。ハルがいつも優しいのわかってて甘えてた。生意気だったと思う。ごめんなさい」


 それから頭を下げる。

 すると頭上からため息が聞こえた。呆れたというよりも、ヘンリーらしい、仕方ないなぁという雰囲気を含んでいる。


「わかった。リンネの気持ちを尊重するよ」

「ハル……」

「そもそも僕が最初に探そうって言ったんだし、手紙を受け取ったのも僕だし、謝る必要はないよ。うん、僕のせいだ」


 おどけた風に声色が変わる。深刻なやり取りにするつもりはない、ヘンリーの気遣いだろう。リンネもそれに合わせることにした。


「そういえばそうだわ」

「だろ?」

「だったら仲直りね!」

「うん」


 ヘンリーの返答にホッと胸が温かくなる。


(仲直りできてよかった。もうひねくれたこと言わないように気をつけなくっちゃ)


 一方ヘンリーはどこか眩しそうに見つめながらリンネの頭を撫でる。


「ほんと、バカだなぁ。リンネはひねくれてなんかいないよ」

「ハルに比べれば?」

「そう、僕に比べれば。優しくて素直だ。本当に……」


 リンネの赤い髪を指先がすく。


「ふふっ、どうしたの急に」


 優しさの大盤振る舞いではないか。

 くすぐったくて微笑むと、ハルは何かを言いそうに口を開けたけれど、結局いつものように陽だまりのような笑みを返すだけだった。

 兄たち曰く、ハルは英国人らしいたっぷりの皮肉とユーモアを持った少年らしいのだが、それはあまりリンネには発揮されていない。それどころかいつもそばにいるわけではないけれど、見守られているような暖かさを感じる。

 リンネにとってハルはかけがえのない存在なのだ。


(ハルがいてくれれば大丈夫。よし、がんばるぞ!)


 リンネの瞳がランプの明かりを照りかえし、キラキラと宝石のように輝き始める。

 決意も新たに腹をくくった。小心者ではあるが一度こうだと決めたことは一直線であった。



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