5 天使の羽
光の余りの眩しさに思わず目を瞑ってしまった。
何か黒い物が過ぎる。
そして、目を開けた次の瞬間、俺は全く別の場所にいた。
木々に囲まれた広い草原。全方向から襲ってくる蝉の狂想曲。熱い太陽。
先ほどまで俺の手を握っていた喪服の女はもういない。でも、彼女の冷たい指の感触は、まだ俺の手に残っていた。
暑さのせいか、頭痛を伴う眩暈がまだ続いている。膝をついたまま立つこともままならない。
ここがあの女が言っていた別世界?
「あっ!?」
思わず息をのむ。俺の近くに天羽百合乃がいたから。彼女も俺の方を驚いた表情で見ている。見たこともない制服を着て。俺達の学校の地味な制服と比べるとだいぶお洒落だった。
「天羽!」
叫ばずにはいられなかった。俺の思いが通じたのか?
夏の光をたっぷり吸った緑葉が風にそよぐ。晩夏の匂い。
「こっちに来ないで!」
切羽詰った声に俺達以外にももう一人この場にいることに気付く。天羽と対峙するように、彼女と全く同じ制服を着た女の子が立っていた。
「えっ?」
その女の子は、最初は俺達と変わらない普通の人間の顔だった。それが、瞬きをする度に変わっていく。歪んでいく。自分の目がおかしくなってしまったのかと思うほどに、それは不吉な異常だった。見ているだけで不安な気持ちに襲われる。怪人百面相とでも言ったらいいのか?
「オ前タチ……殺サナキャ」
たどたどしい言葉。だた、呪詛のように禍々しい。
天羽にまた会えた喜びが吹き飛ぶぐらいの警笛が、大音量で頭の中に鳴り響く。いきなりまずい状況に放り込まれたのは間違いない。
「逃げて!」
むり。今にもぶっ倒れそうなほどの眩暈と闘っていた。
別世界に来た反動? 乗り物酔いや時差ぼけみたいなものの強力なやつ?
とりあえず頑張ってコートだけでも脱ぐ。このままだと熱中症も加わりそうだった。
天羽が走り出す。両腕を若干後ろに伸ばしながら。よく見たら両手の指も動かしながら。
何をしてるんだ、あれ?
次の瞬間、天羽の下半身が青いオーラを纏ったと思ったら、急激に加速する。滑るように草の上を走っていく。
「動クナ」
怪人百面相はいらついたように手を付き出す。そこから光の玉が発射され、天羽目がけて飛んでいくが、当たることなく地面へと着弾した。草は焼け焦げ、土が抉られる。理解出来なかった。
一方の天羽は未だ指を動かしつつ、怪人百面相の周りを一定の距離を保ちつつ走っている。
突如、天羽の後ろに10個ほどの光が現れたと思ったら、そこからレーザーのようなものが発射された。怪人百面相も避けようとするが、それに伴いレーザーも方向を変え、こっちは全弾直撃。
「ギャアアアアア!」
こんな展開が続いた。怪人百面相は一度に1, 2個の光の玉を放つが、素早い天羽には当たらない。逆に天羽は一遍に10発分以上のレーザーを発射して、ほとんど命中。圧倒的だった。だが、致命傷には至らないようでもある。いやむしろ、化け物はダメージを食らっても、服ごと回復しているように見えた。
なんてことだ。俺は目の前で行われている出来事に声も出なかった。なんとかしなきゃと思いつつも、今の自分にどうにか出来るレベルの話じゃない。
それでも、立ち上がらなければと、朦朧とする頭を押さえながら体を動かしたのが不味かった。動きに反応するかのように、怪人百面相がこちらに振り返る。ぎろりと睨み、にたりと笑う異形。
ぎょっとする。カカシに徹するのが正解だったと気付く。
奴は天羽を無視し、今度はこっちに向かってくる。そして、2発の光の玉を撃ってきた。
「あっ……」
「逃げてええええ!!」
終わったと思った。
せっかく天羽にまた会えたのに、もう退場かよ。
でも、あいつもなんだかんだで上手くやってそうな気もするし。
よく分からん世界だけど。
まあ、彼女に会えただけでも満足して元の世界に帰るか……。
こっちで死んだら帰れる……よな?
