こんなDNAは好きですか?
〈こんなDNAは好きですか?〉
朝起きたら、隣に双子の妹の胡桃が寝ていた。
俺は盛大に混乱した。なんだこの状況は。
幼稚園児や小学校低学年とかならば微笑ましい光景、といった程度で済んだかもしれない。だが生憎と俺たちは既に中学生だった。性の匂いがする。
「おい、胡桃! 起きろって、おい」
力いっぱい揺さぶるが、反応はない。昔から寝起きの悪い奴だったが……思い出に浸っている場合ではない。
そもそも、なぜ胡桃が俺の布団で寝ているのか。まさか寝相が悪いせいではあるまい。俺と胡桃は部屋が別々なのだ、眠りながら家を徘徊するとか笑えない。
ともかく、早々に起こさなければ倫理的に危険だ。学校にも遅刻してしまう。
頬でも引っぱたいてやろうかと胡桃に馬乗りになった瞬間だった。
「洋一、もう朝よー」
俺の名前を呼ぶ声。
それと同時に、ドアノブが回された。毎度ノックもせずに部屋の扉を開ける我が家の母に、俺は辟易としている。世の男子諸君ならばこの苦悩を理解してくれるはずだ。
「ち、ちょっと待て母さん!」
全身全霊の制止も虚しく、母さんは部屋の内部を覗き、そのままの姿勢で硬直した。
「…………」
「…………」
しばし無言の時間が流れる。俺は釈明したかったのだが、焦燥のあまり言葉が探せなかった。
沈黙を破ったのは、母。
「これ、忘れちゃ駄目よ」
彼女はポケットからなにかを取り出すと、それをシーツの上に乗せた。その神妙な口調に、俺は気になってそちらに視線を向ける。
そこには、ゴム製の――
「指サックじゃねえか! どう使えと⁉ ああ、なんか話の流れのせいで卑猥な形に見えてきた!」
母親がお年頃の息子にする冗談ではない。
そそくさと部屋を出ていく母さんに、俺は胸中で嘆息する。ちくしょう、まさか本当に近親相姦未遂とでも誤解されてしまったのか。
べらぼうに不名誉な烙印を払拭するためにも、早々に胡桃を夢の世界から連れ出さなくては。自己弁護したって疑いは晴れないだろうし。
「胡桃、とっとと起きろ! 学校に遅刻しちまうぞ」
デコピン、鼻つまみ、耳元に吐息――試行錯誤を繰り返すが、一向に目を覚ます気配がない。
こうなっては最終手段、性感帯でも刺激してやろうかと半ば本気で決意したとき、
「ん、うぅ……」
絶好のタイミングで胡桃が瞳を薄く開いた。
「げ」
「え?」
視線が交錯する。身体を重ね密着しているという、情状酌量の余地なしの体勢。しかもさっきの俺は、現に実妹へとセクハラをぶちかまそうと画策していたのだ。罪悪感が胸を締めつける。
しかし胡桃は不意に、
「……なんで兄ちゃんがあたしの布団にいるの?」
間の抜けた呟きを漏らした。
……どうやらこの馬鹿妹は、根本的な勘違いをしているらしい。胡桃は天然系なのだ。
とはいえ九死に一生を得た。俺の身体から発せられる邪なオーラと股間の朝の準備体操を気取られていたら危なかった。家庭裁判に訴訟されるところだった。
「阿呆、ここは俺の部屋だ。寝ぼけてないで自分の部屋に戻れ。そして母さんに俺の無罪を証明してくれ」
後半は命令と言うより懇願だ。対して胡桃は――事情を把握していないのだから当然か――首を傾げながらも俺の部屋を出ていった。
……ん?
それで結局、胡桃が俺の布団に潜り込んでいたのはどうしてなんだ……?
