僕の微妙な感情・4
後半、一部削除してます
アンニカは黄金宮におけるしきたり通りベッドの中には入らずに、暖炉の前の革張りの椅子に腰かけて僕を待っていたようだ。でも、睡魔には勝てなかったらしい。寝息を立てて完全に眠り込んでいた。
僕は人払いを命じていたから、自分でアンニカのガウンを脱がせてベッドに入れ、ちゃんと暖かく包んでやった。それから一人でのんびり風呂に入り、軽くリキュールを飲んで大人しく寝ることにした。
体を寄り添わせると窺い知れるアンニカの夢は、少女にしては奔放で色鮮やかで興味深かったが、昨夜ほどの衝撃は無く、僕も冷静になって夢の中身を吟味していた。妄想のネタ元は官能描写のある読み物や、いわゆる春画の類らしいが、そもそもの始まりは僕とセルマの行為を覗き見た原体験なのだ。
「いやはや、艶っぽい夢を見ている割には、顔はまだ女の子そのものだよな」
僕が恥ずかしい空想や夢について承知していると知ったら、この子はどんな反応をするのかちょっとばかり興味がある。だが大胆な妄想をする一方で、妙に堅苦しい道徳やら慎みやらを表面上は纏っていなければならないと言う強迫観念も強いようだ。だから自分で自分を慰めていた事を指摘されると、慌てふためいたと言う訳だ。僕としてはちょっと恥ずかしい秘密について言及して、からかった程度の認識しか無かったのだが。自分の体を自分でどうしようが自分の勝手、そうした発想はそもそも無いらしい。
貴族社会の女と言うのは窮屈な決まりごとの中で生きているのだと、改めて思う。
亮太の友人、いや、そのうち恋人になりそうな、あのマーシャなら多分考える事は全然違うだろう。
平均的なアメリカの大学生らしく性的な経験は多少有るようだが、それを知った時の亮太の反応が心配と言えば心配だ。マーシャにとって大人への通過儀礼ほどの意味しか無い出来事だろうと思うのだが、その事に亮太がこだわるとおそらく二人の仲は壊れるだろう。僕としては、そこまで息子が馬鹿だと思いたくは無いが……
近代的な大国で生まれ育ったはっきりした自我を持った女性と、この世界しか知らない息子との関係は、僕の将来にとっても大きな意味を持つ事になる気がする。
それにしてもこのおチビさんは、僕をどこまで凄い性欲魔人と勘違いしているのやら。まあ、必要とあれば種馬役だって務めるが、丸一年近い禁欲だって出来なくもないと言うのに。
(モナ、アンニカの腹に子供は出来たかな)
答えが有るかどうかは分からなかったが、一応、そんな疑問を思い浮かべてモナに念を送ってみる。
(ん? グスタフか。多分出来たが、ダメ押ししろ。お前の子を産むのだと強く意識させるべきだ)
(ダメ押しな。分かった。なあ、モナは父上が亡くなったら、葬式には出ないのか?)
(山のように人が来るのだろう? 遠慮する。穢れた波動の人間が多い場所は、やはり体に障る。気が向いたら、一度墓の様子ぐらいは見に行くかもしれん。眠いから寝るぞ。ではな)
父上の意識のあるうちに来てくれれば、その方がもっと良いだろうが、無理そうだ。
「リチャード・ニクソンが大統領となり、ベトナム戦争は終結しました。サイゴンはホーチミンと名前を変えましたよ」
「それって、南ベトナムが北に負けたんですか?」
「そうです。吸収されたって感じですか。その後ソビエトが崩壊し、中国とアメリカが外交関係を樹立したりして、事情は大きく変化します。二十一世紀になってから、ベトナム共産党とアメリカ政府はかなり友好的な関係に有りますよ」
「ソビエト、崩壊しちゃったんですか……驚きました」
ああ、そんな話をマーシャとしたんだな。マーシャは自動車事故で両親を失くし、育ててくれた祖母も亡くなった天涯孤独の身の上だから、向こうにどうしても帰りたいと言う程の動機が無いとも言っていた。
「ポテトチップスと、ポップコーンがテオレル帝国でも当たり前に食べられるようになると嬉しいですわ」
マーシャは、その二つが大好物だとも言った。
「あと数年の内には、きっとそうなります」
「まあ! 本当に?」
「ええ。楽しみにしてください」
