僕の大航海・4
ベースキャンプがほぼ富士山五合目と言う高さだったから、この高原地帯は海抜四千メートル前後だろう。地球で言えばアルティプラーノと呼ばれる、ペルー南部からボリビア・チリにかけて広がる高原地帯に相当するエリアなのだろうとは思う。寒くて乾燥してところどころ緑で大半は茶色っぽい草原が続いている。薪とかなり性能の高い寝袋を用意しておいて良かったと思う。
チャスカとキリャは大抵夜は、特製の大型寝袋に母娘で一緒に寝ている。むずかると乳母が温かいように包んで、抱っこして寝かしつけるが、あまりキリャは大人を困らせてはいない。授乳とおむつの替え時を知らせる時に泣くだけで、あとはスヤスヤ寝るか、移りゆく景色を一生懸命見ているかだ。昼間は僕が抱きかかえて馬に乗ることも有る。手で抱えるのではなく、幅広いしっかりした布を使った地球なら「ベビースリング」と呼ぶような一種の抱っこひもを使う。帝国ではそういえば見たことが無い。トリアの連中は僕が娘を抱っこして、こんな風に馬に乗るのを見たら驚くかもしれない。どうやらこのベビースリングも、この土地の土産の一つになりそうだ。
大抵はカンガルー抱きと言うのだろうか、キリャが僕と同じ前方を見やすい恰好にしている。キリャは真剣に外界の様子を見る。意識に流れ込む言葉や情報が、この子の中でどう根付いていくのかはっきり分かるのも父親としては興味深い。ともかくも、僕は頼れる庇護者であると認識されていて、「大好き」らしいから先ずは父親として合格だろうか。
探検隊の手前もあって、僕はチャスカに触れる事は滅多にしない。夜もこうして寝袋を並べ、互いの顔に手で触れたり、眠りにいる前に額に軽くキスする程度だ。それでも僕もチャスカも気分は穏やかだ。高地の所為か体全体が何となく出力を押さえるモードに入っていて、昼間の歩き方も高山病を警戒してトボトボという感じのスピードなのだが、それが何か影響しているかもしれない。
「神域ですから身を慎んでおられる」とヤガー君は解釈しているし、他の大方の隊員は「自分たちに気を使っておいでだ」と感じているらしいが、そんな事でも無いと思う。
チャスカとキリャが僕の右側で、ヤタガラスが僕の左で寝ている場合がほとんどなのだが、このヤタガラス、この土地に来てから深く眠るらしい。夢も見ないでぐっすり寝るそうな。
「夢を見るのも、しばらく休んだ方が良いんじゃろう」
この言葉の意味が、この時点では僕には良くわからなかったが、あとで大いに理解した。
ともかくも、男全員が交代で火の番をしながら無事に夜が開けると、簡単な朝食を取ってまた道を進む。昼もごく簡単なものだったが、この日は特別に全員にドライフルーツとナッツ類が支給された。各人の体調に応じて、ゆっくり食べるように僕からも言っておく。日が暮れる直前、ヤタガラスが叫んだ。
「見ろ、あれだ。すぐそこだぞ」
なんとなく意識も体もゆっくりモードなのだが、ヤタガラスの興奮はすぐ僕にも伝わった。
「あれが、天空の鏡か!」
夕日に輝く水面は、確かに大きな湖だ。場所がこんな高地でなかったら海の入り江か何かと勘違いしそうだ。僕らを見て、慌てふためく地元の男と息子らしい少年にヤガー君が声をかけた。馬を見るのも、髪が黒くない人間を見るのも初めてで、化け物か神かわからないがともかく逃げようと思ったらしいが、ヤガー君の言葉は理解できるらしく、落ち着いてはなしてくれた。驚かして気の毒だったので、布を一枚やると、今度は大喜びしてくれて、自分たちの村に来いと言う話だった。魚の網を持ち、取った魚は上手い具合に草を使ってまとめ、手に提げて持っている。かなり大きなマスを思わせる魚だった。
