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短編集ページ  作者: 小森
部屋から出ない3人の兄弟
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僕の物語の始まりは 三男の話

※暗めの話

 

 僕には兄が二人いる。


 気付くと長兄である炬にいちゃんは引きこもりだった。

 当初の幼い僕が、それを疑問に思ったことは無い。その頃の僕にとって、兄が毎日家に居るのは至極当然のことであったし、優しい兄が僕と遊んでくれるのは嬉しい出来事以外のなにものでもなく、疑念の余地などあるはずもなかったのだ。自分にとっての楽しい毎日。それを疑う理由と、賢い頭。当時8歳の僕には、そのどちらもが欠けていた。


 炬にいちゃんは頭がよい。

 僕は知っている。両親が居ない隙を見計らい、幼い彼が父の医学書を読み漁っていた事を。兄は12歳だった。もちろん学校にはとっくに行っていない時期だ。内容のすべてを理解していたのかは謎である。尋ねればあの朗らかな兄はきっと答えてくれるだろう。しかし僕はそれをしない。

 とにかく兄は頭がよい。僕にとってはもうそれで充分なのだ。それ以上を知れば、僕の中の見えない何かが壊れてしまう。


 2年後、次兄の馨にいちゃんが登校拒否を始めた。理由は教えてもらえなかった。

「俺、明日から休む」

 夕餉の時間だった。兄がその言葉を放ったのは。隣に座る炬にいちゃんは、沢庵を齧りながら頷いている。僕はどうすればいいのか全く見当がつかない。しかたなく普段通りに箸を進めた。

「お父さんが帰ってきたら話そうか」

 母は笑顔だった。内情は分からない。もしかしたら泣いていたのかもしれないが、その時の母は笑っていた。悪寒がした。

 食卓は続く。隣の家の笑い声が微かに聴こえたのは、恐らく僕の生み出した幻聴に違いない。楽しいこと。嬉しい事。面白いこと。もうわからない。そんなもの存在するんだろうか。笑い声は僕の頭の中でぐちゃぐちゃに煮えている。幻聴に違いない。幻聴に違いないのだ。僕は卵焼きを租借して飲み込んだ。


 中学校に入学する頃、僕の身長が少し伸びた。兄達は変わらず家の中での生活を繰り返している。危機感のような焦燥のようなものが己の中に生まれ、言いようの無い苦しさが胸を塞ぐ。世界が恐ろしい。毎朝7時に起きて、朝食を食べ、身支度をする。学生鞄を掴んで僕は家を出た。吐き気が始まった。


 教室にて消しゴムを無くす。困惑してペンケースの中身を漁ったが出てこない。見かねた隣人から声がかかる。

「消しゴム忘れたの?」

「あ……うん。無くしたみたい。2時間目に使ったんだ。美術室かも」

「あー、美術室3年が使ってるよ。確か。私の使いないよ。2個あるから」

 隣の彼女の筆入れから、小奇麗なピンクの消しゴムが現れた。

 可愛らしいくディフォルメされた、動物の絵柄がプリントされている。笑顔で応対しようと勤めたが、正直自信がない。今の僕はきっと世界で一番醜いだろう。

「…………ありがとう。帰るときまで借りてていいかな?」

「うん。いいよ。使い終わったら声かけてね」

 善意だ。彼女は優しい人なんだ。良い人なんだ。僕はそれを分かっている。分かっているのに。吐き気と耳鳴りが止まらなかった。泣きたい。消えたてしまいたい。


 従妹の涼夜ねえちゃんが家に来た。最近のねえちゃんは文化祭の準備で忙しいらしく慌しい。

「ごめんね。なかなか来れなくて。これ、母さんからバームクーヘン。頂き物だけどって言ってた」

「明日本番なんでしょ。今日大丈夫なの?ていうかちゃんと息抜きとかしてる?」

「兎三郎は優しいなあ。馨。あんたも見習いなさいよね」

 ねえちゃんが僕の頭を撫でた。くすぐったい。久しぶりに素直な笑みを零したこの日は、晩御飯のシチューがとても美味しく感じた。このとき、僕はまだ大丈夫だと信じていた。


 12月。

 来年の春、僕は中学3年生になる。そろそろ高校受験というやつに取り組まねばならない。深夜に目が覚め、水を飲みに階下へ降りた。馨にいちゃんが居間で新聞を広げていた。

「まだ起きてたの」

 紙の擦れる音と冷蔵庫の振動が合わさる。水道の蛇口を捻ると冷えた水がシンクに跳ねて煩い。慌ててコップをあてがい、半分ほど溜まったところでパルプを締めた。

「おまえさ、どうすんの」

「なにが」

 兄は灰色の紙を見たままテーブルに肘をついている。ガラスの中の透明な水が揺れた。

「にいちゃんも水いる?」

「だからおまえ、どうすんの?」

「…ねえ、なに言ってるの」

 こちらを振り向いた兄と対面した。いつもどおりのすまし顔で、ただじっと僕を見ている。吐き気は無い。耳鳴りも無い。恐怖もなにもそこには存在しなかった。真っ白に。いや透き通るほど透明に。なにも、なかった。

「にいちゃ……」

「寝るわ」

 立ち上がって新聞紙をたたみ、馨にいちゃんはテーブルにそれを落とした。

「……そう……電気、俺が消すね。おやすみ」

 ああ、と唸るように兄が答える。背の高いその姿が廊下へ消える前にと、僕は焦燥に駆られて口を開く。

「にいちゃんは……わかってるの?」

 床が軋んで、冷蔵庫が唸って、夜の空気が冷たくて、コップの中の水は透明で。そう、なにもかもが透明な中で。

「わかんねえよ」

 静かに兄は言った。いつもどおりの、すまし顔で。




 炬にいちゃんは頭がいい。

 馨にいちゃんは気付いている。

 僕は醜く。

 涼夜ねえちゃんはいつだって優しくて綺麗だ。




 春の新学期、進路希望調査票が配られた。

 父と母を前に、僕はそれを広げ、口を開く。

 なにもかもが透明な中、僕だけが濁って淀んでいる。

 恐怖もなく焦燥もなく。透けた空気に包まれて、僕は微笑んだ。

「お父さん、お母さん、産んでくれてありがとう」


 中学3年生、15歳の春だった。


「僕はもう、学校に行きません」


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