相変わらず、胡桃の行動は意味不明である。
朝っぱらから奇怪なやり取りを繰り広げていたせいで、普段家を出る時刻をとうに過ぎてしまっていた。もう学校に遅刻寸前だ。
「「行ってきます!」」
兄妹揃って定番ラブコメよろしく食パンをくわえて玄関を飛び出すと、家の門前には男性が仁王立ちし、俺たちの進行を妨げていた。
「おまえたち、ちょっと待――」
「どいて」
「げぶぅっ!」
胡桃がそいつの側頭部に飛び蹴りを入れた。容赦なしだ。
予定していた台詞があっただろうに、男性は虚しく地に伏した。
その正体は確かめるまでもない。胡桃が凶暴性を露出させる相手は彼をおいて他にいないのだから。
「……大丈夫か、父さん」
突然の展開に肝を冷やしながら、俺は痙攣している父に手を貸した。よろよろと立ち上がる。さすが父さん、胡桃の理不尽な暴力にも慣れている。
そう、胡桃は父さんを唾棄し忌み嫌っていた。
お年頃の少女は父親を嫌うとはよく聞くが、こういうことじゃなくね? まあ、以前父さんが直接の打撃よりも洗濯物を別々にされる方が精神的に厳しいから問題ない、と言っていたし気にしないでおこう。
「で、どうしたんだ? 悪いけど俺たち、急いでるんだ」
なぜ仁王立ちなどしていたのか。それに父さんからしても、胡桃の一撃をもらうことなど予想の範疇だったはずだ。もしかしたらマゾなのかもしれない。
「いや、せっかくだから送ってやろうと思ってな」
その質問に、父さんは快活に笑って右手から車のキーをぶら下げてみせた。
「でも父さん、普段は電車通勤だろ? 俺たちを送って仕事間に合うのかよ」
「久しぶりに車で通勤するのも悪くないさ」
会話しているとわかるが、やはり父さんは常に笑顔が絶えない、温厚で気さくな人柄だ。どうして胡桃はこんなよい父親を毛嫌いするのだろう。思春期って奴か。
とにかく今日は父さんの好意に甘えよう。俺は父さんの後についてガレージへ行き、軽自動車の後部座席に腰を下ろした。
「あ、そうだ、パパ」
続いて車に乗り込んだ胡桃が、運転席へと辛辣な口調で言った。
「学校の近所まで行ったら絶対に降ろしてね。みんなにパパのこと父親だと思われたくないから」
父さん……アンタ、泣いていいよ……
俺は無言で、静かに嗚咽を漏らす父の背中に合掌した。
学校までの短いドライブはひとまず順調だった。
当然だが徒歩で通うよりも断然速い。不機嫌な胡桃はもう放っておいて、遅刻の危機は免れて俺は安心しきっていた。
「ちょっとパパ、もう降ろして」
隣で胡桃がごねる。気づけばもう学校はすぐそこだ。
「へいへい……」
憔悴した声音で父さんが車を操作した。
すると、両側の扉が自動で勢いよく開かれた。
走行したままで。
「うおおおっ!」
「きゃああっ!」
突然の出来事に仰天してしまう。足元を地面が高速で流れていく。落ちたら怪我では済まない。
「ととと父さん⁉ なにやってんだ!」
「すまん! いろいろと間違えた……こうか?」
狼狽した父さんが次におこなった行動は、無免許の俺でもわかった。
――アクセル全開だ。
「おがあああああああああ」
襲い来る強烈なGに、身体が座席に磔になる。暴風が全身を斬りつける。
「なにやってんのパパ! 馬鹿! クソッタレ!」
涙目で悪罵を吐く胡桃。汚らしい言葉遣いを訂正してやりたいが、今回ばかりは全面的に胡桃に同意だ。なにしてんのこの馬鹿親父。
「大丈夫だ問題ない!」
言葉とは裏腹に狼狽した父さんの叫びと同時に、スピードメーターが三桁の大台に達した。これは洒落にならん!
俺たちを乗せた車が校門を突っ切った。登校中の生徒や事務員のおじさんは、その光景を呆然と眺めていた。
無人の校庭に飛び出す車体。未だ速度は緩まない。
「もう止めろ馬鹿! さっきからどうした⁉」
「いや……ブレーキってどこだっけ? もう運転するの二年ぶりくらいだからなぁ……」
「ペーパードライバーが調子乗ってんじゃねえよ!」
なんで途中まで自信満々だったんだ、そのキャリアで。
「だからあたしは嫌だって言ったじゃあぁん!」
隣の席では胡桃が号泣している。
――もう、ガス欠まで校庭を爆走し続けるしかないのか。
俺が観念して、すっと瞼を閉じた、そのときだった。
ぷるるる――ぷるるる――
携帯電話に着信。
「……な、なんだ、こんなときに」
