僕の大航海・1
チャスカが僕の三女キリャを産んだのは、ヨハンとコルネリアの息子・エリクが生まれた二月後だった。セルマは病で寝込んだ母のグラーン侯爵夫人の看病に専念したいと言って、女子修道院にこもった。
侯爵夫人のサロンに集っていた連中は、近頃ではイヴァル・ケニングかヨハンの邸で行われる勉強会に集まる事が多い。有閑マダムの暇つぶしと言う感じはぐっと薄れて、学者・研究者の情報交換会という色彩が強まった。僕は公費で新たに研究機関というか、シンクタンクともいうべきものを立ち上げて、様々な人材が比較的自由に集まって、研究活動ができるようにした。僕は意識的に設立メンバーには女性を十名投入した。黄金宮に勤務する全職員に『尊敬できる女性を三名上げよ』とアンケート調査を命じて、名前が挙がった中から、僕と個人的な関係の無い女性ばかりを選んだ。残り二十名は僕が信頼している、あるいは尊敬している男性だ。
仮に『帝国研究院』と名付けたこの機関の正式メンバーになるためには、現在の会員の三分の二以上の賛成が無ければいけない。それだけが唯一の資格で、人種も宗教も年齢・性別も問わない。
正式メンバーでなくても、研究用の図書類は閲覧できるし、セミナーや討論会・勉強会も自由参加なのだ。後に『帝国研究院』は、僕自身が期待したよりはるかに大きな役割を果たすようになる。
「恐らく、母上は御自分の感情が上手く整理できないのですわ」
セルマのひきこもった理由については、セルマの産んだ長女ルイサが言うように、セルマ自身、湧き起るあまり美しいとは言えない数々の感情を扱いかねているのは確かなようだった。何しろチャスカの懐妊がはっきりすると、すぐに黄金宮を出て行ったのだ。
セルマは怒っていたが、誰に何を言うべきか言わざるべきかで混乱もしており、そのくせ、心を読めない者なら気が付かない程、表面はとりつくろっていた。あれでは、余計にストレスが溜まっただろう。僕が不誠実で浮気者だと直球で文句を言ってくれれば、素直に謝ってもみせただろう。だが、何の落ち度もないチャスカを貶める様な言動を取りがちなので、僕としてはフォローも出来ないのだった。
一方でユリエは一度帝国に戻ってきて、僕のためにも色々仕事をしてくれたが、自分で言いだした「御褥すべり」状態は維持された。遠慮がちに、未練がましく僕が申し出ても、きっぱり拒絶された。そのくせ、かつての姉のような保護者のような優しさは強まったようで、チャスカが生んだ娘・キリャの養育と保護についても細やかに配慮してくれた。レーゼイ商会の力も使って、ミッケリでチャスカの故郷の人間を十人探し出し、奴隷となっていたものを救い出し、帝国に連れて来たのだ。彼らから得られた情報からしても、やはりチャスカは、かつてのワルパ王国の王族の末裔であるようだった。救い出された十人は、探検隊と共に船に乗り込み故郷を目指す予定だ。
小さなエリクが生まれると、入れ違いの様に大宰相エリク・ベルワルドは息を引き取った。聞く所によれば、大宰相は死の前日まで僕に依頼されていた回顧録を書きつづり、無事完成させた。そして上機嫌で気に入りのリキュールを飲み、代替わりして父親の仕事を受け継いだばかりの若い執事と四方山話をし、上機嫌で「おやすみ」と言ったらしい。その後あまりに大きないびきが聞こえるので、若い執事が様子を見に行った所、既にこと切れていたと言う。
僕とヨハンも急死の知らせを受けて駆けつけたが、その死に顔は満足げで口元は微笑んでいるようだった。
「色々有ったけれど、悪くない一生だった、そう思ったんでしょう」
「こうして見ると小さなエリクは、お祖父さん似のような気がしないか? そのうち大宰相と呼ばれるようになったりしてな」
