ピアノ弾きの僕
※企画「ピアノマンで物語を書く」をきっかけに書いたもの
本日の往診は10時からです。無愛想な受付が言った。腕時計の短針は9ぴったりに止まっている。どういうことだよ。
「いや、先生に言われて来たんですよ? 土曜の9時って…」
アクリル板の窓越しに、僕は受付の看護師と顔を見合わせる。彼女のこめかみはピクリと動いていた。イラつきたいのはこっちも同じなんだからその怖い顔をやめてくれ。
僕はこっそりため息をつく。彼女に簡単な礼をのべて、小さなカウンターからそそくさと退散した。
「ようボウス。おまえさんも騙されたのか?」
さて、どうしようか。と思案するなか、酒飲みのじいさんが手をあげて僕を呼んだ。テーブルの上にはグラスが置かれている。よくみたら病院の備品のようだ。このまえ痛い目にあったばかりだというのに、懲りずに飲んだくれているらしい。
「やあビル。先生は俺たちに愛想をつかして出て行ったらしいな」
じいさんの隣でタバコをふかしているのはジョンだ。僕はソファへと近づいて、空いている席へと腰をおろした。
「ふたりとも病院で楽しんでるのかい? 酒もタバコも止められているだろうに。よくやるなあ」
「いいんだよ。ここじゃ何やったって咎めるやつはいねえ」
快活に笑いながらじいさんが酒をあおる。ジョンのほうは目を細めてうまそうにタバコを吸っていた。ちらりと受付を見ると、看護師はそ知らぬ顔で小型テレビを見ている。イヤホンまで耳にはめて。
「うん、まあ、確かに」
この病院はちょっと変わっているからなあ。そう結論付けて、僕はジョンの胸ポケットから飛び出たタバコをしげしげと眺めた。
「ねえ、これだいぶグシャグシャなんだけど」
そっと1本だけを抜き取り、目の前へとかざす。筒状の嗜好品はいびつに折れ曲がっていて不可思議だ。
「きのう落としたときに車に轢かれたんだ。かといって吸えないこともないからね」
そう言ってジョンはライターの火を素早くつける。ニヤリと笑った顔が右に揺れた。
「俺そっくりの転落人生なのさ、こいつは。少しでも可哀相だと思うなら弔ってやってくれよ」
僕は吸い口を黙ってくわえ、その先をライターの上にかざした。崩れた葉っぱが少しだけ口内に入ったけれど、それはまあいい。
ジョンはたまに、こうして皮肉った物言いをする。恐らく彼は何らかの病気なのだろうと、僕はぼんやり認識していた。真実を尋ねたことは一度もない。僕も、じいさんも、ジョンも、お互いのことはあまり知らないままでいいと思っている。
「ここから抜け出せたなら」
「アクション俳優になる? だっけ?」
「映画スターだ。ビル」
紫煙が僕たちの髪をくすぐる。じいさんがクツクツと笑い出した。何がおかしかったのか分からないが僕も笑う。
「はあ? おい待ってくれ。私は9時にあの医者と約束したはずだぞ」
呆れたような声色に反応して、僕は目線をあげた。見れば受付のカウンターに向かって、スーツ姿の男がズンズンと歩いている。その隣でのんびりと相槌をうっているのはデイビーだ。
「おかえりデイビー」
ジョンが言う。
「おいおい、またそいつの世話を焼いているのか?」
じいさんが言う。
それを聞いたスーツの男が、むっとして眉根をよせた。その表情をみたデイビーがすかざすフォローを入れ、男の肩を軽くたたく。
「まあまあポール。先生がいつだって自由なのは、この病院じゃあちょっとした名物だろ? あんまりカリカリしなさんな! 待ってる間にみんなで酒でも飲もうや!」
さすがの手腕だ。不機嫌だったポールの背を押して席に誘導しつつ、手に提げたマーケットの袋からあれよあれよという間に品物を揃えていく。
酒につまみはもちろんのこと、果物、炭酸、サンドイッチ、冷凍食品、DVD、週間雑誌、はては電動歯ブラシなんてものもある。改めて思うがこの人達は何をしに病院まできているのだろう。
「おおビルも来たか! 君も今日のパーティーに招かれたくちだね? まあ先生が来るまで楽しくやろうぜ」