場違いに甲高い音を鬱陶しく思いながらも画面を覗くと、そこには母の名前が表示されていた。一体どうしたのかと慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし母さん? どうしたのさ。こっちは電話してる場合じゃないんだけど……」
『大体予想は尽くわ。お父さんの車が暴走してるんでしょう』
「え、どうしてそれを……」
『もう結婚して二十年よ。お互いのことは誰よりよくわかるわ』
……そういう問題でもない気がするけど。超能力者か。
『とにかく、お母さんに任せなさい。一瞬でお父さんを鎮めてあげるわ』
「…………」
微妙に信用ならないが、俺たちはもう藁だろうが悪魔の囁きだろうが、縋るしかないのだ。
「……どうするんだ」
息を呑み、母さんの手を借りる不退転の決意を固める。
『ケータイをお父さんの耳に当てて。それだけでいいわ』
あまりに単純すぎる手法に疑問を覚えるが、俺は素直に従った。座席から強引に背中を引き剥がし、通話口を父さんの耳元に近づける。
『――』
なにか電話越しに呟きが聞こえた。内容までは聞き取れなかったが。
瞬間、
「がああぁぁぁああぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁあぁっぁああぁああああぁぁ」
運転席から慟哭。
まるで獰猛な怪物の雄叫びのような声に、俺と胡桃は戦慄した。
だが、勇気を振り絞って父さんの顔色を窺う。
そして、驚愕。
「あ……」
目を瞠ったのは、父さんの異常な精神状態にだった。肩を震わせ、瞳孔が開き、顔全体から脂汗を噴出し、鼻腔を広げ、真っ青になっていた。明らかにまともな精神状態ではない。
「おい父さん! しっかりしろ! どうしたってんだ!」
「ああぁぁああおあぁおあおぉあおあおぁおおおおあぉぉぉおあおぉおぉううえぇえいやっほぅ」
肩を激しく揺さぶるが微動だにせず、ただ阿鼻叫喚の声を上げ続ける。仕舞いには、車の計器を殴打し始めた。不穏すぎる空気。
俺は事態の悪化を確信し、脳内で母さんを恨んだ。しがみついてくる胡桃を両腕に抱きながら。
しかし、
「……おう?」
唐突に俺たちを乗せた車は活動を停止した。
エンストしたのだ。
「た、助かったのか……?」
誰にともなく呟く。途方もない非現実から脱出したというのに、その事実にこそ現実味が感じられない。強制終了した悪夢に、精神が追いつけずにいる。
「兄ちゃん、あたしたち、助かったの?」
荒い息を吐き尋ねてくる胡桃にも言葉を返せない。ただ唖然として虚空を見つめるばかりだ。
「はっ! 父さんは……⁉」
しかしある程度時間が経過すると、弾かれたように身を起こし、前方の席を確認した。元を辿れば父さんの自業自得なのだが、いきなり発狂したのだ、心配にもなる。
「大丈夫か……って」
後ろから顔を突き出し、そこで俺は愕然とした。
父さんは失神していた。
白目を剥き、口から泡を吹いている。ここまで典型的な気絶をしている人間は初めて見た。なんと無残な。
双眸を伏せ、俺は本日二度目の合掌をした。
それにしても、なにが父さんを狂気に導いたのか。
いや、原因はひとつしか考えられないが、パンドラの箱を開く度胸はないので俺は敢えて思考を放棄した。
そして、今日はお土産に美味しいスィーツでも買って帰ろうと俺は密かに胸に留めたのだった――
教室では――いや、学校中が暴走自動車の話題で持ち切りだった。
もちろん当事者である俺と胡桃は生徒から教師から質問攻めに遭い、それらを適当に追い払うことで、ようやく束の間の安息、昼休みを得ることができた。
「疲れた……」
給食がそれぞれの席に配膳される中、俺は疲労のあまり、ひとり机の上に突っ伏していた。午前中の野次馬根性とは打って変わって、驚くほど俺に接触する者はいない。ボロ雑巾のようになった俺を哀れんでいるのかもしれない。
周囲からは、ただ遠巻きに俺を眺めてささめく声だけが聞こえていた。針の筵に座した気分だ。
――胡桃も今頃こんな感じだろうか。
ふと気になって妹のいる隣のクラスを仰ぐように顔を上げると、
「兄ちゃあぁぁぁぁん!」
俺の鼻面に尋常でなく臭い液体が噴射された。
「ぐぉう! 目が、目がぁ!」
眼球に液体が染み入り、その痛烈な刺激に俺は床を転げ回る。
そんな無様な醜態を晒す俺にも、容赦なく謎のシャワーが吹きつけられる。この独特の匂いは……消毒液か?
激痛を堪えて開眼すると、頭上では胡桃が、給食前に手を除菌するための消毒液の容器を両手に構えていた。不意打ちの正体はこいつか、一体なんの真似だ?
