誰か、この指にとまって
※暗めの話
※男の子がその思考に至たるまでの過去話
※以下のSSを元に書いたもの
『仮に俺がもう少し優しかったりもう少し賢かったりしたらなにかが変わっていただろうか、と、横でミノムシになっている女の子を見て思う。ひとりが嫌だから、と、無理やりに攫ってきたそれは、深く眠りについたまま何の答えも返さない。もうすぐ日が昇る。おひさまってのは良い。なんだか凄く良い。あんなに緩やかな光はそうそうあるもんじゃない。だから俺は時間が過ぎていくのを待つのだ。死ぬために。もう少ししたら暖かな風が吹くだろう。そうしたら一緒に、そうだね、一緒に。埋まりに行こうか。ミノムシさんは俺の隣で死んだように眠っている。名を呼んでも起きたりはしない。なぜなら彼女にとって運命の相手は俺じゃないからだ。ならしょうがない。死ぬしかない。次の太陽を見つけたら君に一番に言おう。ほら、あれが俺達の天国だよ、と。』
母はどんくさい人だ。朝は寝坊と共に始まり、通勤に使う定期が無い、とあわただしく部屋を駆け回る。昼には転んで尻餅をつき、財布がどこかへ飛んだ、と騒いで這いずり回る。夜になると夕飯の支度で火事騒ぎを起こし、火が消えない、と泣き回る。何か憑いているんじゃあるまいな、と俺は常々それを疑っている。
母はいつも笑っている人だ。周囲の人間は口を揃え、母をこう表現する。「まるでお日様みたいだ」と。母はどんな道でも臆さず堂々と歩く。暗い道でも険しい道でも、母が通ったそこは人が集まり賑やかになる。魅力という才能。母の最大の財産はそれだろう。
母はひとりだ。
ひとりで働いて、ひとりで俺を育てた。夫である和久は、30歳の手前で大病を患い、俺が赤ん坊の頃に亡くなったらしい。母が言うには彼は親バカをこじらせていて、俺がおもちゃのボールを触るたび、将来はプロサッカー選手だなどと言ってははしゃいで笑っていたらしい。確かに親馬鹿だ。成長した息子に、サッカーの才能は一ミリたりとも無かった。
彼は学生時代にサッカー部のエースと賞賛され、三年次には生徒会長を務めた。いわゆる秀才だったらしいが、親バカ発言と秀才という単語がどうにも結びつかないので、俺は信じていない。母の度の過ぎた惚気だと推測している。
とにかく、母は馬鹿な人で、母は弱い人で、母は間抜けな人で、母は詰めが甘い人で、母は情けない人で、母は失敗ばかりする人だが、俺はそんな母さんが好きだし、誇らしく思っている。そこだけは今でも変わらない。
そんな母があの人を連れてきたのは、小学校最後の夏休みを間近に控えた、七月のことだった。
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「はじめまして」
俺はランドセルを背負ったまま、太陽の照りつける砂利地に頭を下げた。はっきり言って好印象どころか無難ですらなかった相手に、お辞儀などしたくもなかったが、俺は今年で小学6年生で、相手はぱっと見たところ30代後半。年功序列の国に生まれたからには、無難にでも対応するしかないだろう。顔を上げ、愛想笑いを浮かべながら目を細め、男に気取られない程度に素早く分析する。着ているものは何の変哲もないワイシャツだが、キッチリと締まったブルーのネクタイは涼しげで好ましい。だが目元に浅く出来た皺が社会人の苦労を物語っていたし、腕時計は傷だらけで新しく買う金も無いようだ。こいつは大成しないな。内心で吐き捨て、太陽の眩しさに負けたフリをしてもう一度、顔を伏せる。
足元の砂利を靴底で強く踏みつけると砂埃が散った。地面に広がる影がぐんぐんと移動して、俺の足先を飲み込んでいく。大きな影が太陽の熱を少しだけ和らげたのに感謝して、アパートの下に敷かれたコンクリートの土台を横目で見遣る。