「さあ、どうでしょう。でも、兄上の御世を支える力になれるような男であって欲しいです。この人が今の陛下の御世を支えたようにね」
僕は若い執事から受け取った大量の原稿を、早速出版するための準備を始めた。
小さなキリャを連れて行くべきか、否かは難しい問題だった。以前のモナの話しぶりでは、キリャ自身も先祖の故地で神霊の加護を受けた方が良いようには思われたが、さして大きくも無い船で、数か月に及ぶであろう大航海に耐えられるかが心配だった。
悩んでいる時、僕が真っ先に相談したいと思うのは、今も変わらずユリエなのだ。そこで、相談を持ちかけると、こんな風な返事が返ってきた。
「普通なら、おやめなさいませ、と申し上げるところでしょうが、特別な神霊の関わる事情も有りそうですから、モナ様とヤタガラス様の御意見に従われてはいかがでしょうか?」
ユリエのその言葉は、もっともに思われたので、モナとヤタガラスの意見を聞くことにした。モナには鏡越しにまずは相談をする。するとモナにしては非常に珍しい事を言った。
「一度、直接その子の顔を見てやろうよ」
「僕がスコウホイ領内に、キリャを連れて行けば良いのかな?」
「真冬の間は、お前の所でも行けぬ事は無い。ただし、食事は狼らしくさせてもらいたいんだが」
「父上には……会ってくれないか?」
「んー、もうすぐ寿命か。だが、お前の娘に護りの呪いをかけるのが目的なのだからな。場所をグスタフの住まいにするなら会わんでも無い。手短にだぞ。どうも性の合わん波動があの男の周辺には多そうでな」
モナにかかると、実の父親も『あの男』なのだ。
ヤタガラスに言わせると、モナの護りの呪いを受けた後なら、大航海も乗り切れると言う。航海ルートを、ミッケリの連中が全く知らない西海岸に向けて定めろとも言った。
「ミズホで一度、一月ほどゆっくり休むのじゃ。グスタフに付き従う者すべて、船員にも探検隊の皆にも我の加護を十分に与えてやれるからのう。そこからはおよそ六十日の航海となろう」
ヤタガラスは未知の航路を確かなものにするために、キリャが生まれてから既に二度、ミズホとの間を往復していた。ミズホに渡ってくる各地の鳥たちから情報を集めてくれたのだ。そして僕は更に正三郎をミズホに遣わし、既にムサシの港に技術協力して出来上がっていた大型船の為のドッグを、探検隊のために十分使えるように準備させておいた。
その後、寒い日にモナが本当にやってきて、僕の住まいで父上に会った。
「父とも娘とも思えんのだが、出来の良いグスタフという弟をこしらえてくれた事は、感謝する。穢れの波動が多すぎて、これ以上は耐えられん。失礼する」
父上との面会の時はそんな言葉を残して、モナは逃げたのだ。よほど不快な波動らしい。
「穢れているか。そうかも知れんなあ」
そうおっしゃって、父上は余りに素っ気無いモナの態度に、大いに落ち込んでおられたが、それでも会えてよかったとはお考えのようだった。
モナにとって、よほど父上との面会が気力を削がれる出来事であったようで、その後丸一日狼の姿に戻り、狼らしく新鮮な生肉を食べて気力を養った。キリャに呪いをかけるには必要な事であったらしい。その様子を見聞きしても、チャスカは騒ぎたて無いでいてくれたので助かった。他のメイドや侍従たちは怖がって寄りつかないのだ。モナの癇に障ると困るので、モナの滞在中は休みを取らせた。
白い狼の姿のモナは神秘的で美しい。真っ白い毛並みのモナと互いの体が密着していると、テレパシーでも言葉でも簡単に意思が通じ、互いに楽なのだった。
(お前の父親と言い、召使いと言い、つくづく鬱陶しい波動がまとわりついておるのう。それに引き替え、このチャスカは清々しい。悪くないのを見つけたな、グスタフ)
(スコウホイのアンニカはどうすべきかな?)