「ふぅ。何馬鹿なことを考えてるの。僕をここに連れてくるのにどれだけ苦労したと思ってるのよ。頭の中で盾をイメージしなさい。いますぐ」
頭の中で誰かが話しかけてきた。だが、このどこか人を幼い子供扱いするような口調。すぐに俺をここに連れてきたあの喪服の女だと分かる。
今まで何処にいたんだよ。しかも、どれだけ苦労したと言われてもなあ。あと、俺の名前は鈴野行人な? 高校生なんだから僕呼ばわりはやめてくれよ。
「でもまあ、やれることはやっときますかね。もうちっと天羽ともお話したいしな。本当にこっちで上手くやってるか確認しないと安心も出来ねぇし」
あの喪服の女は凄いと思う。接したのはほんの僅かだったけど、それは分かった。なら、言うことを聞いておくべきだろう。時間もあまりなかった。
言われた通り頭の中で盾をイメージする。弾が何処から来てもいいように、自分の体を覆えるぐらい大きい盾を。
途端、視界が少し暗くなり、目の前に青いセロハン越しに見るような世界が広がっていた。自分の背丈程の青色透明の大きな盾が目の前にあった。
そこに敵の弾が直撃する。
「くぅ!」
衝撃で吹き飛ばされそうになるが、完全にブロック。
しかも、盾は重さが全く感じられなかった。物理法則諸々を無視している感じで、それが頭の中でのイメージと合わなくて気持ち悪いけど。これならいける!
動け、俺! 天羽一人に戦わせるわけにはいかない。
あの、か弱そうな天羽が戦っているんだ。なら、俺だってこの盾があれば。
「うおおおおおお!!」
怪人百面相に盾を構えて突撃する。奴は近接を得意としないのか後ろへ飛び退く。
「何やってるの!?」
俺の近くにようやく辿り着いた天羽が焦ったように叫ぶ。
「俺がこいつを引き付けておくから、お前は何か凄いのぶち込んでくれ!」
彼女はどうみても遠距離型だ。ならこうするのが一番ではないか。
「頭が朦朧として今にも倒れそうだから、出来るだけ早くな」
「……」
何か言おうと彼女も一瞬思案した様子だったが、俺と同じ結論に達したのか、力強い視線で頷いてくれた。それは暗に奥の手があるということを、教えてくれたのと一緒だった。頑張れる。
俺の後ろで天羽が10本の指を忙しなく動かし始める。何もない空間にまるでキーボードでもあるかのような動き。
「ソレハ止メロ!」
「おっと。ここを通りたきゃ、この俺を倒してからにしな」
再び盾を構え、がむしゃらに突撃して奴を弾き飛ばす。天羽から遠ざけるため。
正直、限界が近かった。眩暈で視界がぼやける。
「邪魔スルナァ!!」
怪人百面相が今度は4つの弾を撃ち込んできた。それがてめえの精一杯の攻撃ってわけか。
「うわっ」
盾で全て食い止めるも、衝撃で吹き飛ばされてしまう。
なんともかっこ悪いが、時間稼ぎには充分だったようだ。
天羽がいた方角から光が差す。
「天使? 天使の羽が6つ……」
天羽の周りには黄金に輝く光が6つ。
色白で女性らしい、しなやかな両腕を水平に広げる。柔らかい髪が揺らめく。
いきなりぶっ飛んだ状況に巻き込まれ、頭が真っ白になり、その後は必死だった。だけど、天使になった天羽を見ていたら、洗い流されるように全ての思考がリセットされていく。
なあ、天羽。お前、死んで天使にでもなっちまったのか? 綺麗だし、似合ってるけど……。
冷静に考えてみれば、なんでこんな状況で彼女は戦っているんだ。元の天羽はこういう荒っぽい世界とは無縁の人だったじゃないか。
「あっ」
天使は軽く息を吸い、綺麗な指を動かす。今にもキーボードを叩く音でも聞こえてきそうな仕草。
怪人百面相は何が起こるか知っているかのように逃げ出す。
一瞬だった。6つの羽は90度近く曲がり、こっちへと伸長してくる。
俺の両脇ぎりぎりをかすめたとき、羽ではなく無数の光の線であることに気付く。
そして、全ての光は怪人百面相に収束した。
蝉の狂った鳴き声すらかき消す爆音。
「うわっ! ケホッケホ……」
粉塵が収まった頃、そこには体中穴だらけで、かろうじて立っているだけの怪人百面相がいた。
血なんてない。穴の中は暗い闇。人間じゃないから。
「マオウ……サマ……」
穴の一部は少し回復しているように見えた。だが、結局何かが足りなかったのか、怪人百面相は頭の方から灰となり、そのまま風に溶けていった。
俺の方も限界だった。盾が消え、そのまま地面に倒れ込む。
マオウ? そういえば、そんな名前をちょっと前にも聞いたな。そいつを倒さないとダメなのか?
そんなことを考えていたら、天羽が駆けつけて来て、俺を抱き起こしてくれた。
「鈴野君!」
ああ、やっと名前を呼んでもらえた。そして、あの幼い頃と変わらない、困ったような顔、心配そうな顔。懐かしい物が込み上げてくる。
やっぱりこいつはあの天羽百合乃なんだ。
そう思ったらなんだか安心して、急激な眠気で瞼が閉じていった。