片目をつむり、デイビーが僕に緑色の缶を選んで手渡した。どうやら他人の好みまで熟知しているらしい。恐ろしく出来たやつだ。
「どうもそうらしい。君も9時に呼ばれたんだね」
お互いに大変だ。と続くはずの言葉は彼の動作によって阻まれた。デイビーは顔の前で手を振りながら言う。
「いいや。俺の場合は8時に呼ばれたのさ。じいさんが来るまで、受付のお嬢さんとふたりきり。先生も粋な計らいをしてくれたもんだよなあ。まったく!」
隣に座るじいさんを見れば、追加された酒を上機嫌にあおっている。
「じいさんが我侭を言って、デイビーに酒を買いに行かせたのさ」
それはなんとも呆れたじいさんだ。耳打ちして知らせてくれたジョンに目線で頷き、僕は先ほどの受付での対応に納得した。彼女も僕らと同じ被害にあったのだ。それももっと早い時間帯に違いない。
「さあて」
デイビーが手のひらを打ち付け、ウインクを飛ばす。
「さびれたバーの完成だ。酒飲み、大いに結構! 無駄食い、大いに結構! 自由にやりましょう!タバコもジャンジャン吸っちまえ!」
「飲むぞ!今日は飲むぞ!」
僕の体を押しのけて、じいさんは缶ビールの大群へ頭から突っ込んだ。あんたはすでに出来上がってるじゃないか。飲むのをやめろ。
「なにやってるんだジジイ! 怪我したらどうする!」
あわてたポールが腰を浮かせてテーブルから凶器になりそうなものをどけていく。その拍子に、机の端からヒゲ剃りシェーバーが落ちた。なんでこんなものまで。
「おいビル! クソジジイから酒を取り上げろ! そのうちまた吐……ああもう何を考えているんだ! 年寄りをこんな時間から酒びたりにさせやがって! 子供はなにしてる! ビルはやくしろ! おい言ってるそばから飲むなジジイ!」
「うるさいわ! 三流ぶろおかーの小僧っ子が! こっちは老い先が短いんだ! 好きに飲ませろ!」
「黙れジジイ! 誰が三流だ! 私の仕事を馬鹿にすることは許さんぞ! 体壊してまでこの業界でやってきたんだ! 命はってんだ私は! おい飲むな! 寄越せ! ビンっを……っよこっせっ!!」
「ろ……っ老体になんてことっするんっだ……! わったすかあ……っわたしてなるものかっああ……!」
目の前で起こるやりとりを尻目に、デイビーはつまみを貪り、ジョンは声をあげてヒーヒーと笑っている。僕はといえば2本目の酒を品定めしつつ、プリッツを噛み砕いていた。うまい。これはあとで買いに行こう。
「おいウエイトレス! 上等の酒を持ってこい! ジントニックだ! じんとにっく!」
空になった手を振り回し、でろでろに泥酔したじいさんが叫ぶ。その眼前に、奪い取ったビンを抱きしめてポールが仁王立ちしている。彼は振り返ると、受付の看護師に向かってめいっぱいに叫んだ。
「結構です! キャンセル! キャンセルだ! 君は君の仕事をしていなさい!」
叫ぶ必要はないのに、じいさんにつられたらしい。看護師の彼女はうろんな目でこちらを見ると、小さく口を動かしてからまた元通りに黙って目線を落とした。僕の予想が間違いでなければ「うるせえぞ」だろう。彼女の手には分厚い本が握られている。最近は政治の勉強をはじめたと聞いたから、たぶん参考書のたぐいだ。勉強を阻害された看護師の顔はいままでになく凍っていた。
「チクショウが! 老人の楽しみを奪いやがってこの糞餓鬼! ビル! おいボウズ! ピアノを弾いてくれ! おまえはピアノ弾きだろう? ビル! ビル! ビル!」
「おやおや、お爺様がお呼びのようだぞ。ピアノ弾きのビルくん?」
ポテトの袋に手を突っ込み、焼け焦げた出来損ないを黙々とつまみ出しているデイビーが言った。
ジョンはその様子を見て首をひねっている。
「君はなんでそんな面倒なことやってるんだ? 捨てるんなら袋の下に残しておけば済む話じゃないか」
「捨てる? おいおいこれが一番おいしい部分なんだぜ! 捨てるなんてありえないだろう!?」
なに言ってるんだこいつ。ジョンの顔はそう訴えるように無表情で僕のほうを向いた。僕は堪えきれずに吹き出す。デイビーは気にせず焼け焦げポテトを一心に租借しはじめていた。