するとマーシャが大喜びで僕の手をギュッと握り締めたので、亮太は怒ったのだ。多分。僕はどう見たって亮太のオヤジに見えないらしいし。
「殿下? いつお戻りになりましたの? 申し訳ございません」
紫の瞳が大きく見開かれて、考え込んでいる僕の顔を見つめていた。
「ああ、帰りが遅くなってゴメンよ。風邪はひいてないよね?」
「はい。おかげさまで、大丈夫なようですが……何をじっとお考えでした?」
「父上の事と、亮太の事かな」
「リョウタ殿ですか」
「うん。アンニカとは一歳違いか……初めて亮太の友人である女性を紹介されたんだが、その女性は僕が前世で暮らしていた世界から来た女性だった。ただ、時間がずれているみたいで、生まれた年から換算すると彼女は僕の祖母に近い年頃って事になってしまうんだ」
「どこかの貴族の女性ですか?」
「皇帝も王も貴族も存在しない非常に大きい豊かな国の生まれで……立派な大学で学んでいた人だが、トリアでの身分は平民だな」
「皇帝も王も無しに国を治めるって……そんな事、本当にできますの?」
「君の父上が昔、スコウホイを帝国から独立させて、王も貴族も無い国を作ろうとして、ちょっと物騒な事を色々やったんだが……そのいきさつ、聞いているかな?」
「両親は全く話してくれませんでしたが……厩番や庭師の爺やたちからがこっそり、教えて貰った事が有ります。殿下が父の謀反の罪を特別にお許しになり、母と結婚させて下さったと聞きました」
「アンニカの父上は昔、ネードの鉄鉱山を爆破するために大量の火薬を買おうとした事があったんだが、その店が僕のよく知っている店でね、そのおかげですぐに計画がばれた。はかりごとには全く向いてないな、あの人は。ああ、この件は皇帝陛下と僕以外、黄金宮で知る者はいない極秘事項だから、そのつもりでね」
「なぜ、父をお許しになったのですか?」
「当時の帝国はスコウホイの人々に恨まれても仕方の無いような事を色々しでかしていた。重い税をかけたり、無理やり強制労働に狩り出したり……赴任した地方官が酷いのばかりだったのだよ。そこで、まともな役人を着任させて、滅ぼされた王家ゆかりの者にスコウホイを治めさせたら、万事上手く行くのではないかと、僕は考えていたんだ。そんな時に、君の父上は世が世なら、スコウホイの王太子とも言うべき人だって判明してね、ちょっと学問のやり直しなんかをして貰ってから公爵にした、そういう訳だ」
「母は……もともと殿下の側妃候補だったと聞きました。自分が至らない、あるいは殿下が全く自分に魅力を感じておられないから、父との結婚をお膳立てなさった……母は今も時折そのように考えるようです」
「ウルリカは自分でクヌートと結婚するって、僕に宣言したって言うのに、娘にはそんな風に言うのか。はてさて、女心は難しいねえ」
ウルリカは自分を高く評価してくれる相手を求めていたと思う。当時非常な美少女で、庶子とは言え大宰相の愛娘であっただけに自信にあふれてもいた。だが、僕は確かにそうした幼稚な自尊心に対して冷淡だったのだろう。まだ十二歳かそこらの子供に、そこまで気を遣う必要性を感じなかったからだが。
やがてウルリカなりの半ば無意識の手練手管にあっという間に嵌ってゆくクヌートを見るに及んで、僕が敢て彼女を側妃にする必要性も感じなかった。そう言う事なのだ。当時の僕にとって、やはりユリエこそが一番の女性であったし、今でもセルマが「自分は二番手だ」と拗ねているが、確かに根拠の有る事なのだ。ウルリカは僕の側妃になったって、良くて二番手、下手すると三番手のポジションになりそうだと感じて、愉快ではなかっただろう。ウルリカから自発的にクヌートとの結婚を切り出したのは、幼いなりに悩んだ末の結論であった……そう言うことだろう。
で、そこまで特別に思ってきたユリエだが……遠く離れた今の状況は、やはり僕としては不本意だ。
ユリエには僕の個人的な資産の内、帝国の外の物はすべて管理を一任している。
「私が怪しからぬ考えを起こして、横領してしまうかもしれませんよ」
一度ユリエにそう言われた事が有るが、僕としては心外だった。
「ユリエに全部上げても構わないと思っているんだ。だから、好きなだけ使いなさい。それを横領なんて僕は思わないし、誰にも横領だなんて言わせない」