「魚を取って干し魚に加工し、それを持って麓で交易して必要なものを得るようです」
ヤガー君の言うように、村中の家で、干し魚を作っているらしく、村全体にその匂いが充満している。いわゆるトトラなのだろう。葦の仲間の植物が湖岸周辺に大量に群生している。村人はその葦を編んで船を作り、家の屋根を葺き、壁を覆っている。火をたくのも葦を使う。
「どうも、この匂いでは眠りにくいですな」
一般的には帝国やワッデン・ミッケリの人間にとって、干した魚の匂いは食欲をそそる匂いではないのだ。焼いた干し魚はそれでも食べるが、塩辛や馴れずしに近いタイプの発酵食品は全部『ひどい悪臭』としか感じないのだろう。僕は塩辛の方はどうにか茹でたジャガイモと一緒に食べたが、馴れずし的な保存食の方は無理だった。チャスカとヤガー君は平気で食べていた。
呪い師だと言う老人が、僕に触れたあと、大声を上げて、いきなりあの大げさな五体投地風の礼を始めたのは、ちょっと面食らった。それから荘重な調子で村人に演説している。
「殿下を『偉大な方だ。光に満ち溢れていて、人の理も越えた方だ。湖のあの島にお入りになる方だ』と皆に説明しております」
ヤガー君の言う通りなのだろう。村人全体が僕を崇め奉る感じで幾度も礼を繰り返すので、やめてもらう。
そして人間の客としての扱いを頼み、翌朝、湖の島に行くための船を出してほしいと頼んだ。
「無論、村で一番大きくて立派な船をお出しする、そう言っています」
結局僕らは野宿した。小さな村だから迷惑になると言うのが表向きの理由だが、皆が魚臭いので逃げたと言うのが本当のところだ。翌朝出してくれた葦船は、なるほど、なかなかにしっかりして、形も綺麗だ。
村で一番の漕ぎ手だと言う男と、僕とチャスカ・キリャ、そしてヤタガラスが乗り込んだ。皆は岸辺で待つことになる。僕のいない間に、意外な客人が来ることになるとはこのときは全く考えもつかなかったが。
湖面はまさに鏡のようだった。稀に魚の気配がしてさざ波が立つほかは、朝もやが立ち込めているばかりだ。今日は申し合わせて村人は漁を休んだらしい。キリャはスヤスヤとチャスカの腕の中で眠っている。静かに葦船は進み、やがて奇妙な形の巨大な岩が見えてきた。球を半分に切った形で真っ黒だ。周りに小さな白い砂浜が有り、船が付いた。
「船には離れてもらった方が良かろう」
ヤタガラスの考えでは普通の人間に見せるべきではない事が、これから起こると言う事らしい。
「一応、夕方に迎えに来るはずだがな」
食料と水を下ろしてもらい、僕が夕方にまた来てくれるように頼むと、男は理解してくれたようだった。
船影がもやのかなたに見えなくなってから、僕らは浜から大岩の前に立った。すると、いきなり僕らは岩をすり抜けて、中に入ってしまった。内部は立方体の上下左右すべてが、乳白色の不思議な弱い光を発するパネルで覆われた部屋だった。真ん中に巨大な流線型のカプセルみたいな物が有る。
「何じゃろう、これは。中に人が寝るのか? 大きさからして、大人二人はきつそうじゃがのう」
ヤタガラスの言葉に反応するようにして、いきなり、ルンドの管理者を名乗る爺さんが現れて驚いた。
「驚いた。お久しぶり」
「久しぶりじゃのう。そのカプセルはチャスカとキリャが入るための物じゃ」
「入るとどうなるんだ?」
「超高速睡眠学習というところかの。グスタフが関わるすべての国の言語を自在に話せるようになるぞ。もっとも、キリャは話をしはじめるまでは効果は表には現れんが」
「じゃあ、僕は?」
「積もる話と言うのも有るしの。ああ、ヤタガラス、あんたはもう、外に出てくれて構わん。ここではやる事も無いしの。先に岸辺に戻ってくれた方が良いかもなあ」
