空の涙
雨の音が、煩い。
カミサマが降らせてるのかな。もういいよ。もういいから。
両手をぶらりと脇に垂れさせて、もう顔を上げる気力もなくて、体の奥が痛くて、薙がれたわき腹が痛くて、足が重くて、目眩がして、
つまり、どういう状況なのかというと、
最悪ってことだ。
でもそれでもいいかなと思う。何かもう疲れた。いいじゃないかもう
こんな汚い命など壊れて止まって腐ってしまえばいい。
右足を地に付ける。ぱしゃりと無機質で乾いた音が響いて、靴が少し汚れた。水溜り。何とはなしにそれを見て、歩くのも億劫だった自分に気がついて苦笑い。左足を動かす――そう、これは勇気。勇気がなくて、右足を一歩前に出した状態のまま深く吐息をつく。
暫くそうやってると、足元の水がじわりじわりと赤くなった。
ああ死ぬんだ、俺。そんなことを漠然と思えば、本当に自分が死ぬような気がしてくる。惜しいことに腹の傷は血こそ流れ続けているけれども、俺を殺すには至らないのだけれど。
もうこの辺りでいいかな、そう思う。思った瞬間に体は正直だ、それを実行する。膝がかくんと折れてよろめいて近くの家の壁に背中が当たった。
そのままずるずると座り込む。俯く。眼を閉じる。
カミサマ。俺は死ぬことを許されますか?
たったそれだけ。知りたいのはそれだけ。
まだ生きろというのなら生きるから。それは俺がしなきゃいけないことだから。でも死ねというのなら俺は――
腰にあった短剣を手に取る。目を開ける。それは雨の雫をその身に落として、光る。傾けるとつう、と零れる。伝う。綺麗だ。
魅せられた様に俺はその青灰色の刀身を首に持っていく。頚動脈の場所を慎重に押さえて、
一薙ぎ。
・・・それで、終わるはずだったのに。
誰かの。自分のものではない、手が。刀身を掴んでいた。驚いて刀身を引いてしまったから、手が切れて赤が
「・・・ゃ」
鉄。鉄の匂い。赤、黒く染まって染まって匂いが鉄で臭くて嫌だいやだイヤダ
殺した。
俺は彼らを裁けるような人間じゃないのに。
なのに、殺したんだ・・
「何やってんの、お前」
誰だろう。何だろう。ああそうだ、俺が傷つけた人だ。刀身が熱い。まだ白い手が、しっかりと刀身を掴んでる。痛みなど知らないかのように。誰だろう。
「別に死ぬなら死んでもいいけどさ。俺の目の届かないとこでやってくれないかな、そういうアホなこと」
アホなんだ。そうなんだ。そうかもしれない。
「・・・、め、、、」
「あ?」
「ご、めんなさい。ちゃんと、どこか、・・・」
「聞こえねっての」
困った。聞こえないのか。下を向いてるからかもしれない。でもどうしよう、体が動いてくれない。顔を上げたいのに、
顎を掴まれて動かなかった体が動いた。掴まれたことは判ったから、まだ五感は消えていない。
掴まれた顎が痛い。熱い。俺の顔は掴んだ何かに動かされて、頬に額に空の涙が当たる。上を向いているらしい。
ぼんやりとした世界の中、唯でさえ黒いのに、さらに塗りつぶしたように黒い
礼服、だ。
目に力が入った。眼球が動いて、上を向いた。
紫紺。その上にちょこんと赤い帽子。
それを見たと同時に、からんと遠くで音がした。何か無機質なものが落ちる音。なんだっけ?
「ほら、しっかりしろ」
声が、落ちてくる。紫紺から。何故か眼を閉じたい衝動に駆られたけど(多分未練とか何とかそういうものがあるかは知らないけどとにかくそれが残るのが嫌だったんだろう)勝手に目は焦点を合わせてしまった。
なんで。そう思うのもわずらわしかった。
焦点が合う、そこには濡れそぼった紫紺の綺麗な髪。白い肌、髪と同じくらい、でも髪より透き通って宝石みたいな瞳。この人のために誂えたような礼服。プリースト。
人、だ。
その人は俺と目が合うとふ、とその菫色の瞳を大きくした。あ、この顔は知ってる。吃驚した時の、
「・・許しを請いたいのか?」
その人はそう聞いて来た。どうだっけ。憶えてないや。
「しんで、いいですか」
酷くたどたどしい俺の声を、今度は聞き取ってくれた。その人は顔を顰める。
ああ、やっぱり。
俺はまだ許されない。
不思議と頬が緩み口元がだらしなく弛緩するのがわかった。その人はいよいよ持って目を見開く。その口元が動いて、
「死にたいなら死ねばいい」
今度は俺が目を見開いた。
その人はきゅっと眉を寄せた。
「そんなの・・・自分で決めることだろ」
・・・あぁ。
死の間際に
こんなに
こんなにも、
優しい人に出逢えて良かった。
俺は今度こそ意味を込めて意志を込めて微笑もうとした。成功したかどうかはわからないけれど、その人は深いため息と共に俺の顎を掴んでいた手を離した。
力の入っていなかった、力の入らない首が曲がって落ちる。
「ありがとう・・・」
死んで
死んでいいんだ
このままでいようきっと目の前の人もいなくなってくれる
そう、思っていたのに、
「生きていることの方がつらいこともある・・俺は、人は生まれたときに、生きる権利と死ぬ権利を持っていると思ってる。だからお前がそんなに死にたいなら、それで楽になるのなら、死ねばいい」
乾いた声が水でぶくぶくになったような俺の脳内に響く。
死にたい何か。それは救い。
そう、俺に思わせた人たちは。
死んではならない人だった。
「・・・ふ・・・」
「ん?」
「ふ、ふ・・・ふふ」
肩を揺らすでもなくただ口元で笑う俺を、この人はどう思ったのだろう。
「まだ・・・死ぬことは許されないらしい・・・」
もっと苦しまなければならないと。そうあの人たちが、俺を指差して嗤っている。
「生きないと・・・生きて・・・いき・・・」
俺は脚に力を込める。そうだ、だから俺は歩いていたんだ。前へ進まなきゃいけないんだ。
許されちゃいけないんだ、俺は。彼らの声だけではない・・何より俺が、俺自身を許さない。
壁に手をついて体を支えて、そこで短剣が地に落ちていたのに気付く。拾って、軽いなと思った。それだけだけど。
ず、と背中が壁を滑った。斃れそうになるのを右足で堪える。左足を――踏み出す。そう、これは勇気。
あの人たちへの償いの。
壁に肩をつけたまま二歩、三歩進んだところで膝の力が抜けかけた。右手で壁にしがみつく。駄目だ、歩かないと。
ふわりと紫紺が舞った。体が動かなくて、
「・・・、・・・」
目が力を無くす、膝が崩れる、吐息が落ちる、
誰かに手を取られ腰を抱かれ足が宙をかき
暖かい
何かに触れて
意識がとんだ。