第32話 仮面を被る者
その日の天気は暗たんとしたものだった。
空を覆う薄い雲の隙間から太陽の光がわずかに漏れている。
いつ雨が降っても不思議ではない状態が朝から昼にかけて続いてはいるが、晴れるわけでも小雨が降るわけでもない中途半端のままだ。
強い風が吹き、街路を行き交う旅人たちのローブがなびく。
雨を警戒してか、寒さを避けてか、人通りは決して多いわけではない。
(このような煮え切らないな天気ならば、いっそのこと土砂降りにでもなった方がすがすがしいのに)
アリシアは宿の部屋のベッドに腰掛け、外の風景に目をやりながら独り言をつぶやいた。
彼女にとってその日の天気は自らの心を映す鏡のように思えたのだ。
窓縁に置かれた瓶は相変わらず禍々しい光を放っていた。
薬屋の主人によると、これは市場で広く流通している下剤で、決して命には影響がないらしい。
便秘などにはよく効くので医者に広く愛されているものなのだが、健康体の人間が摂取すると、頻繁に便意を催すようになり、集中力が大きく落ち、眠気も誘うとか。
剣術の試合は一瞬の隙を見せたら負ける。
朝食にこれを混ぜた日には本来の実力の半分も出せなくなるだろう。
(こんなもの、さっさと捨てればいいのに何を僕は迷っているんだ……)
アリシアは心の奥底で、レオがミナに告白をすることを妨害してやりたいという気持ちが少しずつ大きくなってきていた。
それが、いかに卑劣かつ神聖なる試合を汚す行為であるのかということは、剣士の端くれであった彼女にはよく分かっていた。
にもかかわらず、薬を混ぜてやりたいという衝動がときどき頭をよぎるのだった。
そして、それはミナへの憎悪という感情だけでは説明しきれないものだった。
(まさか、僕は、レオをミナから略奪しようなんてことを考えてしまっているのか?)
アリシアは自らの中に目覚めかけていた嫉妬という感情に戸惑いを見せていた。
(僕は、体は女になってしまったけれど、心は男のままのつもりでいた。だけど、今の気持ちはそんなことでは割り切れない。女として生活していくうちに心も女になりつつあるのか。男を愛し、さらには、両想いの相手から略奪までしたいなんて大それたことを考えるようになってしまったのか。このまま、僕は身も心も悪い女になってしまうのか)
悶々と悩みながらアリシアは己の罪深さと羞恥に顔を赤らめていた。
部屋に閉じこもっても、ろくなことを考えないと思ったアリシアは大会予選会場に足を運ぶことにした。
レオを含めほとんどの決勝大会出場者は既に決定していたが、まだ、若干名分だけ枠が残っていた。
予選大会は実力者から順に勝ち抜くシステムになっていた。
だから、レオやキールらと太刀打ちできるほどの使い手はいないだろうとアリシアも高をくくっているところはあった。
「勝負あり!最後の決勝進出者はアウルマスク!」
梟の仮面をかぶった男が一瞬にして対戦相手の懐に潜り、鮮やかに剣を顎につきつけた。
その手際の良さは、男だった頃のアルスと同等、いや、もしかしたらそれ以上の使い手かもしれない。
(こんな強さの剣士がこんな辺鄙な田舎の大会に出場しているなんて信じられない。そして、この身のこなし、まさか……)
アリシアには仮面の男の正体が誰であるのかおおかたの見当はついていた。
しかし、それはにわかに受け入れがたいことだった。