「に、に、ににに兄ちゃん! 兄ちゃぁん!」
胡桃は顔中を林檎色に染め、涙目で俺になにかを訴えかけている。胡桃さん、泣きたいのは俺の方です。
その間にも目的不明の除菌作業は継続されていた。放射状に放たれる液で制服がびしょびしょにされる。
これは――アレか。『貴様の存在が細菌兵器だ』とかいう新手のイジメなのか。だとすると効果は絶大だ。実の妹からこの仕打ちは、割と本気でへこむ。
「いい加減にしろコラ! 反抗期なのか? パンツをいっしょに洗ってほしくないのか?」
「違うよ! 匂いが……匂いが……」
「あぁ?」
憤慨して尋ねると、突然うわ言のように『匂いが』と呟き出す胡桃。まったく要領を得ない。
「説明しよう!」
「うお、びっくりした」
俺の横ににょきっと顔を出したのは、級友のひとりだ。下卑た笑みを顔に貼りつけている。
「今日、おまえの身体からずっと匂いがするんだよ」
「なんの?」
「胡桃ちゃんの、だよ」
「あぁ⁉」
その台詞に、俺は慌てて自分の腕に鼻を当てる。が、消毒液特有の匂いに紛れて判別できない。……そういうことか。
「車の中ですごい洋一にしがみついてたもんな、胡桃ちゃん」
「ああ、外側からでもよく観察できたぜ」
「兄妹の禁断の愛だなんて……不潔ッ!」
ここぞとばかりに囃し立てる生徒たち。なにか不穏当な発言が混じっていた気もするが、ひとまず無視しておこう。
誰ひとり思い至っていないようだが、よく考えれば車内の騒ぎだけでそこまで匂いがうつるはずがない。いくら渾身の力で抱き締めようと、たった五分足らずの出来事だったのだから当然だ。
胡桃の匂いが俺についている真の理由は、今朝布団をともにしていたせいだ。卑猥なことを想像した輩は一行目から読み直すといいよ。
しかし胡桃が恥ずかしがるのも納得だ。この集団に詰問されれば証拠を滅却したくもなる。でも消毒液はやりすぎ。よい子は真似しないでね。
だから奴ら、午前を過ぎてから水を打ったように静まり返ったのか。新しい事件(というか騒動のネタ)を嗅ぎつけ、胡桃をけしかけたのだろう。
「兄ちゃん……」
煽り文句への含羞からか耳まで赤くなっている胡桃の表情が、くしゃりと歪む。目尻に溜まった涙は今にも決壊しそうだ。
――ここは兄として、妹を守らなくてはなるまい。
ぎゅっと拳を握り締め、そして叫ぶ。
「よく聞け、おまえら!」
瞬間、取り巻く喧騒がぴたりとやんだ。いきなりの一喝にみんな黙し、瞠目している。
好都合だ、これで一気に片がつく。
俺は耳が痛くなる静寂の中、胸を張って宣言した。
「この匂いは、俺が胡桃の部屋を密かに探索したときについちまったものだ!」
刹那。
氷河期よりも冷たい空気がこの場を支配した。
「だから胡桃はたいして強く俺に抱きついてきていない! こっちからすれば物足りなかったくらいだ!」
「……なあ、おまえまさか……シスコン?」
「ああ、そうだとも!」
当然、口から出任せだ。しかし妹の尊厳を守るためには、これは必要不可欠な虚言だ。胡桃が涙するくらいならば、俺が喜んですべての泥をかぶろう。
この程度で、胡桃の笑顔を取り戻せるのならば……俺は、慈愛に満ちた笑顔で胡桃に瞳を向け――
「この……変態!」
「おるふぇっ!」
脇腹に膝蹴りをお見舞いされた。
「ほんっと……ほんっと最低!」
心底から軽蔑の眼差しを俺に向けてくる胡桃。え、もしかしてこの馬鹿、俺の言ったこと全部鵜呑みにしてないか?
そして胡桃は踵を返して全力疾走、教室を出てあっという間にその姿を消してしまった。
「洋一、それはないわ……。それを妹にバラしちゃうのはヤバいって」
級友が優しく俺の肩を叩く。その手は小刻みに震えていた。
俺を取り囲む人の輪が次第に肥大化していく。ひそひそと交わされる噂話は早速尾ひれがついて、俺が胡桃を強姦したとかいう中学生ならざる疑惑にまで発展していた。
俺は、学校と家庭、双方の居場所が脆くも崩れ去っていくのをその身に感じ、絶望に視界が暗くなった――
――なーんて。
この程度の波乱、俺にとっては日常茶飯事だ。
父さんや母さん、それに胡桃と過ごしていると、毎日がてんやわんやの大騒ぎ。息つく暇もありゃしない。
けれど、俺はそんな生活を心根から堪能している。
大変だけど、それ以上に充実しているんだ。
平坦な日常に置かれた爆弾。それを着火するのも面白がって投げ合うのも、血筋で受け継がれた気性なのかもしれない。
我ながら馬鹿げた家庭だと思う。でも、慣れれば案外楽しいもんだ。
――ここで質問。
みんなは、こんなDNAは好きですか?
読んで頂きありがとうございます!
私はこれまで自身のことを生粋の姉派だと豪語してきましたが、拙作の執筆を通して妹も悪くないと思えるようになりました。進化なのか退化なのか。
でも消毒液はやりすぎ。よい子は真似しないでね。