第31話 マグマのような情念
老人は律義にお辞儀すると、液体の入ったビンをアリシアに向け放り投げた。
アリシアは突然のことにあわてながらも、両手でしっかりとキャッチした。
毒々しい紅色に不可思議な沈殿物が漂っている。
「これを試合当日にレオナルドさんがとる食事の中にこっそりと入れてください。当人にはくれぐれもばれないように……」
レオの敵となる相手による差し入れ、しかもこっそりと入れろと言う。
あからさますぎる罠の匂いにアリシアは怒りすら感じず、かえって茫然としてしまった。
老人の出で立ちはそれなりに知的に見え、人間関係に揉まれてきた苦労人であるように見える。
このような人間が、いたずらに仕える主君の品位を貶めるだけのマヌケな真似を果たしてするのだろうか。
「え、ええ。分かりました。当日に覚えたら入れておきます」
わけのわからない人間相手に下手に反抗したら、余計なトラブルが発生するだけだ。
この場は適当に調子を合わせて、後で怪しい瓶は捨てたらいい。
そうアリシアは考えた。
「お前さんは、その瓶を捨てようとはしないだろう。それどころか、やがては入れる方向に心変わりすることとなる」
そそくさと立ち去ろうとしたアリシアに老人は預言者のように人差し指を向けた。
「わしは人の心が読むことができる。もっとも、1から10まで全てお見通しというわけではなく、心が放つ波を水面に浮かぶあめんぼのように断片的に読みとるだけの未完成な能力ではあるのだがね。お前さんは、レオナルドの理解者の振りをしている。ひたすらに彼を善き方向に導く女神のような存在であろうと表面上は装っている。だが、心の奥底は噴火間近の休火山のマグマのようにドロドロとした情念が渦巻いている。心の奥底ではレオナルドに勝ってほしいという気持ちと負けて欲しいという気持ちが戦っている。そして、その負けてほしいという気持ちは時間がたつごとに増大するだろう」
老人はそれまでの穏やかな装いを捨て、かっと目を見開き、原稿用紙をあらかじめ準備したかのような、無駄に修辞技法に凝ったセリフをすらすらと早口でまくしたてた。
何事が起きたのかと驚いた周囲の観客の一部は2人の方へ眼差しを向けた。
向けられる好奇の視線に対して、さすがにばつが悪くなったのか老人はそそくさとその場を立ち去り、アリシアだけが残された。
(僕はレオに優勝してほしいと思っている。あんな戯言に惑わされるはずがない)
そう、自分に言い聞かせながらも、アリシアは心にずきりと重たいものがのしかかった。
『俺は彼女の前で優勝して、そして、そのまま彼女に思いを伝えたいんだ』
レオがかつて廃教会で言ったセリフがアリシアの頭の中に響きわたったのだった。