(戻ってきたら、さっさと娶れ。何、チャスカなら大丈夫だ。次のお産はアンニカと同じころが良いぞ)
そんな事を言うが、チャスカだって、セルマのような嫉妬の感情が生まれるのではないか? 僕は心配だったが、モナが大丈夫と言うからには、大丈夫なのかもしれない。
(そうか……わかった。それにしても、お前の父親って、モナの父親でもあるだろうに)
(父、などと言う存在ではないなあ。せいぜい種のもとだったもの、と言う所かの。あの男の寿命は持って再来年ぐらいかな。あの男に何か聞いておくべきこと、片付けておくべきことが有るなら、早い方が良いぞ)
帝国の老貴族が聞けば目を回しそうな事を、平気で言っている。さすがの僕でも御自身の寿命に関する話をモナがしていた件は、父上に伝える事が出来なかった。
ともかくも気力を充実させたモナは白い狼の姿で、生まれて二月とたっていないキリャに、護りの呪いをかけた。僕とチャスカが体を寄せ会い、四本の手でキリャをモナの眼前に差し出すと、モナの狼の目から不思議な銀色のオーロラのような光が出て揺らめき、キリャを覆ったと思うと、やがて消えた。
それから人の姿にモナはなった。チャスカと直接話す為らしい。
「のう、チャスカ、キリャとは月か?」
「はい、つきのめがみさまです」
「良い名だ。その名のおかげで、我が護りは強まった。あちらでキリャの婿が見つかるぞ。婿はしばらくグスタフの手元であれやこれや仕込むべきだろうが、悪くない婿だ。キリャは婿の国の民の力になるが、帝国には強すぎる。無理に帝国に留めると、皆が不幸になる。チャスカに次の子が授かったら、婿の国にやる支度をはじめるのだ。婿が戻る時に、一緒にキリャを送り出せ。それまでは十分に慈しんでやるのだぞ、良いな?」
「はい、きっと、そのようにいたします」
チャスカの誓う言葉を聞くと、安心したらしい。
「キリャがどれほど愛らしくても、本来はかの土地の祖霊に愛されるべき魂なのだ。無理に帝国に留めるなよ、グスタフ。ではな」
念押ししたぐらいだから、よっぽど可愛い子になるらしい。言うべき事だけ僕らに伝えると、モナは狼の姿に戻り、冷たい冬の闇に溶けるようにして去って行った。
狼の遠吠えが聞こえた。モナだ。それに呼応する狼の声……兄弟たちだろう。僕も父上も黄金宮の庭園内部の森で狼を見かけても、絶対に騒ぎ立てずそっとしておくようにと、一兵卒に至るまで十分に伝えた筈だから、兄弟狼に危害は加えられなかっただろうと思う。
「おまえのおむこさんは、いんてぃなのでしょうかねえ、どうかしらねえ、たのしみねえ」
チャスカはニコニコしてキリャに語りかけている。
「インティというのは? 」
「つきのめがみである、きりゃのおっとの、たいようのかみです」
「チャスカはキリャの婿が、そのインティの名を持つか加護を受けた男だと思うの?」
「かご……? ああ、たぶん、そうです。ゆめをみましたから」
「夢? どんな夢?」
「うつくしいおとめにそだったきりゃが、そらをみあげると、おうごんのくもからひかりのつぶがふってきて、きりゃがみごもるのです。するとてんちのものが、おおよろこびする、そんなゆめです」
地球には雲雨の交わり、なんて言葉もあったっけ。黄金色の雨となって、美しい王女に降り注いだ浮気な神様の話も有ったなあ。モナには「キリャの婿を見たら、グスタフにはすぐにわかる」と言われた。複雑だ。僕が帝国に連れ帰って多少その婿を教育することは出来る様なんだが……やっぱり一夫多妻が前提の夫なんだろうなあ。自分の事は棚に上げて、気が進まない。だが、成るようになるのだろう。他人がどう思おうと、キリャ本人が幸せで居られるならば、それで良いのだが。
キリャも連れて行く事を前提に、探検隊の準備は着々と進められた。ともかくも父上が御健在の内に、やるべきことを終えて、帝国に戻らねばいけないのだ。無論父上の御寿命の話は誰にもしてはいないが、母上・大宰相は既に亡くなり、グラーン侯爵夫人が病床に就いた。次は父上だろうと考えているものも多い。
ともかく、残された時間はさほどないのだ。
ナウム・タトリン設計の新造船が無事に完成して、乗組員と探検隊のメンバーがしっかり決まった段階で僕は三十一歳になった。船の名前はモタ修道士の「ティクシ・イリャ号で決まりじゃないですか?」という発言で決まった。
ティクシ・イリャ号は木造の帆船としては小型だが、近海を試験航海した船員たちの感想では、技術的には最高水準で操作性に優れているらしい。僕が前世のうろ覚えの知識もあれこれ披露して、それを専門家たちが考えた末に出来た船だったが、出来上がった感じは進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの乗っていたビーグル号に似ている。
「縦帆と横帆の最適な複合は長年の課題でした。この船で一つの完成型を作り出せたように思います」
こう言ったナウム・タトリンは、未知の大陸までは乗って行かないが、ミズホまでは同行する。
探検隊は総勢六十人、探検隊に加わらない船員が十人、ナウム・タトリンのようにミズホまで行くものが五人、僕とチャスカと娘のキリャと乳母と侍女役の乳母の娘で五人、総勢七十人だ。探検隊隊長はモタ修道士で、ヤガー君は副隊長だ。全員武術の心得と複数の外国語がわかる事、自然科学的な興味が強い事、精神的にバランスが取れている事を重視した。いかに優れていても特定の人種・宗教に偏見の強いものは排除した結果、ミッケリの出身者は僅かに四名で、あとは帝国・ワッデン・ミズホの者がほぼ均等に採用される格好になった。正三郎はミズホから乗り込む予定だ。