3 あなた
「よっ! 天羽、おはよう!」
朝、自分の席に着くや、隣の天羽に努めて明るく挨拶をする。が、彼女はこちらを一瞥してから軽く頷くだけだった。今のは会釈? 会釈なんだろうか? それとも、うむ、くるしゅうないとかそんな意味なのですか?
俺はめげないよ。それでこんなやりとりを1週間ほど繰り返した。
最後の日なんて耳元で「おはようございます」と小声で囁いてみたら、やはり軽く頷かれたあと、すぐ近くに俺の顔があるというのに、髪を優雅にかきあげやがった。それでこっちがむせるとジト目で睨め付けてきた。誰のせいだよ。俺はがんばった。がんばったと思う。
こんなんだから、こいつはクラスで上手くやっていけるのかと、昔のよしみで心配してやったものの、全くの杞憂だった。彼女の前にはいつも人が集まった。
「おー、アメリカとかすごーい!」
「英語しゃべってみてー」
「へー、帰国子女枠ってのがあるんだー」
まあ、そりゃあ、こんな時期の編入は珍しいし、帰国子女だし興味はつきないよな。それにかわいい。
そして、天羽は俺に対するときとは違って、他の皆とは普通に接していた。それは俺がよく知る、以前の天羽百合乃と変わらなかった。天羽は表情をころころ変えるタイプじゃない。でも、別に暗いわけでも内気なわけでもない。げらげら大笑いしたり、騒いだりするタイプじゃないというだけで、いたって普通に喋る人だ。
何かがおかしいぞ。うん。
天羽が転校してきて1か月ぐらい経ってから、俺は恐ろしい事実に気付いた。
一応、隣の席だからなんだかんだで話す機会はある。必要最低限の会話だが。
そこで俺は一度も彼女から名前を呼ばれていないことに気付いた。他の皆は苗字+さん付けや君付けで呼ばれているにも関わらず、なぜか俺だけはずっと「あなた」だった。それも妻が夫を呼ぶときのような甘い香りがするものではない。完全に他人行儀な「あなた」だ。もし天羽がもっと口が悪かったなら「あんたねぇ」呼ばわりだっただろう。
「隣同士で一緒に提出するみたいだから、あなたのも……」
「あの天羽さん。俺、鈴野行人っていいます。自己紹介まだでしたね」
「しってるよ?」
えっ、この人なに言ってんの状態できょとんとした顔をされる。俺ちょっときれる。
「おうおうおうおうおう」
たまたま側を通った天羽の友達が俺じゃなく彼女の方に「オットセイのものまねかなにか?」と聞いていた。それに対して天羽は「さあ?」と首を傾げるのみだった。子供に対して「シッ!見ちゃいけません」と言う、あれに似たような雰囲気が俺の隣には構築されていた。
天羽は相変わらず勉強も出来るみたいだった。
中間試験の結果が発表されたとき、学年上位10名の名前が廊下に張られた。天羽は3位だった。
海外にいたとき中学までは週一の日本人学校に通っていたらしい。だが、高校からは私立の現地校に通うようになり、日本人学校には行けなくなったとの話を人伝に聞いた。日本の学校にほとんど行ってなくて、これかよ。
一方の俺は酷いものさ。そこそこ有名な大学にエスカレーター式で入れる学校だったから、完全にだらけきっていた。不人気な学部でも入れたらそれでいいやと思っている始末で。
これが100点取れなくて大泣きした人と、当時の実力にあぐらをかいて適当に生きてきた人との差か。
「天羽、3位だってな。凄いじゃん」
素直に褒めた。にも関わらず、彼女はこれみよがしに頬杖をついてこちらをジト目で見てきやがった。他の人の前では頬杖をついて話すなんてこと絶対しないのに。
「そういうあなたはどうだったの?」
「あの天羽さん。俺、鈴野行人っていいます。自己紹……」
ジト目。ぷにぷにした頬が手の上でつぶれているぞ。
しかし、珍しく会話に乗ってきたな……。
「んー、んー。まあ、下から数えた方が早いんじゃないのかな。」
俺は乾いた笑いで言ったことを誤魔化そうとするが、彼女は一瞬驚いた表情をしたあと、
「んー、んー。それはひどいものね」
そう言ってぷいと横を向かれてしまった。なんだろう。なんかむかつく。
「ねえ、ねえ、英語しゃべってみてー」
これ結構嫌でしょ?
無視。微動だにしない。
「おうおうおうおうおう。天羽ウォッチャーの俺から言わせてもらうと、お前が他の人と話すときに頬杖ついているのを見たことがない。にもかかわらず、だ。俺と話すときだけ頬杖つくとか、それだけ俺が特別な存在ってことかなあ?」
息をのむような音が聞こえた。天羽はさっと肘をついていた腕を下に戻した。横を向いていても彼女が顔を真っ赤にしているのが分かった。なにこれかわいい。
反撃だ。反撃の狼煙を上げるぞ。今までみたいなボロ雑巾のままでは終われない!
こんなことをしているから余計に険悪な雰囲気が醸成されていく。
「なあ鈴野。お前、天羽になんかしたのか?」
友達にまでそんなことを聞かれるが、全くもって記憶にございません、だ。彼女が転校してきた初日からこうだったんだから。
でも、やっぱり天羽はいい子だな、と思うような出来事もあった。
授業中、消しゴムがないことに気付き探していたときの話。
なんと、あの天羽が無言で自分の消しゴムを、俺と彼女の机の境界線上に置いてくれたのだ。消しゴムが無いとは一言も言ってないのに。いや、何度もノートと筆箱を見比べながら「あっあっ」と間抜けな声なら上げていたかもしれないが。
「サンキュ」
天羽の消しゴムは、その日の授業が終わるまでずっとそこに置いてあった。たまに使うタイミングが重なると、互いの指が触れたりすることがあるわけで。そうすると彼女は驚いたように自分の手を引くわけ。しかも、自分の消しゴムだというのに、俺が使うまで頑なに使おうとしなかった。
逆のパターンもあった。今度は彼女が消しゴムを忘れるという。
いつかお返ししたいと思っていたから機会を窺っていたら、ある日の授業中に急にもぞもぞし始めた。え、何だろ? トイレかな? 早弁かな? 続いてシャーペンの残り少ない消しゴムを使い始めて察した俺は、以前置いてくれた場所に自分の消しゴムを置いたのだった。すると、彼女はうんと頷いてから、その消しゴムを使い始めた。たぶん前の会釈と似たようなもので、その頷きはお礼なんだろうと解釈した。だから、俺は前を向いたまま彼女に向けて親指を立てたのだった。
なんだか変な関係だった。
でも、これならいずれまた以前のように、普通に話せる間柄に戻れると楽観視していた。自分で言うのもアレだけど、楽観主義なのが俺のいいところだし。せっかく隣の席になったのだから、ここで学年が終わる頃までには笑って話せるかなって。
だけど、12月1日。その日に全てが終わってしまった。