prologue
絶望。
そう形容するのが相応しいと言える異常な状況に陥っていた。
辺りを見回すと木が生い茂っており、遠くまで見通すことは叶わない。月明かりが木々を照らす夜の中、全身で風を裂いて駆ける。
ーー自身の生命を散らさないために。
懸命に足を動かし、木々の間を縫うように走る。枝や葉によって全身を叩かれるが、そんなことを気にしている余裕はない。
今居る場所は、全く見覚えの無い場所だ。道に迷ったというわけではなく、そもそも常識の中にすら無いだろう。何故なら、
ーー異なる世界なのだから。
しかし、このまま真っ直ぐ進めばいいという確信があった。予感ではなく、"確信"が。
その希望があるからこそ、足を止めることなく走り続けられる。
転ばぬように、地面を微かに照らす月光を頼りにしながら足元に注意しつつ、後ろから迫ってくる"それ"と自分の間を木で遮るように走る。
今まで経験したことがないほどの早鐘で、痛いぐらいに心臓が脈を打つ。
単純に"それ"の視界に自分が入っていることが耐えられない。そう考えただけで恐怖により体が竦みあがり、足を止めてしまいそうになる。
荒い呼吸を幾度も繰り返す。吸った酸素をすぐさま吐き出し、また新たに求める。
それに、一直線に走れば直ぐに追いつかれていただろう。その意味でも木々の間を縫うように移動している。
足が棒のような感覚になる。何度も地面を叩いた足裏は鈍い痛みが響き、膝は笑いそうになるのをこらえる。
こんなことをしてもただの気休め程度にしかならないことは理解しているが、何もしていないよりは心持ち楽だった。
絶望、恐怖、焦燥、怒り、後悔といった負の感情が自分の中で渦巻く。
背後からは、葉が揺れ、地面を叩く"それ"が奏でる音が自分の心音や呼吸よりも大きく、明確に聞こえる。まるで刃のように鼓膜に突き刺さるたびに背筋は凍り、冷や汗が全身を濡らす。
それでも走り続ける。
体は恐怖に支配されているにもかかわらず、頭は冷静に物事を考え、現状を受け入れ、周囲の情報を知覚しているのが、とても憎らしい。何も考えず、感じられない様に思考を、理性を放棄してしまえばどれだけ楽だっただろうか。そんな事を、自分の生を諦める様な事を考えてしまった事に疑問は抱かない。
なお走り続ける。
死にたくはないが、恐怖を与えられ続けるのも嫌だ。そう思いながら、代わり映えのしない景色が後ろへ流れていくなか、前方に光がある。
そこに誘われているかのように駆け抜けた。目の前に広がる光景は草原、その奥にまた森が続いていた。自分が居る場所は森の中の一部分だけが円形に抉り取られたかのような、木が無く草だけが生えた直径三十メートル程の場所だった。
少し進んだ所で足を止め、後ろを振り返る。今まで走っていた森があり、今居る場所は木々の連なりが終わったことを意味している。そして、自分の命の終わりも意味していた。
今から森に入るには遅すぎると言わんばかりに、追い回していた"それ"が木々の影からゆっくり姿を現した。
こちらの動きを観察しながら近づいてくる"それ"は、全長二メートル程の狼のような生き物だった。
その生き物を見た瞬間、今までよりも大きな恐怖が襲った。
確実に殺されるのだと理解してしまった体は硬直し、先程よりも激しい呼吸音が辺りに響く。
死に抗うために少しずつ後ずさる。目線はその生き物から外すことが出来なかった。外した瞬間に襲いかかってきそうだったからだ。
しかし、抵抗を嘲笑うかのように踵を躓き、その場に尻餅をつく。その時に「あっ」と間の抜けた場違いな声が漏れた。自分でだしたのかと、どこか他人事のように聞いていた。
のそのそと近づきながら低い呻き声を上げる存在に、どうすることも出来ない。胸の内をぐるぐる回る感情に身を委ねるだけ。
死にたくない。当たり前のことなのに、初めてそう願った。だが、願ったところで変わるはずもなく、刻一刻と近づく死。
何も出来ずに死ぬことに悔しいとは思わなかった。怒りも感じず、ただ死にたくないと必死に願うだけ。
不思議と体の震えは無かった。それでも歩みは止まらず、彼我の距離は三メートル程に縮まる。
一種の悟りのようなものが頭の中で閃いた。
(ああ、終わったな)
そう思うと体が動かなかった。
走り回った反動で疲労が全身を襲ったことで動かすことが億劫であり、なによりもそれを認めたことが大きかった。
その生き物が体勢を低くする。脚に力を溜め、飛び掛かるためだろう。
うなじの辺りがちりつき、瞬間的に体温が上昇する。
反射的に左腕を前にもっていこうとしてーー何かが自分とその生き物の間に割って入った。
場違いにも綺麗だと見惚れてしまった。
間に何者かが入ったと同時に、その生き物は今まで通ってきた森へ吹き飛んで行った。何かが勢いよくぶつかったかのように。
入って来た反動で靡いた金色の髪が、規則正しく優美に、寸分の狂いもなく流れてゆく。月光に照らされながら煌めく髪は芸術的で神秘的だったにもかかわらず、何故か蛍の光のような儚い印象を受けた。
「怪我は無い?」
振り返りながら声を掛けてきた何者かに、先程とは異なる意識を向けーー視線が合った。
こちらを心配そうに見つめながら瞬く紅色の双眸は、優しさと思いやりに満ちた印象を受け、さながら紅玉のよう。
尻餅をついたままの少年と、立ったまま様子を伺う少女。
風が二人の間を通り抜ける。
長い金色の髪が再び靡き、紅色の瞳と端麗な顔が惜しげもなく晒される。月光とあいまうことで粋美だった。
一瞬見入ってしまい、恥ずかしさからかそれを隠すために先程の問いに答える。
「だ、大丈夫」
少し上擦った声が出てしまい、羞恥の念に駆られ目線を外した。
少女がしゃがみ込み、こちらの感情を知ってか知らずでか顔を覗き込みながら、
「うん、なら良かった」
咲き誇った花のような可憐な笑みを浮かべながら言った。
美しいと感じた今までの印象ではなく、無邪気で女の子らしい表情に完全に見入ってしまった。
怪我の有無を確認した少女は立ち上がり、こちらに手を伸ばす。
手で引き上げるというサインだろう。尻餅をついたままといのはさすがに格好が悪いので、その行動に甘えることにする。
手を掴み、
「ありがとう」
と、気が緩んだのか微笑みながら言う。
結局はこの状況も異常なのだろう。
それでも、先程までとは違う。
自分の中で何かが変わってきている……そんな気がした。
初めての作品ですので至らない点がかなりあると思います。
改善していきたいので、色々と指摘していただけると有り難いです。
よろしければ今後も見守っていて下さい。
拙い作品を見ていただきありがとうございました。