「おい、ビル。悪いが一曲だけ弾いてくれないか。じいさんが五月蝿くてかなわん」
左手で肩を揉みながら、ポールがソファまで近づく。よく見るとスーツの前ボタンがひとつ無くなっていた。じいさんとの戦いは相当に骨が折れた様子だ。
「いや、言っとくけどあれはじいさんの妄想だよ。ここにピアノは無いし、そもそも僕は楽器なんて弾けないしね」
「それは分かっている。弾くふりで良いんだ。あの医者から聞いたぞ。そういうケースの患者にはとことん付き合ってやるのが良いんだってな」
ぽんぽんと僕の頭に手を乗せて、ポールは灰色の瞳をじいさんへと向けた。 彼は口が悪い。だけどこの中で、誰よりも他人に優しい人間だ。
僕は頷く。ジョンが酒や食べ物をテーブルの端へよせた。
「さあピアノマン。弾いてくれ」
茶色のテーブルに指をのせると、じいさんがぐでんぐでんになりながら僕の隣へと駆け込んできた。
「リクエストはある?」
「あの曲だ!俺の若かった頃の曲だ!古いふるいお前らが知らないような曲。あの曲を聴かせてくれ!」
なんて無茶な注文だ。それでも、僕はじいさんに向かってこう言った。
「いいよ。どうぞ、聴いてください」
じいさんは顔をキラキラとさせ、勢いづいて酒瓶をけっとばした。ポールは額に手を当てながら、その様子を見守っている。
僕は指をかるく丸めてから、ゆっくりと空中に浮かせた。背筋を伸ばし、ただの木の板に視線を落とす。白い鍵盤が見えるわけでもない。ただのテーブル。だけど、僕はそこに最初の指を落下させた。1小節。アウフタクト。音は聞こえない。聞こえるわけが無い。だけど、だけど僕は弾いている。小さな振動でつまみのチーズが跳ねた。わずかだった音の気配が次第に濃くなっていく。強く、強く強く流れを押して強く強く強く誰かのためのメロディーを。あるはずのない楽譜に従って、ソ音。左の指。右の指。僕は弾く。高く繰りかえす音を視野に入れて、計算し、導き出された答えをこめて鍵盤を押す。そして新しい音へと繋ぐ繋いでいくいつまでも繋いでレガート全てを繋いで僕は鍵盤を打った。
「ビル、聞こえるかい?ビル?」
ああ、先生。せんせい。きこえています。
「きみはまだ若いんだだから大丈夫きっと」
はい、先生。わかりましたせんせい。せんせい薬をください。
「ああ、ビル。あげよう。君が楽になれるならあげよう」
コイン。コインだ。せんせい。ありがとうせんせい。
客はピアノ弾きにチップを渡すといつも言う。
「ビル。きみは早くここを出なさい」
わかっています先生。だけど僕は、まだここを抜け出せないんです。
土曜日、僕は9時にここへ来る。先生に会いに。皆に会いに。
土曜日、先生はいつも僕らをほったらかす。僕のために。皆のために。
ノン・レガート。ノン・レガート。僕は弾く。弾かない。弾くのをやめた。
僕はもうピアノ弾きじゃない。けれど、僕は思うんです。
先生、きっとまた、僕はピアノを弾ける日が来るのでしょう。先生にはそれが分かっている。
無音のメロディーを机にのせて、僕はじいさんの思い出の曲を弾く。
終わりに向かって、はかなく、寂しく、だけど強く。
僕は弾いた。最後まで叩いた。そして、節の最後の終止。
僕は鍵盤から指を離し、自分の両の手をじっくりと見た。10本の指はそれぞれがかすかに震えている。
ジョンが片眉を下げて意味深に笑う。
「素人にしてはうますぎるな」
「だな。どこぞのプロかと思ったぜ?」
デイビーが嬉しそうな顔でこぶしを突き出した。じいさんを見れば寝こけている。このやろうとは思ったがまあいい。そんな老人を見ながら、ポールはブツブツと文句を言い、どこぞから持ち出した毛布をかけてやっていた。
腕時計を見れば、既に9時50分。もうすぐ往診の時間になる。僕はポケットの中に入れっぱなしだったチップを取り出して、遠くのゴミ箱に向かって投げた。カラカラと、カーニバルの余韻が聞こえる。
ピアノ弾きの僕は、満ち足りた気分でぬるいビールをあおった。