「何じゃあ、その言い方は。わかった。言われた様にする」
ヤタガラスはふくれたが、爺さんの言葉に従い、岸に戻るように鳥の姿になった。
「客人がおるからの、もてなす手伝いをしてやれ」
「お客さん?どんな人かな?」
僕は不思議に思ったが、ヤタガラスに任せておけば良いとの事なので、話を切り上げた。
「さてチャスカ、あんたの娘と一緒にこの中で寝てくれんかの?」
爺さんはカプセルの蓋をあけて、チャスカを手招きした。
「はい」
チャスカが素直に、爺さんに言われたようにキリャと頭を並べて横になると、カプセルのふたが閉まり、二人の姿は確認できなくなった。
「なあ、二人は大丈夫なんだよな。まさか何かショックでおかしくなるとか、無いよな?」
「まあ、まず有り得んな。さあ、お前はこっちじゃ、グスタフ」
カプセルの脇も素通りできる壁で、抜けると天然の灰色の岩の洞窟と言った感じのスペースに出た。
「あの真っ白い部屋は、本当は壁も何も無いのか?」
「まあ、そんな所じゃ。この岩は本物じゃがのう。ほれ、こいつ、久しぶりじゃろう。次回はお前が出現させたい場所にこいつを出せるはずなんだがのう」
「じゃあ、次回は黄金宮の敷地内とかに願いたいもんだなあ」
「余人の目は避けねばいかんぞ。力の無いものが触れると、うっかり異世界トリップじゃからの」
「地球にか?」
「そうなら良いが、通常の人間が生き残れない様な成分の大気や重力の世界に放り出されれば、即死じゃ」
「そんな世界が有るのか」
「有るんじゃ。さて、色々有るじゃろう、知りたい事が」
「考えてみれば、今日は井沢亮太が亡くなってから満三十二年、つまり三十三回忌に当たる日じゃないか。前回の話だと、僕が皇帝に即位してから領内のどこかにこの石は出現するって話じゃ無かったか?」
「この石に触れて以降、伝説の金の笏をグスタフに渡すからのう、ここは嫌でもグスタフの領地になる。ここはまあ聖地じゃから、近隣のどこの国が領有してもトラブルの元なんじゃよ。グスタフのおかげで、あの皇帝の寿命がちょっと延びたのも原因の一つじゃがな」
どうやら僕の行動次第で、多少は運命の予定コースがぶれるらしい。
「この運命のぶれ方は、好もしいのか、まずいのか」
「お前が優秀なんじゃよ、ここが領土になるのが、予定より早まった、そういう事じゃ」
「何をすると優秀で、何をするとアウトなのかわからんけどなあ」
「善悪の基準は、地球もここも大差無い。まあ、まじめに良心的に仕事に励んだのが高評価につながった、と言う所かのう」
「いちいち人のやったことを評価するなんて、鬱陶しい話だなあ。それにしても、どんな神様が出現するかと思えば、ガックリだよ。高評価だろうが何だろうが、やたら広い領土を持たされても面倒だし、最近は適当な所で死んでもいいような気もするんだ。僕も」
「なんじゃあ、ユリエの所為か?じゃが、美保の転生は確定事項じゃぞ。それまで待てんか? 息子にでも役目を譲るのか?」
「そうしたい気分だ」
確かに……ユリエの老化と僕の奇妙な不老の状態が噛みあわず、苦痛なのは確かだ。チャスカの将来の生活に関して、ある程度見通しが立てば、僕が先に死んじゃっても良い様な気がする時も有る。
「アンニカのほかに、後幾人か面倒を見るべき女子がおるのに、予定が狂うとこちらも困るんじゃ」
「御免こうむる、と言いたい気分だ」
「そう言うな。気立ての良い美人ばっかりなのに、贅沢な奴じゃのう。まだ、石にも触れておらんだろうが」
「はいはい」
僕は黒い石の台座の上のブリリアントカットを施したダイヤみたいな形の光る石を見た。
「前回より、パワーアップしてるのかな、これ」
「そうじゃ。帰国したらすぐ即位だろうしな」