俺と母が暮らすこの建物は横幅がとにかく長い。横に六部屋で二階建て、合計12部屋。そして同じ構造の建物が背中合わせで反対側に建造されているので、これを足して合計24部屋。アパートにしては大規模だ。俺自身も近所の住宅でここより規模が大きくて横に長いアパートは見たことが無い。お向かいの住人の話だと昔は駐車場の端のスペースに管理人棟が立っていて、その棟に四部屋あったので元の数は28部屋なのだそうだ。破産した企業の社員寮が巡り巡って買い取られ、アパートに改築されたらしいが、それにしても大きすぎる。駐車場も無駄に広いものだからお隣さんなんぞは「家賃は払っているし俺にも権利がある。空いてる端なら問題ない」と無茶苦茶な理論でナスとトマトの苗を隅っこに植えてしまった。管理人さんに怒られやしないかと、少しばかり期待している。
はやくナスが実らないかと夢想しながら、足元の砂利をふたたび踏みつけると、それを勇めるかのように生暖かい風が首元へ流れた。鼻の奥にじんわりと熱が入り込み、体から水分を奪う。まだ7月のはじめだというのに、どこからかセミの声が聞こえる気さえした。耳に微かに届いたそれを頭の隅で反芻させて、不快な男の気配をかき消す。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。俺はこれから宿題を終わらせて母さんの手伝いをしなきゃいけないんだから。
自分の影を見下ろしながら、男に向かって悪い言葉を並べ立てる。あいにくと罪悪感というものは持ち合わせていないのだ。可愛げがなくて申し訳ない。
静かに念じながら、肩に掛けた黒いベルトを緩く握り込む。6年前、母が苦労しつつ新品で買ってくれたランドセルだ。箱から取り出されたそれを見て、2人ではしゃいだことを一生忘れはしまい。子供と一緒になって馬鹿みたいに喜んでくれた母さん。いつも大事に使っていたお陰で汚れも傷もないランドセルは、俺と母さんの宝物だ。
「おかえりなさい。これから皆で御飯を食べに行くから、荷物を置いてきなさいね」
胸の前で手の平を合わせながら、母が嬉しそうに言った。いや、のたまいやがった。母は満面の笑みを浮かべながらロングパーカーのポケットからどこぞの店のチラシを取り出すと、「見て。ケーキもあるお店なのよ。プリンもあるのよ」などと暢気に説明を始める。御飯を食べに行こうと言っていたのにもうデザートのことしか考えてない。ゆるやかなカーブを描いた明るいブラウンの髪が、喋るたびに揺れる。編み上げのシースルーサンダルが、小さな音を立てた。完全に浮き足立っている。母のはしゃぎっぷりは一目瞭然だ。
背後で車のエンジン音がゆっくりと過ぎていき、遠くではチリンと自転車のベルの音が鳴る。俺はとにかく頭が痛かった。
ああ、もう、理解できない。アパートの入口には俺、母、知らない男がいる。念のためもう一度だけ確認してみよう。俺、母、知らない男。さて、やはりどう考えても俺、母、知らない男の3人しかいないのだが、母さんは何をトチ狂っているんだ?今日はあなたの知らない人と一緒にお食事よ、とでも言いたいのか。まあ、状況から察するにそれしかないのだが。信じられない。思春期の小学6年生に相手にこのやろう。馬鹿なのか。事前に話して外堀を埋めるとか考えなかったのか。馬鹿なのか。母さんは本当に詰めが甘いし気が抜けている。馬鹿なのか。改めて良く分かったよ。この馬鹿。
じりじりと熱が舞う。ああちくしょう。胸中で荒れ狂いながら、俺はにんまりと笑顔を作る。
「ランドセル置いてくるね」
笑う笑う笑う。おかしくて笑う。
能天気な母さんを笑う。どこの誰かも分からない男を笑う。
俺は笑った。てめえを父親だなんて認めるもんか。笑う。おかしくて笑う。
小学校、最後の夏休みの直前。
母さんが恋をして、ひとりぼっちになる自分を、俺は笑っていた。