ユリエの高い能力と見識と僕に対する気持ち……そのすべてを今も信じているから、ユリエの生きている限り、ミズホやミッケリ、新大陸に投資され運用されている資産もすべて、ユリエに任せておくつもりだ。
ウルリカは可憐で優雅な自分を演出するための教育は十分に受けたが、国家の運営や財政・福祉といった方面の教育は一切受けないままにクヌートの妻となった。それからは彼女なりに随分と努力し、良き領主の妻となったのだが……それは、僕のユリエに対する深い信頼の有りようが何に由来するかを観察した成果も反映していたのかもしれない。
ウルリカは諸々の『反省』なり『学習成果』なりを反映させて、このアンニカの養育にあたったのだろう。この子は、自分が多くの人の運命に大きな影響力を及ぼしうる存在なのだと強く意識して育ってきたようだ。更には多くの人間の視線や感情を受け止めても、たじろがない強さも有る。
その夜、僕らはスコウホイの民と巨大な鉄鉱山について夜明け近くまで話をした。大体において僕が教師役だったが、スコウホイの人々の反応やモナを崇拝する極北の民とのふれあいや民話や言い伝えについては、なかなかにアンニカも雄弁だった。
「そうしたわけで……モナ様は、やはりスコウホイの神なのだと私も思います」
「君の両親はモナの言葉を信じて、君を僕に委ねたんだろう」
「皇帝陛下は、どうお考えだったのでしょうか? 殿下の御帰国間も無い内の挙式でしたから、ちょっと驚きましたが」
「父上はモナの言葉を信じているのだよ。実際、モナは嘘などつかないからね。そうそう、その『殿下』って呼ぶの、そろそろやめなさい」
「では、どうお呼びすればよろしいのでしょう?」
「名前を呼びなさい。夫婦の契りも交わしたのだから」
「はい……そのう……」
「まだ、実感が不足かな?」
アンニカは全く性的な事から意識が遠のいていたのだが、僕の『奇襲攻撃』を受けて、本人としては予想外に大きく反応したようだ。
「ああっ、は、はずかしい」
「もうれっきとした夫婦なんだから……全部、夫である僕に見せるんだ」
「……お笑いに、なっちゃ、いやです」
形の良い眉が戸惑いによじれ、上気しきったまぶたの奥に濡れた紫の瞳が揺れる。可愛い唇がしどけなく緩んだその顔はもはや少女のものでは無かった。
しかし一夜明けて身じまいを正し、僕と一緒の朝食の時間を迎えると、昨夜とは打って変わった幼いながらも貴婦人らしい優雅な挙措動作を見せるのだった。
「アンニカも『帝国研究院』にでも行ってみたらどうだろうな。本も揃っているし、興味が湧けば勉強会やセミナーに参加するのも良いかも知れない」
「そのような事、お許し下さいますの?」
「色々勉強してみたい事は有るのだろう? なら、勉強すれば良いさ。ああ、ただし護衛はちゃんとつけておくのだよ。誘拐でもされたら大変だからね」
「はい。ありがとうございます」
『帝国研究院』に出入りする連中の中で、すでにその優れた知性と斬新な発想で一目置かれるようになっているらしいマーシャとの接点も自然にできるだろう。
これからの帝国の運営を考えると、皇后が母上のような古いタイプの貴婦人では困る。アンニカには国の将来を見据えて自分の立ち位置を定められるような皇后になって欲しいものだ。僕には既に跡取り息子もいるのだから、子供についてあれこれ悩む必要は無いと思っている。縁が有れば、幾人か子に恵まれるだろうし、全く生まれなくてもそれはそれで構わないと、僕は思う。
まあ、でも、モナが「多分出来た」と言うからには、一人ぐらいは生まれるのだろう。
それにしても、モナはなぜ、チャスカとアンニカの懐妊を同じ年にするように僕に告げたのか。生まれてきた子供同士が密接にかかわりあって育つ方が良い結果になる、そういう事だろうか?
朝食後の茶を、新婚夫婦らしくゆっくり楽しんでいた所、急にあたりが騒がしくなった。
「殿下、お急ぎください。皇帝陛下が……」
侍従でもメイドでもなくイヴァル・ケニングが血相を変えて現れた所を見ると、今度こそ本当にいけないのかも知れない。僕は覚悟を決めた。