「おい、それじゃあ、今の父上の……」
「死に目にはちゃーんと会えるようにしてやる。喪が明けたら、アンニカと結婚式じゃな」
「ハア……面倒臭い。美保が転生するまで、どっかでコールドスリープ状態にでもなるとか、出来ない?」
「それでは、お前が転生した意味が大いに損なわれて、美保ちゃんも気の毒な事になるぞ」
「どんな事さ」
「わしもよう知らんが、良いことは無いのだけは確かじゃよ」
「ケッ、いい加減な爺さんだ。わかったよ」
僕は半ばやけくそで、床に座り込んで光る石に触れた。
おや? 確かに僕の家だが……屋根がグレーのスレート瓦だったのがモスグリーンに、外壁が白から淡いクリーム色に変化している。ハゲのデブオヤジが門を開けた。ああ、弟じゃないか。しっかし……老けたな。考えたら、弟も五十歳を過ぎている。どうやら弟と妻は僕の母と一緒に暮らしているようだ。門を開けて迎えたのは、成人した甥と姪らしい。しかもそれぞれ結婚して、子もいるようだ。
「それにしても兄貴の二十七回忌を省略したら、当日親父が亡くなるなんて、あの時は驚いたよ」
「亮太が呼んだかもねえ」
「写真見ていつも思うけど、亮太伯父さんってハンサムね。兄弟なのにお父さんとは大違い」
「兄貴は二十二歳だぞ、生きていたらやっぱり腹は出て禿げていたはずさ」
父は、やはり亡くなったようだ。母もめっきり老け込んでいる。もうあまり長くは無さそうだ。やってきた僧侶は僕の見覚えのない人だった。いつも来てくれていた和尚の跡取り息子らしい。話題も僕より甥や姪の暮らしに関することがほとんどで、美保の話は全く出なかった。法事自体、僕の三十三回忌より父が主体だ。完全に代替わりして、僕の地球での居場所はもう無くなったのだと、嫌でも実感させられた。
美保かあ。今更見ない方が良いだろうか? だが、やはり僕は美保が気になったみたいだ。自覚は余りもう無かったが。あちらはあちらで、こちらはこちらと思いながら、やはり気になってしまうみたいだ。
「ああ、よしよし。今お祖母ちゃんがミルクを作るから、ちょっと待ちなさい」
おむつを替えた後、赤ん坊に声をかけて、台所に立つ美保。文字通りお祖母ちゃんなのだろう。どこかのマンションの一室と思しき所にベビーベッドが置いてあり、中で赤ん坊が泣いている。美保は急いでミルクを作り上げ、戻って来た。
「お母さんはお前を早く保育所に入れるって言うけどね、こうやってお祖母ちゃんが面倒も見ても良いと思わない?」
赤ん坊は何か意味不明の声を発して、美保の言葉に続けた。
「そうよねえ、お祖母ちゃんと一緒の方が、良いわよねえ」
美保の夫はどうなったのか気になった。ふと見ると小さな洋風のキャビネットみたいな仏壇にどこか見覚えのある男の写真が有り、位牌が有る。赤ん坊に向かって「仏様のお祖父ちゃん」などと言う事を話しかけているから、夫は割合と早く亡くなったらしい。そこで画像は消えた。今の美保がどうやって生計を立てているのか、子供らは皆独立したのか、詳細まではわからなかった。
「父が亡くなっていたんだな。美保は、孫の世話をするお祖母ちゃんだった。姿を見たと言う事は……」
「縁は途切れておらんよ」
「そうか。苦労したみたいだったな。手が荒れていたし、服は質素でアクセサリーもしてなかった。表情は穏やかで明るかったけどね」
「魂の錬成には苦労も必要なんじゃよ」
「美保も、いい迷惑だろうなあ。生まれ変わったりしても……」
「それは違うと思うぞ」
どう違うのか、爺さんの言葉には説得力が無い。
「なあ、さっき、ヤタガラスに客がどうのって言ってたな。どんな客なんだ?」
「会えば分るさ」
全く、今度はどんな面倒事が降ってわいたのだか……僕は思わずため息をついた。